六幕 同じものを見る
男の視線が、人魂と宗吉のあいだを何度か往復した。
どうやら向こうも、宗吉に人魂が見えているのか確かめているらしい。
宗吉は飯を食べた。
男から目を逸らす。
汁を飲む。
少しして、また見た。
まだこちらを見ている。
――何だろうな。
こちらから声をかけてもよかった。
同じものが見えているのなら、少し話してみたい。
昔から見えるのか。
この町で、ほかにも何か見たことがあるのか。
あの人魂を何だと思うのか。
聞いてみたいことはいくらでもあった。
ただ、見た目にはひどく近寄りがたい男だった。
宗吉はもう一口、飯を食べた。
――向こうから来ねえかな。
そう思ったところで、男が立ち上がった。
自分の膳を両手で持ち上げる。
宗吉は箸を止めた。
本当に来るらしい。
男は膳を持ったまま、小上がりをこちらへ歩いてきた。
狭い飯屋では、男が一人通るだけで、周囲が少し窮屈になる。
途中、向こうから一人の客がやってきた。
二人がすれ違う。
肩がぶつかりそうになり、相手の男が身体を引いた。
「おい、気ぃつけろよ」
少し苛立った声だった。
大柄な男の足が止まった。
さっきまで人魂を眺めていたときとは、顔つきが違った。
表情そのものは、ほとんど動いていない。
ただ、目だけが冷たくなった。
「誰に言っている。お前が気をつけろ」
低い声だった。
大きくもない。
怒鳴りもしない。
けれど、相手の男は一瞬黙った。
大柄な男は、膳を持ったまま相手を見ていた。
「……ちっ」
相手は小さく舌を打った。
それ以上は何も言わず、脇を抜けていった。
宗吉は箸を持ったまま、その様子を眺めていた。
――やっぱり怖そうだな。
腕っ節も強そうだった。
喧嘩になれば、宗吉など片手で転がされるだろう。
男は何事もなかったように歩き出した。
宗吉の席まで来る。
男が目の前で止まると、宗吉は少しだけ背筋を伸ばした。
男が口を開いた。
「あんた」
低い声だった。
宗吉は顔を上げた。
ところが、その次に出てきた声は、思っていたものと少し違った。
「あれ、見えてるでしょう」
妙に柔らかかった。
宗吉は目を瞬いた。
さっきの客へ向けた声とは違う。
低いことには変わりない。
けれど、棘がなかった。
むしろ、知らない相手に気を遣っているような響きさえあった。
宗吉は男の顔を見た。
男も宗吉を見ている。
「あれ?」
宗吉は、とぼけてみた。
男の眉がわずかに動いた。
「そう」
宗吉は飯を一口食べた。
「何のことだ?」
男はしばらく宗吉を見た。
宗吉も知らないふりをした。
別に隠す必要はなかった。
ただ、少し試してみたくなったのである。
男は店の奥を振り返った。
人魂は、お滝が空いた膳を下げている、その少し上を漂っていた。
男が再び宗吉を見る。
「あそこにいるでしょう」
宗吉は何も言わない。
男は顎で店の奥を示した。
「お滝さんの後ろです。いま、柱の前を漂ってる」
その通りだった。
「青白いやつ」
宗吉はまだ黙っている。
「真ん中は、白というより濁った色でさ」
男は人魂へ目をやった。
「後ろに細いのがついてる。尾みたいに、ふらふらたなびいてるでしょう」
そこまで言われれば十分だった。
宗吉は笑った。
「見えてるよ」
男の顔が少し緩んだ。
「やっぱり」
「そっちも見えてたんだな」
「見えてますよ」
「さっきからずっと?」
「入ってきたところから」
「俺もだ」
宗吉は人魂を見た。
ちょうど光が上へ上がったところだった。
男の目も同じところへ動く。
それだけで、もう確かめる必要はなかった。
二人には、同じものが見えている。
男は宗吉の向かいへ目をやった。
「ここ、いいですか」
「どうぞ」
男は膳を宗吉の向かいへ置き、空いていた場所へ腰を下ろした。
宗吉は自分の膳を少し手前へ寄せた。
「俺は兼好弥一」
男が名乗った。
宗吉も答えた。
「根津宗吉だ」
「根津さん」
「宗吉でいいよ」
弥一は一度頷いた。
宗吉は相手の顔を見た。
やはり、先ほどの客に向けていた顔とは違う。
宗吉に対しては、どこか人懐こいところがあった。
弥一が人魂へ目をやった。
「こういうの、前から見えるんです?」
「小さい頃から」
「へえ」
「そっちは?」
「俺もです」
弥一は短く答えた。
それから少し考え、
「たまに、見たくないもんまで見えますけどね」
と言った。
宗吉は笑った。
「それはあるな」
「慣れてます?」
「まあ」
宗吉は汁を飲んだ。
弥一は、もう一度人魂を見た。
人魂は一人の客の頭上で止まっていた。
その客は何も知らず、隣の男と話している。
青白い光が、髪のすぐ上で静かに揺れていた。
弥一の目が細くなった。
「しかし」
「ん?」
「これは、早いとこ離れたほうがよさそうですぜ」
宗吉は箸を止めた。
「だったら、何でまだいるんだ?」
「本当なら、もう出てますよ」
弥一は宗吉を見た。
「あんたにも見えてるみたいだったから、声をかけたんでさ」
「なるほど」
宗吉は人魂へ目を戻した。
「でも、あれ、何もしてないだろ」
「いまのところはね」
「人に触ってもいない。物も倒してない。誰かを追い回してるわけでもない」
「そうですけど」
「だったら、別にいいんじゃないか」
弥一は黙った。
宗吉は飯を食べた。
何かおかしなことを言っただろうかと思い、顔を上げる。
弥一が、信じられないものを見るような目で宗吉を見ていた。
「何だよ」
宗吉が聞いた。
弥一はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと息を漏らした。
「あんた、面白い」
「そうか?」
「普通、逆でしょう」
「何が」
「あんなもんが出たら、何かされる前に離れるんですよ」
宗吉は人魂を見た。
「でも、何かするとは限らないだろ」
「何もしないとも限らない」
「それはそうだけど」
「でしょう」
弥一は言った。
「妖なんてのは、人の物差しで考えないほうがいいんでさ」
宗吉は箸を置いた。
少し興味が湧いてきた。
「人の物差し?」
「人なら、機嫌が悪そうだとか、怒ってるとか、ある程度は見りゃ分かるでしょう」
「分からねえ人もいるけどな」
「そりゃ、いますけど」
弥一は苦笑した。
「でも、人には人の考え方がある。こっちも同じ人間だから、まだ分かるところがある」
「うん」
「ああいうのは違う」
弥一は目だけで人魂を示した。
「何を考えてるか分からない。そもそも、考えてるのかどうかも分からない。さっきまで何もしなかったから、この先も何もしないなんてこともないでしょう」
宗吉は黙って聞いた。
「怖がるべきもんは、きちんと怖がったほうがいいんですよ」
弥一の声は、妙に真面目だった。
「近づかなくていいなら近づかない。離れられるなら離れる。俺はそうしてます」
宗吉は少し考えた。
祖母も、知らないものを追うな、余計なことはするなと、何度も言っていた。
けれど、宗吉の頭にいちばん鮮やかに残ったのは、
――相手を知れ。
という言葉だった。
何をすれば怒るのか。
何を嫌うのか。
何を食べ、どこにいて、なぜ姿を見せるのか。
知らないまま離れるより、知ることができるなら知りたかった。
宗吉は人魂を見る。
青白いものは相変わらず、のんびり店の中を漂っている。
害意があるようには見えない。
だが、そもそも人魂に害意というものがあるのか、宗吉には分からない。
本当に死者の魂なのかさえ分からないのだ。
「なるほどなあ」
宗吉は言った。
弥一が少し眉を上げた。
「納得しました?」
「いや」
宗吉は笑った。
「その考え方も面白いね」
弥一が黙った。
今度は宗吉のほうが、相手の反応を見る番だった。
少しして、弥一の口元が上がった。
にやり、と笑った。
「やっぱり、あんた面白い」
「またそれか」
「だって普通、面白いって返してこないでしょう」
「そうか?」
「そうですよ」
宗吉は首を傾げた。
「俺は知りたいんだよ」
「何を?」
「あれが何なのか」
宗吉は人魂を見た。
「人魂って呼ばれてるけど、本当に人の魂なのかも分からない。あれ全部が同じものなのかも分からないし」
弥一も人魂を見る。
「だからって、近寄るんです?」
「今は行かないよ」
「今は?」
「飯食ってるし」
弥一は一瞬、ぽかんとした。
それから、声を立てずに笑った。
宗吉も笑った。
そのとき、お滝が二人のそばを通った。
「お茶、いるかい」
「あ、ください」
宗吉が答えた。
弥一も頷く。
お滝は、宗吉と弥一の湯呑に茶を注いだ。
そのすぐ後ろを、人魂が通った。
青白い光が、お滝の肩に触れそうになる。
宗吉がそちらを見る。
弥一も見る。
お滝は気づかない。
宗吉と弥一の視線の先には、何もないと思っているらしい。
「……何?」
お滝が振り返った。
「いや」
宗吉が言った。
弥一も何も言わなかった。
人魂は、お滝の背後からすうっと離れていった。
二人の目が、そろってその動きを追う。
お滝は宗吉を見た。
次に弥一を見る。
それから、二人が見ている先を振り返った。
もちろん、何も見えないらしい。
首を傾げる。
「二人とも、さっきから何見てるのさ」
宗吉は人魂を見た。
弥一も見ていた。
お滝には、最後まで見えていなかった。
ただ、お滝が自分たちをひどく不思議そうに眺めていることだけは、宗吉にもよく分かった。




