七幕 不穏
それから、妙なことが起きるようになった。
兼好弥一を、町でよく見かけるようになったのである。
最初は偶然だと思った。
人魂を見た飯屋で出会ってから、数日後のことだった。
宗吉は朝から仕事を探して歩き、昼過ぎに一軒の商家から出てきたところだった。
そこでも駄目だった。
店が求めているのは、商いの経験がある者だった。宗吉が読み書きも算盤もできると話しても、商家へ奉公したことがないと分かると、相手は興味を失った。
このやり取りにも、だんだん慣れてきた。
宗吉は表へ出ると、小さく息を吐いた。
日が高かった。
通りには人が多い。
荷車が通り、物売りが声を上げ、向こうでは二人の男が何か言い争っている。
宗吉は次にどこへ行こうか考えながら歩き出した。
「宗吉さん」
後ろから呼ばれた。
振り返る。
弥一がいた。
相変わらず目立つ男だった。
人混みの中でも頭一つ抜け、短いざんぎりと広い肩ですぐに分かる。
弥一は宗吉を見つけると、片手を上げた。
「何してるんです?」
「仕事探し」
「まだ決まってないんですか」
「簡単に決まったら苦労しねえよ」
宗吉は笑った。
「弥一は?」
「ちょっと用があって」
「この辺に?」
「まあ、そんなところです」
弥一はそう答えた。
宗吉は特に気にしなかった。
二人は少し立ち話をした。
それだけだった。
ところが、その二日ほど後にも会った。
今度は柏屋へ顔を出した帰りだった。
その日は帳面の写しがあり、半日ほど仕事をもらえた。
久しぶりに銭が入ったので、宗吉の気分は少しよかった。
とはいえ、暮らしに余裕ができるほどの額ではない。
銭の減る速さが、少し遅くなっただけである。
柏屋を出て歩いていると、向こうから弥一が来た。
「あ」
宗吉が先に気づいた。
弥一もすぐに気づいた。
「また会いましたね」
「よく会うな」
「狭い町ですから」
そう言われれば、その通りにも思えた。
宗吉の故郷よりは、ずっと大きな町である。
だが、人の集まるところは決まっている。
商いの盛んな通り。
港へ向かう道。
働き口のある場所。
宗吉が仕事を探して歩くなら、弥一と同じところを通ることもあるのだろう。
弥一は宗吉の隣へ並んだ。
「飯、もう食いました?」
「まだ」
「じゃあ、何か食いません?」
宗吉は少し考えた。
それから首を振った。
「やめとく」
「何で?」
「金がない」
弥一は宗吉を見た。
「ないんです?」
「全然ないわけじゃないよ」
宗吉は訂正した。
「使いたくねえんだ」
「同じでしょう、それ」
「違うよ」
宗吉にとっては大違いだった。
本当に金がないわけではない。
使ってよい金が少なくなっているだけである。
使わないほうには、まだ手をつけていない。
そこは重要だった。
弥一には、その違いがあまり分からないらしい。
「じゃあ、俺が出しますよ」
宗吉は弥一を見た。
「何を?」
「飯代」
「何で?」
今度は弥一が宗吉を見る番だった。
「何でって、飯食うんでしょう」
「そうじゃなくて」
宗吉は言った。
「何で弥一が俺の飯代を出すんだ?」
弥一は一度瞬いた。
それから笑った。
「別にいいでしょう」
「よくないだろ」
「何がです?」
「知り合ったばっかりじゃねえか」
「ああ」
弥一は何でもないことのように頷いた。
「そうですね」
「そうですね、じゃねえよ」
宗吉は笑った。
「俺、まだお前のこと何も知らねえぞ」
「俺も宗吉さんのこと、そんなに知りませんよ」
「だろ?」
「でも、飯くらいいいでしょう」
「だから、何でなんだよ」
弥一は少し考えるような顔をした。
答えに困っているようには見えない。
何と言えば宗吉が納得するか考えているようにも見えた。
やがて、
「一人で食うよりいいから」
と言った。
「それだけ?」
「それだけです」
「本当か?」
「本当ですよ」
弥一は笑った。
宗吉は少し訝しく思った。
悪い男には見えなかった。
少なくとも宗吉に対しては、ずいぶん親しげだった。
だが、それがかえって不思議だった。
人魂を一緒に見ただけである。
話をしたのも、まだ一度きりだった。
それなのに、弥一のほうには、ずっと前から宗吉を知っているような気安さがある。
宗吉はしばらく弥一の顔を見た。
弥一も笑ったまま見返してきた。
「……高いものは食わねえぞ」
結局、宗吉が折れた。
「別に食ってもいいですけど」
「お前がよくても俺が嫌だ」
「面倒くさい人ですねえ」
「人に奢られるんだから当たり前だろ」
二人は近くの飯屋へ入った。
弥一が本当に代金を払った。
宗吉は、奢られた分はいずれ返そうと思った。
だが、それで終わらなかった。
そのあとも弥一とは、よく会った。
宗吉が仕事を探して歩いていると、向こうから現れる。
店の前で声をかけられる。
道を曲がったところで出くわす。
柏屋へ行く途中で会ったこともあった。
「またお前か」
三度目か四度目になると、宗吉のほうからそう言った。
弥一は笑った。
「嫌なんです?」
「嫌じゃねえけど」
宗吉は答えた。
「よく会うなあと思って」
「縁があるんじゃないですか」
「人魂の?」
「そこまであれに世話焼かれたくないですね」
宗吉は笑った。
弥一も笑った。
ときどき飯へ行った。
弥一が出すと言うこともあれば、宗吉が自分で払うこともあった。
宗吉は、奢られっぱなしにはならないよう気をつけた。
柏屋から声がかからない日は、二人で町を歩くこともあった。
弥一は、宗吉より町のことをよく知っていた。
当然だった。
弥一はこの町で生まれたという。
「生まれもここなのか」
宗吉が聞いた。
「そうですよ」
「ずっと?」
「ずっとです」
弥一は、幼い頃から町が変わっていくのを見てきたという。
宗吉には、それが少し羨ましかった。
弥一は道を知っていた。
どこを抜ければ早いか。
どの通りに何の店が多いか。
どこへ行けば荷を扱う商人がいるか。
表から見ただけでは何の商いをしているのか分からない店でも、弥一は知っていることがあった。
「あそこは違いますよ」
宗吉が一軒の店を見ていると、弥一が言った。
「何が?」
「宗吉さんが探してる仕事」
「聞いてみねえと分からないだろ」
「前に人を探してましたけど、荷のほうですよ」
「荷か」
宗吉は店を見る。
「やめとく」
「そのほうがいいでしょうね」
「そんなに俺、力仕事向いてなさそうか?」
弥一が宗吉の身体を上から下まで見た。
宗吉は黙って、その視線に耐えた。
「向いてるように見えます?」
「いや」
「でしょう」
即答された。
宗吉は笑った。
「そこまで言わなくてもいいだろ」
「また身体壊したいんです?」
「それは嫌だ」
「なら、やめといたほうがいい」
町を歩くうちに、宗吉は港の荷運びを始めてすぐ腰を痛めたことも弥一に話していた。
弥一はしばらく笑ったあと、
「もうやらないほうがいいですよ」
と真面目に言った。
「荷担ぐにも慣れがいるし、身体も要るでしょう。いきなり毎日やったら、そりゃ壊しますよ」
「深津先生にも同じこと言われた」
「医者の言うことは聞いとくもんです」
「聞いたよ」
「そのあとも仕事へ行ったんでしょう?」
「一度は」
「聞いてないじゃないですか」
宗吉は言い返せなかった。
別の日には、奉公口を断られた商家の前で二人して立ち止まった。
「駄目だった」
宗吉が言った。
「何て?」
「商いの経験がないからって」
「まあ、難しいでしょうね」
弥一はあっさり言った。
宗吉は少しむっとした。
「お前、慰める気ねえな」
「嘘ついてもしょうがないでしょう」
「それはそうだけど」
弥一は店のほうを見た。
「何年も店で仕込まれた人間がいるところへ、どこの誰とも分からないやつを入れるわけにもいかないでしょう」
「どこの誰とも分からないやつ」
「店から見れば、ですよ」
「分かってるよ」
宗吉は笑った。
「かといって、宗吉さんが得意なのは帳面とか、細かい仕事なんでしょう」
「そうだな」
「それだけやらせてくれて、毎日銭がもらえる仕事なんて、なかなかないですよ」
宗吉は黙った。
薄々、自分でも分かっていたことである。
柏屋の仕事なら、宗吉に合っている。
けれど、呼ばれるのは忙しい日だけだった。
毎日の暮らしを支えるには足りない。
「難しいな」
宗吉が言った。
「難しいですね」
「何かねえかな」
「探すしかないでしょう」
「お前、この町に詳しいんだから何か知らねえ?」
「俺だって、何でも知ってるわけじゃないですよ」
「役に立たねえな」
「ひどいな」
弥一が笑った。
宗吉も笑った。
いつの間にか、そんな話をするようになっていた。
知り合って、それほど日が経っているわけではない。
なのに弥一といると、妙に話が続いた。
宗吉が何か聞けば、弥一はたいてい答えた。
知らないことは、知らないと言った。
宗吉が道の向こうへ気を取られていれば、
「そっちじゃないですよ」
と言う。
一度、話しながら歩いていた宗吉が、道端の荷に足を引っかけそうになったことがあった。
弥一が宗吉の腕をつかんだ。
「危ない」
宗吉は止まった。
足元を見る。
縄で括られた荷が置かれていた。
「あぶねえ」
「前見て歩いてくださいよ」
「見てたよ」
「見てないでしょう」
「向こうを見てた」
「それを見てないって言うんですよ」
宗吉は笑った。
弥一は呆れた顔をした。
そんな日が続いた、ある日のことだった。
二人で町を歩いていると、向こうから女が来た。
宗吉が先に気づいた。
「あ」
みちだった。
柏屋の娘である。
店で見るときとは違い、一人で歩いている。
みちも宗吉に気づいた。
その隣にいる弥一を見た。
そして、にこりと笑った。
「あら」
宗吉たちの前で足を止める。
「お友達ができたのね」
みちは二人を見比べた。
「ずいぶん仲がよさそう」
宗吉は笑った。
「最近知り合ったんだ」
「そうなの?」
「飯屋で」
「飯屋で友達ができるなんて、宗吉さんらしいね」
「どういう意味だよ」
みちは笑った。
その横で、弥一は黙っていた。
宗吉は気づかなかった。
弥一の目つきが変わったことに。
先ほどまで宗吉と話していたときの柔らかな目ではなかった。
みちの顔を、じっと見ていた。
笑ってもいない。
値踏みをするようでもあり、警戒するようでもあった。
みちが弥一を見る。
二人の視線が合った。
みちの笑顔は変わらなかった。
弥一が口を開いた。
「あんたは?」
声は低かった。
宗吉に話しかけるときより、少し硬かった。
「私は柏みち」
みちは答えた。
弥一の眉がわずかに動いた。
「へえ。あの柏屋の?」
「あら、知ってるのね」
「そりゃそうだ」
弥一は言った。
「この辺りで柏屋を知らないやつなんていない」
「そんなに有名かしら」
みちは少しおかしそうに笑った。
「うちなんて、ただ茶を扱ってるだけの店よ」
「ただの店じゃないでしょう」
弥一が答えた。
みちは何も言わず、また笑った。
宗吉は二人を見た。
「弥一は、この町で生まれたんだって」
「あら、そうなの」
「そうです」
弥一が答える。
みちは軽く頷いた。
「それなら、宗吉さんよりずっと町に詳しそうね」
「俺も最近そう思ってた」
宗吉が言う。
「仕事探すのにも、いろいろ教えてもらってる」
「それはよかった」
みちは宗吉を見て笑った。
「嘉助さんも気にしてたよ。なかなか決まらないみたいだって」
「柏屋で毎日雇ってくれりゃ早いんだけどな」
「それは嘉助さんに言って」
「おみちさんから言ってくれよ」
「この前、言ったでしょう」
「あれ、本気だったのか」
「本気よ」
みちは笑った。
「でも、今日はこれから用があるの」
「ああ。引き止めて悪かったな」
「宗吉さんたちが止めたんじゃないでしょう。私から声をかけたんだから」
それから、みちは弥一にも軽く頭を下げた。
「じゃあ、またね」
宗吉に向かって手を振る。
宗吉も手を上げた。
「また」
みちはそのまま歩いていった。
人の流れの中へ入る。
宗吉は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
弥一は隣に立っていた。
宗吉には聞こえないほどの小さな声で、
「これは楽しめそうだ」
と呟いた。
そして、口元だけで笑った。
宗吉は気づかなかった。




