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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
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十幕 共同の蓄え

弥一の家へ移ってから、宗吉の暮らしは以前より安定した。


一食ごとに銭の減りを気にする必要がなくなった。


宗吉が炊事や洗濯、繕い物を引き受け、弥一は水汲みや薪運びなど、力の要ることをした。


どちらから言い出したわけでもない。


できるほうがやっているうちに、自然とそうなった。


ただ、宗吉には一つ気になることがあった。


間代を払っていない。


弥一は、決まった働き口が見つかってからでいいと言った。


しかし、それがいつまでも続くのは嫌だった。


柏屋から帳面仕事をもらった日、宗吉は受け取った銭の中から少し取り分けた。


家へ帰ると、弥一の前へ置いた。


「これ」


弥一は銭を見た。


「何です?」


「間代」


「いらないですよ」


「少しだけでも取れ」


「兄貴、まだ決まった働き口がないでしょう」


「だからって、ただで住むのは嫌なんだよ」


弥一はしばらく宗吉を見ていた。


それから、銭には手をつけずに言った。


「じゃあ、俺に払うのはやめましょう」


「だから」


「その代わり、二人で使う金にするんですよ」


宗吉は黙った。


「二人で?」


「飯だの薪だの、毎日使う金があるでしょう」


「あるな」


「兄貴が働いたら入れる。俺も銭が入ったら出す。二人の暮らしに要るものは、そこから買う」


宗吉は少し考えた。


今でも、宗吉が菜を買い、弥一が米を買うような暮らしになっている。


誰の銭で何を買ったのか、いちいち分けるほうが面倒だった。


「それなら、帳面をつけるぞ」


「兄貴ならそう言うと思いましたよ」


弥一が笑った。


二人は、小さな木箱を一つ用意した。


そこへ入れるのは、二人が使ってよい金だった。


それぞれの稼ぎから、無理のない額を入れる。


米や味噌、薪や油など、二人の暮らしに要るものはそこから買う。


宗吉が帳面をつけ、誰かが使ったときには、その額と使い道を書き残す。


それなら、宗吉にも何の抵抗もなかった。


話が変わったのは、その数日後だった。


宗吉が帳面を閉じたところで、弥一が言った。


「兄貴」


「何だ」


「前に言ってた金、まだあります?」


宗吉の手が止まった。


「前に言ってた?」


「使わないほうの金ですよ」


宗吉は弥一を見た。


「ああ」


「まだ触ってないんでしょう」


「当たり前だ。あれはそういう金だからな」


本当にどうにもならなくなったときまで使わない。


そう決めて、ほかの金とは別にしてある。


弥一は頷いた。


「だったら、それも二人の金にしません?」


宗吉の顔が変わった。


「嫌だ」


即答だった。


弥一が笑った。


「早いなあ」


「当たり前だろ。使わない金だって言ったじゃねえか」


「使おうなんて言ってませんよ」


「じゃあ何だよ」


「もっと使わないようにするんでさ」


宗吉には意味が分からなかった。


「兄貴は、その金を何のために取ってあるんです?」


「病気になったり、家が焼けたりしたときだよ。どうにもならなくなったら、故郷へ帰る金にも要る」


「今は二人で暮らしてるでしょう」


「まあな」


「俺が病気になったら、兄貴一人で家の金を出すことになる。兄貴が寝込んだら、今度は俺が出す」


宗吉は聞いていた。


「火事で家を失えば、二人とも困る。仕事がなくなったときだって同じでしょう」


「それはそうだけど」


「だったら、いざというときの金も、二人で持ってたほうがいいんじゃないです?」


宗吉は眉を寄せた。


理屈は分かる。


だが、すぐには頷けなかった。


「あれは俺がずっと貯めてきた金だぞ」


「知ってますよ」


「お前と会うずっと前からだ」


「それも知ってます」


「だったら――」


弥一は宗吉が言い終わるのを待った。


それから、


「だから俺も出すんですよ」


と言った。


「何を?」


「同じだけ」


宗吉は黙った。


「兄貴が持ってる分と同じだけ、俺も出します」


「持ってるのか」


「そのくらいはありますよ」


宗吉は弥一を見た。


弥一が何をして銭を得ているのかは、相変わらず分からない。


聞いても、


「いろいろでさあ」


と濁すだけだった。


それでも、日々の暮らしに困っていないのは事実である。共同の木箱にも、宗吉より多く銭を入れていた。


「そうすれば、兄貴の金は減らないでしょう」


弥一は言った。


「でも、俺だけの金じゃなくなる」


「いざというとき以外、使わないんでしょう?」


「そうだけど」


「なら、持ってるだけなら同じじゃないですか。俺が同じだけ足すぶん、備えは増える」


その言い方は、宗吉に効いた。


減るのではない。


宗吉が長いこと守ってきた金へ、弥一が同じだけ足す。


そうすれば、いざというときの備えは倍になる。


だが、宗吉には別の引っかかりもあった。


「お前、前に俺の仕事を勝手に断っただろ」


弥一の笑みがわずかに薄くなった。


「手紙も燃やした」


「それは、悪かったって言ったでしょう」


「俺に黙って、勝手に決めたことに変わりはねえ」


宗吉は言った。


「そんなお前と、二人で決めなきゃ使わねえって約束して、本当に大丈夫なのか」


弥一は今度は笑わなかった。


「だから、約束するんですよ」


「何を」


「どっちか一人の考えでは、絶対に使わない。兄貴のために必要だと思っても、先に兄貴へ話す」


宗吉は弥一の顔を見た。


「俺だけが故郷へ帰らなきゃならなくなったら?」


「それが本当に必要なら、二人で話して出せばいい。俺だけが困ったときも同じです」


「片方だけのためにも使うのか」


「もう片方が納得すれば」


「勝手には使わない」


「使いませんよ」


弥一ははっきり答えた。


宗吉はまだ迷っていた。


自分の金を出すことへの抵抗はある。


子供の頃から貯め、誰にも渡さず守ってきた金だった。


その一方で、今の宗吉は弥一の家で暮らし、弥一の稼ぎに支えられている。


自分だけが備えを抱えたままなのも、どこか違う気がした。


その日のうちには決めなかった。


宗吉は一晩考えた。


弥一は人のためだと思えば、本人へ相談せずに動くところがある。


仕事を断ったことも、手紙を燃やしたことも、宗吉は忘れていない。


それでも、弥一が宗吉の銭を自分のものにしたことは一度もなかった。


今回は、弥一も同じだけ出すという。


そして、一人の考えでは使わないと約束した。


翌日。


「弥一」


「はい」


「昨日の話」


弥一がこちらを見る。


「やってもいい」


弥一の口元が上がった。


「本当です?」


「ただし、約束は守れよ」


「守りますよ」


「勝手に使うな」


「はい」


「俺も使わない」


「はい」


宗吉は立ち上がった。


自分の荷の中から、長くしまっていた包みを持ってきた。


使わない金として分けて以来、包みを開くのは初めてだった。


使っていないのだから減るはずがない。


これまでは、数え直す必要もなかった。


しかし、弥一が同じ額を出すというのなら、いくらあるのか確かめなければならない。


宗吉は包みを開いた。


中身を一つずつ確かめ、総額を出した。


弥一へ告げる。


「分かりました」


弥一も自分の金を出した。


宗吉が数える。


本当に同じだけあった。


「お前、こんなに持ってたのか」


「少しは貯めてますよ」


「意外だな」


「どういう意味です」


宗吉は笑った。


二人は、蓋のついた壺を一つ用意した。


使ってはいけない金を収めるための壺だった。


二人分の金を、いくつかの小さな包みにまとめ直す。


どの包みに、もとは誰の金が入っていたのか分からないように混ぜた。


壺へ収め、蓋をする。


それを神棚へ上げた。


宗吉は下から見上げた。


自分が子供の頃から貯めてきた金が、あそこにある。


少し妙な気分だった。


もう宗吉一人の金ではない。


だが、失ったわけでもない。


以前の倍になり、何かあったときに二人を支える金になった。


「これには触らねえぞ」


宗吉がもう一度言った。


「分かってますよ、兄貴」


「兄貴って言うな」


弥一が笑った。


それからしばらく、二つに分けた共同の金は問題なく扱われた。


日々の暮らしには、木箱に入れた使ってよい金を使う。


柏屋などで仕事をした日には、宗吉も無理のない額を入れた。弥一も、何かの仕事から戻ると銭を足した。


神棚の壺に入れた使ってはいけない金は、数えなかった。


開ける必要がないのだから、宗吉も触れなかった。


共同の金を作ってから、食事にも余裕ができた。


豪勢なものを食べるわけではない。


それでも、魚を見て値だけ確かめて通り過ぎたり、卵を惜しんだりすることは減った。


食うものを削って身体を壊すくらいなら、きちんと食ったほうがよい。


以前に学んだことを、ようやく無理なく実行できるようになった。


宗吉は、この町で少しずつ足場ができてきたように感じていた。


一方で、弥一の夜の外出が増え始めた。


飯を食い終わると、弥一が帯を締め直す。


「また出るのか」


「ちょっと用があるんでさ」


「何の?」


「人に頼まれてて」


相変わらず、それ以上は言わない。


帰りが宗吉の寝たあとになることも増えた。


不思議には思ったが、共同の木箱には変わらず銭を入れている。


だから宗吉も、しつこく問い詰めなかった。


ある日、宗吉は帳面仕事を頼まれ、柏屋へ行った。


店へ入ると、みちが宗吉を見つけた。


「あら、宗吉さん」


「おみちさん」


「そういえば、この前、兼好さんが一人で来たわよ」


宗吉は足を止めた。


「弥一が?」


「うん」


「ここへ?」


「ここへ」


宗吉は知らなかった。


「何しに?」


「嘉助さんに話があるって」


宗吉は眉を寄せた。


「何の話?」


みちは少し笑った。


「嘉助さんに聞いて」


「おみちさんも知ってるんだろ」


「少しはね」


「教えてくれよ」


「本人に聞いたほうがいいんじゃない?」


みちはそれ以上話さなかった。


宗吉は嘉助のところへ行った。


「嘉助さん」


「はい」


「弥一が来たって?」


嘉助は顔を上げた。


「ああ。来ましたよ」


「何を聞きに来たんです?」


嘉助は少し考えてから答えた。


「根津さんのことです」


「俺?」


「ここで、どのくらい帳面仕事をしているのか」


宗吉は黙って聞いた。


「数字を任せても大丈夫か。商いの帳面を扱わせても差し支えないほど信用できるか」


「そんなことまで?」


「聞かれましたね」


宗吉は呆れた。


「何でそんなこと聞くんだ、あいつ」


「何か仕事の話でもあるんじゃないですか」


「だったら俺に言えばいいのに」


「私もそう思いますけどね」


嘉助は笑った。


宗吉も首を傾げたまま、帳面仕事を始めた。


しばらくして、頭上へ目をやった。


梁の上に、大きな家守がいた。


灰色の身体を梁へ伏せ、黒い目だけを下へ向けている。


今日は姿を見せているらしい。


宗吉は少し嬉しくなった。


家守は、宗吉が見ても動かなかった。


やがて店先から、聞き慣れた声がした。


宗吉が顔を上げる。


弥一だった。


「あれ」


弥一も宗吉に気づいた。


「兄貴」


「ちょうどいい。こっち来い」


宗吉は手招きした。


「お前、この前ここへ来たんだって?」


「ああ」


「何しに来た」


「仕事のことで、ちょっと」


「俺の?」


弥一は少しだけ間を置いた。


「まあ、そんなところです」


「何で嘉助さんに、俺が信用できるかなんて聞く必要があるんだよ」


「まだ決まってないんでさ」


「何が」


「決まったら話しますよ」


「じゃあ、今日は何しに来たんだ」


「この前の話の続きですよ」


「だから、その話が何なんだよ」


弥一は笑った。


「そこは、まだ内緒でさ」


宗吉はじっと弥一を見る。


「また勝手に何かしてねえだろうな」


「してませんよ」


「本当か?」


「本当です」


弥一は平然としている。


何かを隠しているのは確かだった。


だが、本当にまだ話せる段階ではないだけにも見えた。


そのとき、梁の上で家守が動いた。


宗吉は目を上げた。


普段なら、人が下を通ろうが何をしようが、ほとんど動かない。


それが今日は違った。


弥一が帳場へ近づくと、家守も梁の上を移り始めた。


ぺたり。


ぺたり。


音もなく進む。


弥一の真上まで来ると、梁の端から柱へ降りた。


長い尾が遅れて落ち、柱へ巻きつく。


家守はそこで身体を固定した。


黒い目が、弥一を捉えている。


弥一も見上げた。


宗吉は笑った。


「お前、あいつに見張られてるぞ」


弥一はしばらく家守を見た。


「そうみたいですね」


「何かしたんじゃねえの?」


「何もしてませんよ」


弥一が一歩動く。


家守の首が追う。


宗吉には、それがおかしかった。


「あいつ、お前だけずいぶん気にするな」


「嫌われたかな」


「余所者だから、警戒されてるんじゃねえか」


「兄貴だって余所者でしょう」


「俺は何度も来てるからな」


「ひどいなあ」


弥一が笑った。


「宗吉さん、何の話?」


みちが二人のほうを見る。


宗吉は柱を指した。


「家守」


「いるの?」


「いる。今日は弥一をずっと見てる」


みちは柱を見た。


もちろん、何も見えていない。


「あら」


少し笑った。


「兼好さん、何か嫌われることしたの?」


「俺まで言われるんですか」


弥一が答える。


宗吉は笑った。


大きな家守は笑わなかった。


柱に身体を張りつけたまま、黒い目で弥一を見ていた。


一度も目を逸らさなかった。


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