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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
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九幕 断りと燃え殻

宗吉は千代の家を出て、弥一と暮らし始めた。


千代は、宗吉が予想していたほど驚かなかった。


事情を聞くと、


「そうかい」


と言った。


それから、念を押すように付け加えた。


「今月の店賃は、もうもらってるからね。途中で出たって返さないよ」


「分かってます」


宗吉も、返してもらうつもりはなかった。


次の月の店賃を払う前に移れるだけで十分だった。


千代は宗吉の使っていた部屋を一通り確かめた。


壊したところも、汚したところもないと分かると、


「なら、いいよ」


と言った。


最後まで千代らしかった。


荷物といっても、たいした量ではない。


着替えと身の回りのもの。


帳面や筆。


炊事に使っていた細かな道具。


それから、二つに分けた銭。


使ってよい金と、使わない金。


宗吉はそれらをまとめ、弥一のところへ移った。


二人で暮らしてみると、意外なほど何も起こらなかった。


もっと不便かと思っていた。


他人の家へ転がり込むのである。


飯を食う時間も違うだろう。


物の置き場所で揉めるかもしれない。


夜、眠るときに、相手の物音が気になることもあるだろう。


宗吉は多少、そういうものを覚悟していた。


ところが、何日か暮らしてみると、拍子抜けするほど生活はうまく回った。


宗吉は家事が苦にならなかった。


むしろ、何もせず世話になるほうが落ち着かなかった。


朝、先に起きれば飯を炊く。


汁を作る。


昨夜の残りがあれば温める。


汚れが目につけば掃く。


洗うものが溜まれば洗う。


ほつれた着物があれば繕う。


弥一の着物は、ときどき妙なところが破れていた。


「また袖が裂けてるぞ」


宗吉が言う。


弥一は自分の腕を見る。


「ああ、本当だ」


「何したんだよ」


「荷を持ったときじゃないですかね」


「じゃないですかね、って、自分の着物だろ」


「着られるから気づかなかった」


宗吉は呆れながら針を取った。


「ほっとくと広がるぞ」


「兄貴、そういうの得意ですね」


「兄貴って言うな」


「はいはい、兄貴」


宗吉は針の先を弥一へ向けた。


「刺すぞ」


「怖いなあ」


言いながら、弥一は少しも怖がっていなかった。


その代わり、宗吉にできないことは弥一がした。


米の入った袋を動かす。


水を運ぶ。


重いものを持ち上げる。


建てつけの悪い戸を外す。


高いところへ手を伸ばす。


宗吉が一人なら二度に分けて運ぶものでも、弥一はひょいと持っていく。


一度、宗吉が水の入った桶を両手に持って戻ってくると、弥一が片方を取った。


「自分で持てるよ」


「知ってますよ」


「じゃあ返せ」


「二つ持つより、一つのほうが楽でしょう」


「そりゃそうだけど」


「なら、いいじゃないですか」


弥一はそのまま歩いていった。


こうして、いつの間にか役割が分かれた。


宗吉は細かなことをする。


弥一は力のいることをする。


どちらが決めたわけでもなかった。


気づけば、そうなっていた。


食事についても、宗吉が作ることが増えた。


弥一は宗吉の飯に文句を言わなかった。


出されたものは、たいてい食べた。


安い菜ばかりの日でも、


「うまいですよ」


と言う。


「本当に?」


「何で疑うんです」


「お前、何でもうまいって言うから」


「うまいんだから、仕方ないでしょう」


宗吉は、悪い気はしなかった。


ある晩、飯を食べ終えた弥一が、空になった椀を置いて言った。


「兄貴は、本当に何でもできますね」


「何が」


「飯はうまい。掃除もできる。洗濯もする。着物まで直す」


弥一は指を折りながら数えた。


「銭の勘定もできるし、物を無駄にしない。足りなくなる前に、ちゃんと気づくでしょう」


「それくらい普通だろ」


「普通じゃないですよ」


弥一は真面目な顔をしていた。


「俺は、兄貴の半分もできません。放っといたら、着物が全部破れるまで着てますね」


「威張ることじゃねえよ」


「兄貴一人で、家一軒回せるでしょう」


「大げさだな」


「大げさじゃないですよ。大したもんでさ」


弥一は本気で感心しているらしかった。


「俺、兄貴と一緒に住めて、ずいぶん得してますね」


「お前が楽してるだけじゃねえか」


「そうとも言います」


弥一は笑った。


宗吉もつられて笑った。


その一方で、弥一が何をして銭を得ているのかは、暮らし始めてもよく分からなかった。


決まった店へ毎朝出ていくわけではない。


港のほうへ行く日もあれば、昼近くまで家にいて、誰かに呼ばれて出ていく日もある。


「今日は何するんだ?」


宗吉が聞く。


「荷の手伝いです」


「どこの?」


「港のほう」


それで終わる。


夜になってから出ていくこともあった。


宗吉が飯を片づけていると、弥一が着物を整え始める。


「今から出るのか」


「ちょっと」


「仕事?」


「まあ、そんなところです」


「何するんだよ」


「いろいろでさあ」


「いろいろって何だ」


「人に頼まれたことですよ」


「何を頼まれたんだ」


「夜だから頼まれることもあるんでさ」


まるで答えになっていなかった。


そして、本当に出ていく。


帰りは、宗吉が眠ったあとになることもあった。


宗吉は不思議には思った。


だが、強く問い詰めるほどのこととも思わなかった。


弥一は自分の稼ぎで暮らしている。


家賃も払っている。


宗吉に食わせる飯の分まで、今のところ困っている様子はない。


何より、自分は世話になっている身だった。


相手が話したくないことまで、無理に聞くものでもない。


だから宗吉は、


「ふうん」


で済ませるようになった。


宗吉は転居してまもなく、これまで仕事を尋ねた店のうち、まだ見込みがありそうなところへ新しい居所を伝えていた。


柏屋にも知らせた。


仕事の話が来ても、古い貸間へ使いを出されたのでは困るからである。


そんな暮らしがしばらく続いた頃、宗吉にとっては笑って済ませにくいことが起きた。


ある日、宗吉は以前仕事を尋ねた商家へ顔を出した。


帳面を扱える者が必要になったら声をかけてほしいと頼んでいた店だった。


その日も仕事はなかった。


宗吉は店を出たあと、柏屋へ向かった。


嘉助から少しだけ帳面を見てほしいと言われ、思ったより帰りが遅くなった。


その翌日。


宗吉は、前の日に訪ねた商家の近くを通った。


せっかくだから、もう一度だけ顔を出してみようと思った。


一日で事情が変わることもある。


宗吉が店へ入って名を告げると、店の者が妙な顔をした。


「根津さん?」


「はい」


「来たのか」


宗吉は、その言葉に引っかかった。


「来ちゃ悪かったですか」


「いや、そういう意味じゃない」


男は困ったように言った。


「昨日、断ったんじゃなかったのか」


宗吉は黙った。


「何を?」


今度は向こうが黙った。


二人で顔を見合わせる。


「帳面の仕事だよ」


「帳面?」


「昨日、あんたが帰ったあとで、三日ほど人手が要ることになったんだ。それで使いをやっただろう」


宗吉には覚えがなかった。


「俺、昨日は帰りが遅かったんです」


「ああ。だから、一緒に住んでる人が出たって」


宗吉の眉が寄った。


「弥一が?」


「名前までは知らないよ。大きな男だったそうだ」


それなら、弥一だった。


「何て?」


宗吉が聞く。


「根津はしばらく都合が悪いから、引き受けられないって」


宗吉はしばらく何も言えなかった。


「……俺が?」


「そう聞いたから、もうほかへ頼んだよ」


「もう決まったんですか」


「決まった」


宗吉は口を閉じた。


三日。


たった三日である。


だが、三日働けば三日ぶんの銭になる。


今の宗吉にとっては、小さくない。


「そうですか」


それしか言えなかった。


店を出たあと、宗吉はまっすぐ家へ帰った。


歩いているうちに腹が立ってきた。


最初は、何か聞き違いではないかとも思った。


弥一が自分の仕事を勝手に断る理由がない。


もしかすると、使いの者が別のことを言ったのかもしれない。


しかし、


根津はしばらく都合が悪い。


そう答えたという。


宗吉は、そんなことを弥一へ頼んでいない。


戸を開けると、弥一は家にいた。


宗吉を見る。


「おかえり、兄貴」


「弥一」


声が低くなった。


弥一が宗吉の顔を見る。


「何です?」


「昨日、俺に仕事の話が来たか」


弥一は一瞬だけ黙った。


「ああ」


それで宗吉には分かった。


「来たんじゃねえか」


「来ましたよ」


「何で言わなかった」


弥一は少し困ったような顔をした。


「三日だけの仕事だったでしょう」


宗吉は目を見開いた。


「だから何だよ」


「三日だけですよ」


「三日でも銭になるだろ」


「もっと長い口を探したほうがいいと思ったんでさ」


宗吉は弥一を見た。


「それと断るのと、何の関係があるんだ」


「三日そっちに取られたら、そのあいだに別の話があっても動けないでしょう」


「そんなの、俺が決めることだろ」


弥一が黙った。


宗吉は続けた。


「俺の仕事だぞ」


「……そうですね」


「何でお前が勝手に断るんだよ」


「それは悪かったです」


弥一はあっさり頭を下げた。


宗吉は、かえって言葉に詰まった。


もっと何か言い返されると思っていた。


「悪かったって」


「俺が勝手に決めたのは悪かったです」


弥一は宗吉を見る。


「ただ、兄貴には、もっと長く続く仕事を見つけたほうがいいと思ったんですよ」


「それは俺だって、そう思ってるよ」


「でしょう」


「だからって、三日の仕事を断っていいことにはならねえ」


「はい」


「今は、三日ぶんの銭だって欲しいんだ」


「分かりました」


弥一は素直だった。


「次からは、兄貴に聞きます」


「当たり前だ」


宗吉はまだ腹を立てていた。


だが、そこまで言われてしまうと、さらに怒鳴るほどでもなかった。


弥一はこのところ、宗吉の仕事探しにもつき合っている。


宗吉が一人では知らなかった店へ連れていってくれたこともある。


長く働ける口がないか、人にも聞いているらしい。


短い仕事を受けるより、その時間を長く続く仕事探しに使ったほうがよい。


弥一なりに、そう考えたのかもしれない。


やり方は腹立たしい。


だが、悪意があったとは思わなかった。


「もう勝手にやるなよ」


宗吉は念を押した。


「分かりましたよ、兄貴」


「あと、兄貴って言うな」


「それは別の話でしょう」


宗吉は睨んだ。


弥一は笑った。


そこで、その話は終わった。


少なくとも、宗吉の中では終わった。


三日ぶんの仕事は惜しかった。


だが、もう別の者に決まってしまったものを考えても仕方がない。


次を探すしかなかった。


ただ。


宗吉の知らないところで来た仕事を、弥一が断った。


その事実だけは残った。


それから何日か経った。


その日、宗吉は家にいて、朝から洗い物を片づけていた。


弥一は出ていた。


どこへ行ったのかは、いつものようによく分からない。


「人に呼ばれた」


とだけ言って出ていった。


宗吉は洗濯を終え、乾かしてあった着物を取り込み、ほつれていた自分の襟を少し直した。


それから炊事場へ行った。


竈の灰を片づけようと思ったのである。


竈には、前に火を焚いたときの灰が残っていた。


宗吉は灰を寄せた。


黒い炭の欠片が混じっている。


その中に、紙があった。


燃え切らずに残った紙だった。


端は黒く縮れ、半分ほどが灰になっている。


宗吉は何気なく拾った。


何か捨てたのだろう。


そう思っただけだった。


だが、紙を裏返して手が止まった。


墨で書かれた文字が残っていた。


宗吉は灰を払った。


焦げたところを崩さないよう、そっと持ち上げる。


燃え残ったのは、折り畳まれていた書状の外側らしかった。


折り目を開くと、宛名だけが読めた。


「根津宗吉殿」


自分の名前だった。


宗吉はしばらく紙を見た。


何度見ても同じだった。


根津宗吉殿。


内側にあった本文は、ほとんど焼け落ちていた。


差出人の名が書かれていたらしい端も欠けている。


残った文字だけでは、どこから来た書状なのか分からなかった。


自分宛ての書状なら、なぜ自分は見ていないのか。


戸の音がしたのは、その少しあとだった。


弥一が戻ってきた。


「ただいま」


宗吉は燃え残った紙を持ったまま出た。


「弥一」


「はい?」


「これ、何だ?」


紙を差し出す。


弥一の目がそこへ落ちた。


ほんの少し。


本当にほんの少しだけ、間があった。


「ああ、それ」


弥一は言った。


宗吉は紙を持ったまま待った。


「仕事の話だったんですけど」


「仕事?」


「もう人が決まったって」


宗吉は紙を見た。


「何で俺に見せなかった」


「断りの返事ですよ」


弥一は平然としている。


宗吉は、もう一度宛名を読む。


「でも、俺の名前が書いてあるぞ」


「兄貴宛てだったんでしょう」


「それは見りゃ分かる」


宗吉は少し苛立った。


「俺宛てなら、何で俺に渡さなかったって聞いてるんだよ」


「だから、仕事はもうほかの人に決まったっていう知らせだったんでさ」


「だったら、それを見せればいいだろ」


「もう終わった話でしょう」


宗吉は弥一を見る。


弥一の顔からは、何も読み取れなかった。


「この前、次からは俺に聞くって言っただろ」


「あれは、仕事を断るときの話でしょう」


「俺宛てのものを、勝手に片づけていいって話じゃねえ」


弥一は黙った。


「どこの仕事だった」


「さあ」


「さあ?」


「何だったかな」


弥一は燃え残りへ目をやる。


「そこ、もう焼けてるでしょう」


「焼いたのお前だろ」


「そうですよ」


「なら、知ってるだろ」


「見たときは覚えてたんですけどね」


宗吉は黙った。


紙を見る。


黒く焦げた端が、指先で少し崩れた。


差出人の名は残っていない。


店の名らしいものも読めない。


本当に断りの書状だったのか。


確かめる方法はなかった。


弥一の言っていることがおかしいと断じる証拠もない。


仕事を探している宗吉に、どこかから話が来た。


返事をする前に別の者へ決まり、その知らせだけが届いた。


あり得ない話ではなかった。


ただ、前にも一度、弥一は宗吉へ来た仕事を勝手に断っている。


しかも、そのあとで、次からは宗吉に聞くと約束した。


「弥一」


「何です?」


「俺宛てのものを、勝手に開けるな」


宗吉は言った。


「仕事が駄目だったって知らせでも、俺の名前で来たものなら俺に渡せ」


「はい」


「燃やすのは、俺が読んだあとだ」


「分かりました」


弥一は素直に答えた。


「悪かったですよ、兄貴」


「兄貴って言うな」


宗吉は紙をもう一度見た。


弥一が嘘をついたという証拠はない。


本当に断りの書状だったのかもしれない。


宗吉へ知らせが届く前に、ほかの者へ決まっていたのかもしれない。


世話になっている相手を、証拠もないまま嘘つきだと決めつけることにも抵抗があった。


それに、宗吉自身、弥一を信じたかった。


「次から、絶対に勝手なことするなよ」


「気をつけます」


宗吉はそれ以上、追及しなかった。


ただし、燃え残りは捨てなかった。


自分の帳面を出し、使っていない頁のあいだへ、崩れないように挟んだ。


帳面を閉じる前に、もう一度だけ宛名を見た。


根津宗吉殿。


それ以外の文字は、ほとんど黒く焼け落ちていた。


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