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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第03章 子が消える十三日目
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八幕 この社は誰のものか

祠は、まだあった。


彦太郎とてつの家から谷戸までは、宗吉が思っていたほど遠くなかった。教えられた道を進み、丘の裾を回り込むと、ほどなく細い畦道へ出た。


日はまだ高く、日暮れまでには十分に間がある。祠を調べてから来た道を戻っても、徳蔵と約束した時刻までには余裕を持って飯屋へ着ける。


谷戸には田が細長く続いていた。稲刈りを終えた田が多く、短い稲株が午後の日に照らされて金色に光っている。ところどころに稲束が残り、乾いた葉が風に擦れて鳴った。


町から流れてくる風とは、匂いがまるで違う。湿った土と、刈られた稲と、枯れ始めた草の匂いがした。


「兄貴」


後ろを歩く弥一が言った。


「何だ」


「帰り道で迷わないでくださいよ」


「迷わねえよ」


「来るとき、二度も違う方へ曲がろうとしたでしょう」


「道を確かめただけだ」


「間違えた人は、大抵そう言うんですよ」


宗吉は振り返った。


「曲がる前に戻っただろ」


「俺が呼び止めたからでしょう」


「言われなくても気づいてた」


「じゃあ、帰りは安心ですね」


弥一は少し笑っていた。


宗吉は前を向き、足を速めた。畦は狭く、両側の田にはところどころ水が残っている。足を滑らせれば、泥の中へ落ちかねない。


二十三年前、彦太郎とてつも三歳の娘を連れ、この谷戸へ来た。


娘を飢えさせずに育てる。


白い女面をつけた女は、そう言ったという。


夫婦は朝靄の残る畦を歩き、田の外れにある祠まで娘を連れてきた。女は娘の手を取り、祠の後ろにある木の陰へ入った。その直後、女も娘も姿を消した。


宗吉は畦の先へ目を凝らした。


「あれじゃないですか」


弥一が言った。


田の外れに、数本の木が寄り集まっていた。その根元に、小さな屋根が覗いている。


近づくにつれ、祠の形がはっきりしてきた。


鳥居も石段もない。土を少し盛った上に、板を組んだ小さな祠が置かれているだけだった。


屋根は雨に晒されて黒ずんでいたが、二十三年ものあいだ打ち捨てられていたようには見えない。板は古いものの、柱は傾いていなかった。軒の下には細い蜘蛛の巣が張り、板の隙間には苔が入り込んでいる。


祠の前には、小さな徳利と乾いた稲穂が供えられていた。


宗吉は足を止めた。


「ここだな」


「話どおりですね」


弥一が祠の後ろへ回る。


数本の木の向こうに、藪へ続く細い道があった。午後の日は木々に遮られ、道の先にはもう薄い影が溜まっている。


白い女面をつけた女は、娘の手を引いてあの木の陰へ入った。


彦太郎とてつがすぐに追ったときには、もう誰もいなかった。


宗吉は木の向こうを覗き込んだ。藪の中には、人が一人通れるほどの道が続いている。だが、二十三年前と今とでは、木も草も様子が変わっているはずだった。


今さら残された足跡など、探しようがない。


「兄貴」


弥一が小さく呼んだ。


「何だ」


「いますよ」


宗吉は祠へ目を戻した。


「見えてる」


祠の屋根に、小さな老人が座っていた。


伸ばした小指より、わずかに背が高いだけだった。


宗吉が祠へ近づいたときには、屋根の上に何もいなかったはずである。それが今は、軒先に両足を垂らし、二人を見下ろしていた。


顔には、小さな翁面をつけている。垂れた白い眉。深く刻まれた皺。わずかに笑っている口元。


頭には先の長い頭巾をかぶっていた。折れ曲がった先端が、背中へくたりと垂れている。身体には幾重にも小さな衣をまとい、袖から覗く手も、足の履物も、豆粒ほどしかない。


あまりに小さいため、少し目を離せば祠の飾りと見間違えそうだった。


それでも、生きたものだとはっきり分かった。


翁面が、まっすぐ宗吉を向いていた。


「兄貴にも見えてますよね」


弥一が念を押した。


「ああ」


「よかった」


「何がだ」


「俺だけだったら、ちょっと困るでしょう」


「何でだよ」


「こんな小さい爺さんが屋根に座ってるって言って、兄貴に何も見えなかったら嫌じゃないですか」


翁面が、ゆっくりと弥一へ向いた。


弥一が黙った。


宗吉は思わず口元を緩めた。


「聞こえてたみたいだぞ」


「……みたいですね」


小さな老人が立ち上がった。


身体は小指ほどしかない。それでも屋根の上に立つと、その姿だけが周囲から切り抜かれたように、くっきりと浮き上がって見えた。


風が吹いた。


頭巾の先と衣の裾が揺れる。


老人が言った。


「何用じゃ」


声は小さくなかった。


あの身体のどこから出ているのか分からない。すぐ耳元で話されたように、言葉だけが明瞭に届いた。


宗吉は老人を見上げた。


「ここに祀られてる神さまですか」


翁面がわずかに傾いた。


「そうじゃ」


「大年さま?」


「いかにも」


彦太郎の話では、村の者はこの祠を大年さまのものだと伝えてきた。


宗吉は老人と祠を見比べた。


「でも、大年さまがみんな、その大きさってわけじゃないですよね」


「わしは、この社に分けられたものよ」


老人は答えた。


「いわゆる分霊というやつじゃな」


「分霊」


「あちこちで大年と呼ばれ、祀られておるものの一つじゃ。大きいも小さいもない」


弥一が祠を見上げた。


「見た目は、ずいぶん小さい爺さんだけどな」


翁面が弥一へ向く。


「大きいばかりで、よう喋る男じゃ」


「小さい爺さんに言われたくねえな」


「弥一」


宗吉が咎めた。


「何です」


「喧嘩しに来たんじゃねえぞ」


「こいつが先に言ったんでしょう」


「神さまを、こいつ呼ばわりするな」


「神さまでも、小さい爺さんは小さい爺さんですよ」


老人はしばらく弥一を見ていた。


怒っている様子はない。翁面の笑みが、先ほどより深くなったようにも見えた。


そのとき、畦の向こうから一人の農夫が歩いてきた。肩に鍬を担いでいる。


宗吉と弥一を見ると、農夫は軽く会釈した。祠の前まで来たところで足を止め、屋根の上へ目を向けることもなく、深々と頭を下げる。


小指ほどの老人は、その頭のすぐ上から農夫を見下ろしていた。


だが農夫の目には、何も映っていないらしい。


頭を上げると、そのまま畦を歩き去った。


足音が遠ざかるまで、老人は黙っていた。


宗吉は祠の後ろに立つ木を見た。


「昔のことを訊いてもいいですか」


老人は答えなかった。


翁面だけが宗吉へ向いている。


「二十三年前、ここへ女が来た」


祠の後ろを指す。


「白い女面をつけて、長い黒髪を垂らした女です。夫婦が三歳の娘を連れてきた」


翁面が、わずかに上を向いた。


「女は娘の手を取り、あの木の向こうへ入った。夫婦がすぐ追ったときには、二人とも消えていた」


しばらくして、老人が言った。


「あれか」


宗吉は老人を見た。


「覚えてるんですか」


「覚えておる」


「本当に、この祠で起きた?」


「ああ」


夫婦の話と、老人の話は重なった。


白い女面の女に娘を預けたという説明を、ただの作り話と退けることはできなくなった。


「女は何者なんです」


老人は屋根の前端まで歩いた。


小さな足が板を踏む。ほとんど聞こえないはずなのに、一歩ごとに乾いた音が立った。


「何者も何も」


老人が言った。


「あれは我が子じゃ」


宗吉は一瞬、意味を取り損ねた。


「子?」


「ああ」


「神なんですか」


「神は神じゃ」


老人は答えた。


「名を聖神という」


「ひじりのかみ?」


「そうじゃ」


宗吉がその名を口にし、老人が頷くと、田を渡っていた風が、ぴたりと止んだ。


稲束の乾いた葉が擦れる音も消えた。


祠の後ろにある木々までが、息を潜めたように静まり返った。


聖神。


宗吉はその名を知らなかった。隣を見ると、弥一も眉を寄せている。


「何の神です」


宗吉が訊いた。


「日を知るものよ」


「日を?」


「時を数え、日を違えぬ」


宗吉の胸の奥で、何かが音を立てて動いた。


十三日目。


おとよの二人の子は、どちらも生まれて十三日目に消えている。


「十三日目という日数に、何か意味はありますか」


「わからぬ」


老人は、それだけ答えた。


「聖神が、彦太郎さんたちの娘を連れていった?」


「ああ」


「何のために」


老人は答えなかった。


「どこへ連れていったんです」


翁面は宗吉を向いたまま、微動だにしない。


「娘は、聖神のところで育てられた?」


答えはなかった。


宗吉は問いを変えた。


「聖神は、ほかにも子供を連れていったことがありますか」


「この社で見たのは、あれきりじゃ」


「ほかの場所では?」


「知らぬ」


宗吉は口の中で、その答えを転がした。


老人がこの祠で子供を連れていくところを見たのは、二十三年前の一度きりだという。


だが、とよの子は二度消えている。三年前と、去年。どちらも開港場の飯屋の奥、母親の腕の中からだった。そこで女面の女を見たという話は、まだ聞いていない。とよが何を見たのかも分からないままだった。


もし同じ神が連れ去ったのなら、きぬのときには親に娘を連れてこさせ、赤ん坊たちは家の中から連れ去ったことになる。その違いは何なのか。


弥一が口を開いた。


「自分の子なのに、何をしてるか知らねえのか」


老人の翁面が弥一へ向く。


「親だからとて、子のすることを何もかも知っておると思うな」


「ずいぶん勝手な親子だな」


「弥一」


「だって、そうでしょう。子供が一人消えてるんですよ」


老人は何も答えなかった。


翁面には同じ笑みが刻まれている。


その奥で何を考えているのか、宗吉には分からなかった。


宗吉は祠を見た。


「この祠は、二十三年前からここにあったんですか」


「あった」


老人は答えた。


「ただし、この箱ではない」


「箱?」


老人が足元を踏んだ。


「祠じゃ。古いものは朽ちた。今のものは、あとから村の者が建て直した」


目の前にある祠そのものは、彦太郎たちが娘を連れてきたときのものではない。


それでも、祀られている神は変わっていなかった。


「二十三年前も、大年さまの祠だった?」


「そうじゃ」


宗吉は祠の後ろに立つ木へ目を向けた。


老人の話どおりなら、親を祀る場所を使って娘を受け取ったとしても、不思議ではないのかもしれない。


だが、なぜこの祠だったのか。


なぜ、わざわざ彦太郎にここまで娘を連れてこさせたのか。


「聖神は、今もいるんですか」


宗吉が訊いた。


老人は小さな肩を動かした。


「さてな」


「知らない?」


「長く顔を見ておらぬ」


「最後に見たのは?」


「娘を連れていった、あの日じゃ」


二十三年前。


老人が最後に聖神を見たのも、三歳の娘を連れていった日だという。


宗吉はおとよの顔を思い浮かべた。


十四歳ほどで、野山に一人座っていた娘。


異様なほど長い黒髪。


過去を伝えることができず、拾われた場所へ近づくことを恐れた。


彦太郎とてつの娘が消えてから、およそ十一年後に現れた。


もし、同じ娘なら。


その十一年のあいだ、とよはどこにいたのか。


「兄貴」


弥一が呼んだ。


宗吉は我に返った。


「何だ」


「そろそろ戻りましょう。店でも確かめることがあるんでしょう」


日はまだ丘の上に高く、帰りを急ぐほどの時刻ではなかった。


祠から彦太郎たちの家までは遠くない。そこから来た道を戻れば、飯屋には日暮れ前に余裕を持って着ける。


宗吉は頷いた。


それでも、もう一つだけ確かめたかった。


「聖神は、昔からこの場所に縁があるんですか」


老人が動きを止めた。


宗吉は、その変化を見逃さなかった。


「娘を連れてくる場所に、ここを選んだのは、何か理由があったのかと思って」


翁面が、ゆっくりと田の向こうへ向いた。


刈り取られた田。


谷を囲む低い丘。


風に揺れる枯れ草。


人がここへ田を作るより前には、何があったのだろう。


「古い昔のことじゃ」


老人が言った。


「人が神々の名を古い書物へ記すより、さらに前のことよ」


宗吉は黙って待った。


「そのころは、祠などなかった」


「大年さまも、ここにはいなかった?」


「ああ」


「では、誰の場所だったんです」


老人は、祠の後ろにある木々を見た。


藪の奥から、風が吹き出した。


枝が揺れ、重なった葉の隙間に暗い道が覗いた。それは一瞬だけ、この谷戸の外ではないどこかへ続いているように見えた。


老人の翁面が、宗吉へ戻る。


「我が子よ」


声が、静まり返った田へ落ちた。


「この社の建つ場所は、もとは聖神のものじゃ」

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