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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第03章 子が消える十三日目
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九幕 父神

宗吉は、祠の屋根にいる老人から、背後の木々へ目を移した。


この場所は、もとは聖神のものだった。


今では村人が大年さまに手を合わせ、その名で米や酒を供えている。建て替えられた小さな祠の屋根には、大年神の分霊がいた。


木の葉の隙間から午後の日が差し込んでいる。老人の頭巾の先が、風に持ち上がっては落ちた。


日暮れまでは、まだ十分に間がある。宗吉は畦へ足を向けず、老人へ問いを重ねた。次に来たときも、話を聞けるとは限らない。


「どうして、大年さまを祀る場所になったんです」


老人は屋根の縁に腰を下ろし、小さな脚をぶらつかせた。


「人が忘れたからじゃ」


「聖神のことを?」


「名も、何を願っておったのかもな」


宗吉は祠の前にある稲穂を見た。紐で束ねられた根元に、細い蜘蛛の糸がかかっている。


「昔は、この谷に暮らす者なら、あれの名を知っておった」


老人は田の方へ顔を向けた。


「種を下ろす日、苗を植える日、刈り取る日。人は日を見て働く。早すぎても遅すぎても、実りを失う」


「それで、日を知る神に祈ったんですか」


「そうじゃ。田へ入る前に手を合わせ、実りを得れば供えた。いつ何をすべきか迷えば、あれに伺いを立てた」


宗吉は老人の声を聞きながら、谷あいに続く田を見渡した。刈り跡の上を、一羽の鳥が跳ねている。


今と同じように田を耕し、空模様を気にしていた者たちが、かつてはまるで別の神の名を呼んでいた。


「いつごろ変わったんです」


「いつ、と一日を挙げられるものではない」


老人は答えた。


「昔を知る者が死ぬ。その子は、親ほどには覚えておらぬ。さらに子へ伝えるころには、抜け落ちたところが増える」


聖神の名が残っていても、どんな神なのか分からなくなった時期があったという。それでも人は、その場所へ供え物を運んだ。祠が朽ちれば、また建てた。


やがて、名前まで伝わらなくなった。


田の実りを願う場所ならば、大年さまであろう。


そう呼ぶ者が現れ、ほかの者もその名を使うようになった。


「そんなことで変わるのか」


弥一が言った。


「人がそう呼び、そう祀ればな」


老人は弥一を見た。


「ここへ来る者が大年に願うようになり、わしもここに留まった。それだけのことじゃ」


「聖神は、ここを追われたのか」


「追われたのではない。名を呼ばれなくなったのじゃ」


弥一は祠へ目を落とした。


「ずいぶん勝手な話だな」


老人は何も答えなかった。


宗吉は古びた板壁を見た。今の祠より前にも、そのまた前にも、ここには人が手を合わせる場所があった。建物は替わり、訪れる者も替わった。そのあいだに、祈る相手までが入れ替わっていた。


「聖神は、それを知ってるんですか」


「無論」


「ここを取り返そうとはしなかった?」


老人が首を傾げた。


「取り返す?」


「今は、大年さまがいるでしょう」


「わしがおるからとて、あれが己の場所だと思わなくなるわけではない」


弥一が眉を寄せた。


「じゃあ、二人とも自分の場所だと思ってんのか」


「おぬしは、わしらのあいだに縄でも張りたいのか」


宗吉は思わず祠の屋根を見た。小指より少し大きいだけの老人が、膝に両手を置いている。


弥一は面白くなさそうに腕を組んだ。


「面倒くせえな」


「弥一」


「だって兄貴、そうでしょう」


老人の翁面は、変わらず笑っていた。


宗吉は話を戻した。


「人の子を連れていくようになったのは、忘れられたあとですか」


小さな脚の動きが、ぴたりと止まった。


宗吉は老人を見たまま待った。先ほどは、この社で見たのは彦太郎の娘だけだと答えていた。


「ほかにもいたんですか。ここへ連れてこなかっただけで」


しばらくして、老人が田へ顔を向けた。


「名を呼ぶ者が減り始めたころじゃ」


「子供を集め始めたのは?」


「ああ」


弥一が腕を解いた。


「何人だ」


「数えておらぬ」


「一人二人じゃねえんだな」


「長い年月のことよ」


宗吉は祠の後ろを見た。


藪へ続く道が、木陰に細く残っている。二十三年前、彦太郎とてつの娘が連れていかれたのも、そこだった。


「先ほど、ほかの場所のことは知らないと言いましたよね」


「どこで、誰の子を、どう連れていったかまでは知らぬ。あれが人の子を集めておったことは知っておる」


何も知らないわけではない。どこまで知っていて、何を話さずにいるのか。宗吉には、まだ見分けがつかなかった。


「何のために?」


老人は答えなかった。


「その子たちを、どうしたんです」


「己のところへ置いた」


「神域ですか」


「そう呼ぶなら、そうじゃ」


「そこで育てた?」


老人は小さな手を膝の上で重ねた。


「彦太郎の娘は、育ちはした」


宗吉は顔を上げた。


その娘のことなら、連れていかれたあとも知っている。


「どうなったんです」


翁面が、ゆっくりと宗吉へ向いた。


「逃げた」


風に揺れていた稲穂が、祠の板へ触れて小さく鳴った。


宗吉は口を開きかけ、そのまま老人を見つめた。


弥一が一歩近づく。


「聖神のところからか」


「そうじゃ」


「いつだ」


「十年ほど前か。それより少し前か」


宗吉の指が、懐の帳面に触れた。


十二年前。


徳蔵が野山で見つけた娘は、十四歳ほどに見えたという。三歳で連れていかれ、十一年を経て戻ったのなら、年は合う。


「逃げたのが、彦太郎さんたちの娘だと分かってるんですか」


「分かっておる」


「どうして知ったんです」


「逃げてきたところを、わしが見た」


「この祠で?」


「この谷へ戻ってきた。何度も振り返りながら、林の方へ走っていった」


老人は小さな手で林を指した。宗吉もそちらへ目を向けた。


「どんな姿をしていましたか」


「まだ若い娘じゃった。衣は破れ、長い髪を引きずっておった」


「何か話しましたか」


「声はかけた。だが、足を止めずに行ってしまった」


「では、そのあと、どこへ行ったかは」


「林へ入ったあとのことは知らぬ」


弥一が宗吉を見た。


「兄貴」


「ああ」


宗吉は帳面を取り出した。徳蔵から聞いた道筋の脇に、十二年前、と書いてある。その下には、十四歳ほど、と続いていた。


「おとよさんでしょう」


弥一が声を落とした。


「その可能性は高くなった」


宗吉も小声で答えた。


「けど、この爺さんは今のおとよさんを見てねえ」


「聞こえておるぞ」


屋根の上から声がした。


宗吉は顔を上げた。隣で弥一が口元を曲げる。


「兄貴も爺さんって言ってるじゃないですか」


「今は黙ってろ」


宗吉は帳面を閉じた。


娘が逃げた時期と、とよが見つかった時期は近い。年頃にも無理がない。だが、その証言だけで、徳蔵が見つけた娘と同じだと決まるわけではない。


とよの右の脇腹に、きぬと同じような痣があるかも確かめていなかった。


それでも、徳蔵に拾われる以前のとよへ、初めて手が届きかけていた。


「その娘と思われる人を、俺たちは知っています」


宗吉が言った。


老人は動かなかった。


「十二年前、この近くの野山で見つかった。口が利かず、どこから来たのかも伝えられなかった」


翁面が宗吉を向いている。


「その人は、助けた男と夫婦になりました」


弥一が笑みを消した。


「そして、男の子を二人産んだ」


宗吉は一度、言葉を切った。


「二人とも、生まれて十三日目に消えたんです」


老人の足が、屋根の縁に触れた。


「十三日目?」


「二度ともです」


宗吉は続けた。


「母親は起きていた。血も残っていない。子を抱いて出ていく者を見た人もいない。巡査も調べましたが、見つからなかった」


老人はしばらく黙っていた。


それから、供えられた稲穂へ目を落とした。


「ならば、あれの仕業であろう」


あまりにも、あっさりとした言葉だった。


宗吉は老人を見つめた。


「聖神ですか」


「ああ」


「何で分かる」


弥一の声が低くなった。


「逃げた娘の子を、同じ日を選んで連れていく。あれならば、と考えたまでじゃ」


「見たわけじゃねえんだな」


「見てはおらぬ」


宗吉は弥一を見た。弥一もこちらを向いていた。


目の前の神は、娘が逃げてきたところは見ている。だが、赤ん坊が消えたところを見た証人ではない。話を聞き、自分の子を思い浮かべたのだ。


それでも、人間には見えないものが関わっているのなら、聖神は初めて得た具体的な名だった。


「自分のところから逃げたから、子供を狙うんですか」


宗吉が訊いた。


「そこまでは知らぬ」


「連れ戻したいなら、本人を連れていけばいいでしょう」


老人は黙っていた。


答えのない問いが、宗吉の胸に残った。逃げた娘を取り戻したいのなら、母親を連れていけば済む。それをせず、生まれたばかりの子だけを、二度とも選んでいる。そこに何か理由があるはずだった。


「なぜ十三日目なんです」


「それは、あれに訊かねば分からぬ」


弥一が大きく息を吐いた。


「肝心なところは、何も知らねえんだな」


「親とて、子の胸の内まで知れるものではない」


宗吉は祠の屋根へ手をかけそうになり、止めた。


老人はすぐ目の前にいる。手を伸ばせば届く。だが、近づいて顔を覗いたところで、白い面の下は見えない。


「では、聖神に会わせてください」


翁面が上を向いた。


「できぬ」


「呼ぶことも?」


「できぬ。わしはここにある分霊じゃ。あれがどこへ行こうと、追っていけるものではない」


老人は祠の後ろにある木々へ顔を向けた。


「長く顔を見せぬ。息災でおるとよいがな」


その声は、先ほどまでより低かった。宗吉が次の言葉を待っても、老人はそれ以上続けなかった。


「神域への道は知らないんですか」


「知らぬ」


宗吉は老人の後ろへ目をやった。


「でも、娘を連れていったときは、あの木の向こうへ入ったんでしょう」


「そうじゃ」


「俺たちが通っても、行けない?」


「木の向こうへ出るだけよ」


葉が擦れ合った。幹と幹の間に、細い土の道が見えている。その先にも、藪と草がただ続いていた。


宗吉は唇を結んだ。


そこから連れていったと分かったところで、後を追えるわけではない。


「おとよさんは今、三人目を身籠ってるんです」


宗吉は老人へ向き直った。


「もう、いつ生まれてもおかしくない」


弥一は何も言わなかった。


「もし聖神の仕業なら、今度も来るかもしれない」


宗吉の脳裏に、とよの手がよみがえった。


十三日目と聞いて着物を掴み、やがて腹へ移った手。言いたいことが伝わらず、途中で止まった指。


あの女は、何が来るのか知っていたのかもしれない。


知っていて、二度も子を失ったのかもしれない。


「止める方法を教えてください」


老人は答えなかった。


祠の前で、弥一の足が土を擦った。


「何かあるだろ。あんたの子なんだぞ」


翁面が弥一を向いた。


「神の親子を、おぬしらと同じに考えるな」


「同じかどうかなんて聞いてねえよ」


弥一が身を屈めた。小さな老人へ、顔を近づける。


「次の子まで消えてからじゃ遅えんだ」


宗吉は弥一の腕へ手を置いた。


弥一はしばらく老人を睨んでいたが、やがて身体を起こした。


午後の風が、二人の着物の裾を揺らした。畦の向こうでは、農夫が稲束を抱えて歩いている。


宗吉はもう一度、屋根の上を見た。


翁面の口元には、初めから変わらぬ笑みがあった。


「あなたには、止められないんですか」


老人は、小さな両手を膝へ戻した。


「止められぬ」


宗吉は返事をしなかった。


老人がゆっくりと首を振る。


「わしには、あれを止めるだけの力がない」

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