八幕 同じ屋根の下へ
弥一と一緒に仕事を探すようになっても、宗吉の働き口はなかなか決まらなかった。
弥一は町に詳しかった。
どこに何の店があり、どの辺りに職人が住み、どの道を抜ければ商家の多い通りへ出るのかを知っている。
おかげで、宗吉が一人で歩いていた頃より、ずっと無駄なく方々を回れるようになった。
それでも、結果は変わらなかった。
乾物を扱う店では、すでに人が決まったと言われた。
別の商家では、奉公の経験がないことを理由に断られた。
人を探していると聞いて行ってみれば、重い荷を運ぶ仕事だったこともある。
「これは、やめときましょう」
店へ入る前に弥一が言った。
「まだ何も聞いてねえぞ」
「見りゃ分かりますよ。あれ運ぶんでさ」
弥一が顎をしゃくった。
店の脇には、大きな荷が積んであった。
宗吉はしばらく見た。
「……やめとくか」
「そうしましょう」
柏屋から呼ばれる日は、今もあった。
嘉助のそばで帳面を写し、数字を突き合わせ、茶箱の数を確かめる。
宗吉には、やはりそういう仕事が合っていた。
だが、毎日ある仕事ではない。
働いた日の銭を足しても、暮らしに必要な金は少しずつ減っていった。
夜になると、宗吉は使ってよい金だけを数えた。
その日、何に使ったかは、だいたい覚えている。
飯。
味噌。
菜。
草履を直すのに少し。
柏屋へ行った日は、働いたぶんが増える。
それでも、入るより出るほうが多かった。
少しずつ。
本当に少しずつだった。
だから、かえって嫌だった。
一晩でなくなるわけではない。
明日困るわけでもない。
しかし、何日か経って数えると、前より明らかに軽くなっている。
宗吉は数えた銭を包みに戻し、結び目を固くした。
使わない金は、別の場所に包んだまま置いてある。
そちらは数えなかった。
使っていないのだから、減っているはずがない。
病にかかったとき。
火事や大水に遭ったとき。
どうにもこの町で暮らせなくなり、故郷へ帰らなければならなくなったとき。
本当に必要になるまで、開かないと決めていた。
だが、使ってよい金が尽きれば、いずれはそちらへ手を伸ばさなければならない。
その日はまだ来ていない。
けれど、少しずつ近づいていた。
次の店賃を払う日も近い。
宗吉には、それがかなり恐ろしかった。
飯は、もうずいぶん質素になっている。
これ以上減らせば、また千代に叱られるだろう。
衣類は買っていない。
遊びにも使わない。
酒も飲まない。
そうなると、大きいのは住む場所だった。
千代の家の貸間は、宗吉が暮らすには悪くなかった。
狭いが、一人なら十分だった。
千代は口が悪いが、余計なことをしない。
仕事を失っても、同情しない代わりに追い立てもしなかった。
ただ、決まった日に店賃を取る。
そこは宗吉も気に入っていた。
だが、いくら気に入っていても、銭は銭だった。
もっと安いところはないだろうか。
一間でいい。
もっと狭くてもいい。
少しくらい不便でも構わない。
宗吉はそう考え始めた。
その話を弥一にしたのは、二人で仕事を探して歩いた帰りだった。
その日も朝から幾つか店を回ったが、どこも駄目だった。
陽は西へ傾きかけていた。
昼間の暖かさが少し残っている。
人通りはまだ多く、仕事を終えたらしい男たちと何度もすれ違った。
宗吉は歩きながら言った。
「俺、部屋を移ろうかと思ってる」
弥一がこちらを見る。
「何で?」
「店賃がもったいねえ」
「今のところ、高いんです?」
「べらぼうに高いわけじゃないよ」
宗吉は答えた。
「でも、今の俺には痛い」
弥一は少し黙った。
宗吉は続けた。
「もうちょっと安いところがあれば、そっちに移ろうと思ってる」
「ずいぶん切り詰めてますね」
「仕方ねえよ。仕事が決まらねえんだから」
「柏屋の仕事は?」
「毎日はねえもの」
「ああ」
弥一は納得したように頷いた。
しばらく二人で歩いた。
宗吉は、なぜかそのまま銭の話をした。
人に自分の懐具合を詳しく話すのは、あまり好きではなかった。
けれど、弥一には仕事探しにつき合ってもらっている。
宗吉が毎日何をしているかも、だいたい知られていた。
いまさら隠しても仕方がないように思えた。
「金は、まだあるんだ」
「あるんです?」
「ある」
「じゃあ、そんなに困ってないんじゃないですか」
「違うんだよ」
宗吉は少し強く言った。
「二つに分けてる」
「何を?」
「金を」
弥一が不思議そうな顔をした。
宗吉は懐を軽く叩いた。
いま持ち歩いているのは、当座の銭だけだった。
「使っていい金と、使わない金」
「使わない?」
「そう」
「自分の金でしょう」
「自分の金だけど、毎日の暮らしには使わねえんだ」
弥一は首を傾げた。
宗吉は説明した。
使ってよいほうは、飯を食い、店賃を払い、必要なものを買うための金。
もう一つは、病にかかったり、火事や大水に遭ったり、どうしても故郷へ帰らなければならなくなったときの金だった。
「そっちは、子供の頃から貯めてきた分も入ってる」
宗吉は言った。
「ずっと?」
「ずっと」
「へえ」
弥一は少し驚いたようだった。
「子供の頃から銭貯めてたんです?」
「好きだったんだよ」
「変わった子供だなあ」
「悪いか」
「悪くはないですけど」
弥一が笑う。
宗吉も少し笑った。
「何か買いたいものがあったんです?」
「別に」
「じゃあ、何で」
「持ってると安心するだろ」
宗吉には、ごく当たり前のことだった。
「いざってときに困らない。何かやりたくなったときにも使える。今回だって、そうやって貯めた金があったから、ここまで来られた」
「なるほど」
「だから、残りを全部、毎日の暮らしで使っちまいたくねえんだ」
弥一は今度は笑わなかった。
宗吉の話を聞いていた。
「でも、このままだと」
宗吉は言った。
「その金を使うことになる」
口にすると、余計に嫌な感じがした。
「まだ大丈夫だけどな。すぐじゃない。でも、だんだん近づいてる」
「それが嫌なんです?」
「嫌だよ」
宗吉は即答した。
「かなり嫌だ」
弥一が宗吉を見る。
宗吉は前を向いたまま歩いた。
「だから、まず店賃を減らそうと思ってる。もっと安い貸間を探して――」
「だったら、俺んところへ来ればいいでしょう」
宗吉の言葉が止まった。
数歩、そのまま歩いた。
それから弥一を見る。
「何?」
「だから」
弥一は平然としていた。
「俺んところへ来ればいいんですよ」
宗吉はしばらく相手の顔を見た。
「お前んところに?」
「そう」
「住むってことか?」
「ほかに何があるんです」
弥一は何でもないことのように言った。
宗吉には、何でもない話には思えなかった。
「いやいや」
「何です?」
「家賃払えねえぞ」
「払えるようになったらでいいですよ」
間髪を容れなかった。
宗吉は眉を寄せた。
「よくねえよ」
「何が?」
「それじゃ、ただ世話になるだけだろ」
「別にいいでしょう」
また、それだった。
飯を奢ると言ったときも同じだった。
別にいいでしょう。
宗吉には、その「別に」が分からない。
「何でそんな簡単に言えるんだよ」
「難しく言うことでもないでしょう」
「知り合って、まだそんなに経ってねえぞ」
「そうですね」
「そうですねじゃなくて」
弥一は笑った。
宗吉は少し呆れた。
「俺がお前のところに転がり込んで、仕事が決まるまでただで暮らすんだぞ」
「仕事が決まったら払うんでしょう?」
「そうだけど」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「もし、ずっと仕事が決まらなかったらどうする」
「そのとき考えますよ」
「お前なあ」
「それに」
弥一が言った。
「俺だって、いつ仕事を失うか分かんないんでさ」
宗吉は弥一を見る。
そういえば、弥一が何をして銭を得ているのか、詳しく聞いたことがなかった。
「お前、何の仕事してるんだ?」
「いろいろでさあ」
「いろいろって何だよ」
「頼まれたことをやって、銭もらってます」
「何を頼まれるんだ」
「そのときによりますねえ」
まるで答えになっていなかった。
宗吉は眉をひそめた。
「怪しいな」
「食えてるんだから、いいでしょう」
「よくねえよ。お前のところに住む話してるんだぞ」
弥一は少し笑った。
「俺だって、ずっと今のままだなんて分かりませんよ。働けなくなるかもしれないし、仕事がなくなるかもしれない」
宗吉は黙って聞いた。
「そしたら、そのときは兄貴が助けてくださいよ」
宗吉の足が止まった。
弥一も何歩か先へ進んでから止まり、振り返った。
「何です?」
宗吉は弥一を見た。
「……兄貴?」
「はい?」
弥一は平然としている。
聞き間違いではなかったらしい。
宗吉は自分を指さした。
「俺が?」
「ほかに誰がいるんです」
「何で?」
弥一が少し不思議そうな顔をした。
「俺より年上でしょう。たぶん」
宗吉は固まった。
「えっ」
「何です」
「俺、お前のほうが年上だと思ってた」
今度は弥一が黙った。
宗吉は、まじまじと相手を見た。
立って並べば、弥一のほうが頭一つ高い。
日に焼けた首は太く、襟の合わせ目には黒い胸毛が影のように密集している。坊主頭に近いざんぎりも相まって、どう見ても宗吉より年下には見えなかった。
「お前、いくつだ」
「二十三です」
「二十三?」
宗吉は思わず聞き返した。
「そうですよ」
「本当に?」
「何で嘘つくんです」
弥一が笑った。
「宗吉さんは?」
「二十五」
弥一がにやりとした。
「ほら」
「何が、ほら、だよ」
「やっぱり兄貴でしょう」
「二つしか違わねえじゃねえか」
「年上には違いない」
「兄貴はやめろ」
「いいじゃないですか、兄貴」
「やめろって」
弥一は楽しそうに笑った。
宗吉は顔をしかめた。
「気持ち悪い」
「ひどいなあ」
「名前で呼べよ。今までそうしてただろ」
「兄貴」
「やめろ」
「兄貴」
「おい」
弥一は声を立てて笑った。
宗吉は本気で嫌がっていた。
だが、弥一があまり嬉しそうなので、だんだん馬鹿らしくなってきた。
「勝手にしろ」
宗吉は歩き出した。
後ろから弥一がついてくる。
「じゃあ、来るんでしょう?」
宗吉は振り返った。
話はそこへ戻るらしい。
「まだ決めてねえよ」
「何でです」
「お前の住んでるところも見てねえだろ」
弥一が目を瞬いた。
宗吉は続けた。
「どこにある。誰かと住んでるのか。俺が行っても家主は何も言わねえのか」
「一人ですよ。家主には、これから話します」
「まだ話してねえのかよ」
「いま思いついたんだから、仕方ないでしょう」
「だったら、先に話を通せ」
宗吉は言った。
「それから一度、お前のところを見せろ。決めるのはそのあとだ」
弥一は少し不満そうな顔をした。
「兄貴、細かいなあ」
「住むところの話だぞ。当たり前だろ」
「分かりましたよ」
その日は、それで別れた。
翌日、弥一は宗吉を待ち伏せしていた。
「家主に話してきました」
「早いな」
「兄貴が早くしろって言ったんでしょう」
「そこまでは言ってねえよ」
弥一は構わず、宗吉を自分の住まいへ連れていった。
表通りから何本か入ったところにある、古い借家だった。
広くはない。
けれど、雨風はしのげる。
戸も閉まる。
二人で暮らせないほど狭くもなかった。
家主も、弥一がきちんと店賃を納めるなら、宗吉が一緒に住むことに異存はないという。
宗吉は部屋の中を見回した。
千代の貸間より暮らしやすいとは言えない。
二人で住めば窮屈にもなるだろう。
それでも、弥一と店賃を分けられるようになれば、いまより負担は軽くなる。
仕事が決まるまで待つという話も、弥一は変えなかった。
宗吉は、その場では返事をしなかった。
「考える」
そう言って帰った。
その夜、宗吉は使ってよい金を数えた。
柏屋で半日働いたぶんが加わっている。
それでも、次の店賃を払えば、包みはまた大きく軽くなる。
使わない金は、しまった場所から出さなかった。
宗吉は、そちらがある方角を見た。
人の世話になるのは好きではない。
自分のことは、自分で何とかしたかった。
だから生家を出たのだ。
しかし、その意地のために、使わない金へ手をつけるのも違うように思えた。
弥一のところへ移れば、金が尽きる時期を先へ延ばせる。
仕事が決まったら家賃を払えばいい。
それまでに世話になった分も、あとで返せばいい。
弥一が困ったときには、自分が助ければいい。
理屈だけなら、悪くなかった。
翌日になっても考えた。
そのあいだにも、仕事は決まらなかった。
次の店賃を払う日は、さらに近づいた。
弥一に会うと、宗吉は言った。
「この前の話だけど」
「どの話です?」
弥一はすっとぼけた。
宗吉は睨んだ。
「分かってるだろ」
弥一が笑った。
「うちに来る話?」
「うん」
「来るんです?」
宗吉は少し間を置いた。
「世話になる」
弥一の顔が、ぱっと明るくなった。
宗吉はすぐに続けた。
「ただし、仕事が決まったら家賃は払うからな」
「はいはい」
「今までの分も、余裕ができたら何かで返す」
「好きにしてください」
「それから――」
「兄貴、細かいなあ」
宗吉は眉をひそめた。
「兄貴はやめろ」
「まだ言ってる」
「まだじゃねえよ」
弥一は笑った。
宗吉は溜息をついた。
「とりあえず、お千代さんに話してくる」
「今日?」
「早いほうがいいだろ。次の店賃を払ってから出るなんて馬鹿らしい」
「そりゃそうですね」
「荷物もまとめねえとな」
宗吉は千代の家へ戻ることにした。
間借りをやめるなら、まず話を通さなければならない。
何だかんだ言って世話になった。
黙って消えるわけにもいかない。
宗吉は一度振り返った。
「じゃあ、またあとでな」
「はい、兄貴」
「やめろって」
弥一の笑い声を背中に聞きながら、宗吉は歩き出した。
少し進んだところで、後ろからもう一度声が飛んできた。
「兄貴」
宗吉は振り返らなかった。
ただ、片手だけを上げた。
背後で、弥一がまた嬉しそうに笑った。




