八幕 この社は誰のものか
祠は、まだあった。
彦太郎とてつの家から谷戸までは、宗吉が思っていたほど遠くなかった。教えられた道を進み、丘の裾を回り込むと、ほどなく細い畦道へ出た。
日はまだ高く、日暮れまでには十分に間がある。祠を調べてから来た道を戻っても、徳蔵と約束した時刻までには余裕を持って飯屋へ着ける。
谷戸には田が細長く続いていた。稲刈りを終えた田が多く、短い稲株が午後の日に照らされて金色に光っている。ところどころに稲束が残り、乾いた葉が風に擦れて鳴った。
町から流れてくる風とは、匂いがまるで違う。湿った土と、刈られた稲と、枯れ始めた草の匂いがした。
「兄貴」
後ろを歩く弥一が言った。
「何だ」
「帰り道で迷わないでくださいよ」
「迷わねえよ」
「来るとき、二度も違う方へ曲がろうとしたでしょう」
「道を確かめただけだ」
「間違えた人は、大抵そう言うんですよ」
宗吉は振り返った。
「曲がる前に戻っただろ」
「俺が呼び止めたからでしょう」
「言われなくても気づいてた」
「じゃあ、帰りは安心ですね」
弥一は少し笑っていた。
宗吉は前を向き、足を速めた。畦は狭く、両側の田にはところどころ水が残っている。足を滑らせれば、泥の中へ落ちかねない。
二十三年前、彦太郎とてつも三歳の娘を連れ、この谷戸へ来た。
娘を飢えさせずに育てる。
白い女面をつけた女は、そう言ったという。
夫婦は朝靄の残る畦を歩き、田の外れにある祠まで娘を連れてきた。女は娘の手を取り、祠の後ろにある木の陰へ入った。その直後、女も娘も姿を消した。
宗吉は畦の先へ目を凝らした。
「あれじゃないですか」
弥一が言った。
田の外れに、数本の木が寄り集まっていた。その根元に、小さな屋根が覗いている。
近づくにつれ、祠の形がはっきりしてきた。
鳥居も石段もない。土を少し盛った上に、板を組んだ小さな祠が置かれているだけだった。
屋根は雨に晒されて黒ずんでいたが、二十三年ものあいだ打ち捨てられていたようには見えない。板は古いものの、柱は傾いていなかった。軒の下には細い蜘蛛の巣が張り、板の隙間には苔が入り込んでいる。
祠の前には、小さな徳利と乾いた稲穂が供えられていた。
宗吉は足を止めた。
「ここだな」
「話どおりですね」
弥一が祠の後ろへ回る。
数本の木の向こうに、藪へ続く細い道があった。午後の日は木々に遮られ、道の先にはもう薄い影が溜まっている。
白い女面をつけた女は、娘の手を引いてあの木の陰へ入った。
彦太郎とてつがすぐに追ったときには、もう誰もいなかった。
宗吉は木の向こうを覗き込んだ。藪の中には、人が一人通れるほどの道が続いている。だが、二十三年前と今とでは、木も草も様子が変わっているはずだった。
今さら残された足跡など、探しようがない。
「兄貴」
弥一が小さく呼んだ。
「何だ」
「いますよ」
宗吉は祠へ目を戻した。
「見えてる」
祠の屋根に、小さな老人が座っていた。
伸ばした小指より、わずかに背が高いだけだった。
宗吉が祠へ近づいたときには、屋根の上に何もいなかったはずである。それが今は、軒先に両足を垂らし、二人を見下ろしていた。
顔には、小さな翁面をつけている。垂れた白い眉。深く刻まれた皺。わずかに笑っている口元。
頭には先の長い頭巾をかぶっていた。折れ曲がった先端が、背中へくたりと垂れている。身体には幾重にも小さな衣をまとい、袖から覗く手も、足の履物も、豆粒ほどしかない。
あまりに小さいため、少し目を離せば祠の飾りと見間違えそうだった。
それでも、生きたものだとはっきり分かった。
翁面が、まっすぐ宗吉を向いていた。
「兄貴にも見えてますよね」
弥一が念を押した。
「ああ」
「よかった」
「何がだ」
「俺だけだったら、ちょっと困るでしょう」
「何でだよ」
「こんな小さい爺さんが屋根に座ってるって言って、兄貴に何も見えなかったら嫌じゃないですか」
翁面が、ゆっくりと弥一へ向いた。
弥一が黙った。
宗吉は思わず口元を緩めた。
「聞こえてたみたいだぞ」
「……みたいですね」
小さな老人が立ち上がった。
身体は小指ほどしかない。それでも屋根の上に立つと、その姿だけが周囲から切り抜かれたように、くっきりと浮き上がって見えた。
風が吹いた。
頭巾の先と衣の裾が揺れる。
老人が言った。
「何用じゃ」
声は小さくなかった。
あの身体のどこから出ているのか分からない。すぐ耳元で話されたように、言葉だけが明瞭に届いた。
宗吉は老人を見上げた。
「ここに祀られてる神さまですか」
翁面がわずかに傾いた。
「そうじゃ」
「大年さま?」
「いかにも」
彦太郎の話では、村の者はこの祠を大年さまのものだと伝えてきた。
宗吉は老人と祠を見比べた。
「でも、大年さまがみんな、その大きさってわけじゃないですよね」
「わしは、この社に分けられたものよ」
老人は答えた。
「いわゆる分霊というやつじゃな」
「分霊」
「あちこちで大年と呼ばれ、祀られておるものの一つじゃ。大きいも小さいもない」
弥一が祠を見上げた。
「見た目は、ずいぶん小さい爺さんだけどな」
翁面が弥一へ向く。
「大きいばかりで、よう喋る男じゃ」
「小さい爺さんに言われたくねえな」
「弥一」
宗吉が咎めた。
「何です」
「喧嘩しに来たんじゃねえぞ」
「こいつが先に言ったんでしょう」
「神さまを、こいつ呼ばわりするな」
「神さまでも、小さい爺さんは小さい爺さんですよ」
老人はしばらく弥一を見ていた。
怒っている様子はない。翁面の笑みが、先ほどより深くなったようにも見えた。
そのとき、畦の向こうから一人の農夫が歩いてきた。肩に鍬を担いでいる。
宗吉と弥一を見ると、農夫は軽く会釈した。祠の前まで来たところで足を止め、屋根の上へ目を向けることもなく、深々と頭を下げる。
小指ほどの老人は、その頭のすぐ上から農夫を見下ろしていた。
だが農夫の目には、何も映っていないらしい。
頭を上げると、そのまま畦を歩き去った。
足音が遠ざかるまで、老人は黙っていた。
宗吉は祠の後ろに立つ木を見た。
「昔のことを訊いてもいいですか」
老人は答えなかった。
翁面だけが宗吉へ向いている。
「二十三年前、ここへ女が来た」
祠の後ろを指す。
「白い女面をつけて、長い黒髪を垂らした女です。夫婦が三歳の娘を連れてきた」
翁面が、わずかに上を向いた。
「女は娘の手を取り、あの木の向こうへ入った。夫婦がすぐ追ったときには、二人とも消えていた」
しばらくして、老人が言った。
「あれか」
宗吉は老人を見た。
「覚えてるんですか」
「覚えておる」
「本当に、この祠で起きた?」
「ああ」
夫婦の話と、老人の話は重なった。
白い女面の女に娘を預けたという説明を、ただの作り話と退けることはできなくなった。
「女は何者なんです」
老人は屋根の前端まで歩いた。
小さな足が板を踏む。ほとんど聞こえないはずなのに、一歩ごとに乾いた音が立った。
「何者も何も」
老人が言った。
「あれは我が子じゃ」
宗吉は一瞬、意味を取り損ねた。
「子?」
「ああ」
「神なんですか」
「神は神じゃ」
老人は答えた。
「名を聖神という」
「ひじりのかみ?」
「そうじゃ」
宗吉がその名を口にし、老人が頷くと、田を渡っていた風が、ぴたりと止んだ。
稲束の乾いた葉が擦れる音も消えた。
祠の後ろにある木々までが、息を潜めたように静まり返った。
聖神。
宗吉はその名を知らなかった。隣を見ると、弥一も眉を寄せている。
「何の神です」
宗吉が訊いた。
「日を知るものよ」
「日を?」
「時を数え、日を違えぬ」
宗吉の胸の奥で、何かが音を立てて動いた。
十三日目。
おとよの二人の子は、どちらも生まれて十三日目に消えている。
「十三日目という日数に、何か意味はありますか」
「わからぬ」
老人は、それだけ答えた。
「聖神が、彦太郎さんたちの娘を連れていった?」
「ああ」
「何のために」
老人は答えなかった。
「どこへ連れていったんです」
翁面は宗吉を向いたまま、微動だにしない。
「娘は、聖神のところで育てられた?」
答えはなかった。
宗吉は問いを変えた。
「聖神は、ほかにも子供を連れていったことがありますか」
「この社で見たのは、あれきりじゃ」
「ほかの場所では?」
「知らぬ」
宗吉は口の中で、その答えを転がした。
老人がこの祠で子供を連れていくところを見たのは、二十三年前の一度きりだという。
だが、とよの子は二度消えている。三年前と、去年。どちらも開港場の飯屋の奥、母親の腕の中からだった。そこで女面の女を見たという話は、まだ聞いていない。とよが何を見たのかも分からないままだった。
もし同じ神が連れ去ったのなら、きぬのときには親に娘を連れてこさせ、赤ん坊たちは家の中から連れ去ったことになる。その違いは何なのか。
弥一が口を開いた。
「自分の子なのに、何をしてるか知らねえのか」
老人の翁面が弥一へ向く。
「親だからとて、子のすることを何もかも知っておると思うな」
「ずいぶん勝手な親子だな」
「弥一」
「だって、そうでしょう。子供が一人消えてるんですよ」
老人は何も答えなかった。
翁面には同じ笑みが刻まれている。
その奥で何を考えているのか、宗吉には分からなかった。
宗吉は祠を見た。
「この祠は、二十三年前からここにあったんですか」
「あった」
老人は答えた。
「ただし、この箱ではない」
「箱?」
老人が足元を踏んだ。
「祠じゃ。古いものは朽ちた。今のものは、あとから村の者が建て直した」
目の前にある祠そのものは、彦太郎たちが娘を連れてきたときのものではない。
それでも、祀られている神は変わっていなかった。
「二十三年前も、大年さまの祠だった?」
「そうじゃ」
宗吉は祠の後ろに立つ木へ目を向けた。
老人の話どおりなら、親を祀る場所を使って娘を受け取ったとしても、不思議ではないのかもしれない。
だが、なぜこの祠だったのか。
なぜ、わざわざ彦太郎にここまで娘を連れてこさせたのか。
「聖神は、今もいるんですか」
宗吉が訊いた。
老人は小さな肩を動かした。
「さてな」
「知らない?」
「長く顔を見ておらぬ」
「最後に見たのは?」
「娘を連れていった、あの日じゃ」
二十三年前。
老人が最後に聖神を見たのも、三歳の娘を連れていった日だという。
宗吉はおとよの顔を思い浮かべた。
十四歳ほどで、野山に一人座っていた娘。
異様なほど長い黒髪。
過去を伝えることができず、拾われた場所へ近づくことを恐れた。
彦太郎とてつの娘が消えてから、およそ十一年後に現れた。
もし、同じ娘なら。
その十一年のあいだ、とよはどこにいたのか。
「兄貴」
弥一が呼んだ。
宗吉は我に返った。
「何だ」
「そろそろ戻りましょう。店でも確かめることがあるんでしょう」
日はまだ丘の上に高く、帰りを急ぐほどの時刻ではなかった。
祠から彦太郎たちの家までは遠くない。そこから来た道を戻れば、飯屋には日暮れ前に余裕を持って着ける。
宗吉は頷いた。
それでも、もう一つだけ確かめたかった。
「聖神は、昔からこの場所に縁があるんですか」
老人が動きを止めた。
宗吉は、その変化を見逃さなかった。
「娘を連れてくる場所に、ここを選んだのは、何か理由があったのかと思って」
翁面が、ゆっくりと田の向こうへ向いた。
刈り取られた田。
谷を囲む低い丘。
風に揺れる枯れ草。
人がここへ田を作るより前には、何があったのだろう。
「古い昔のことじゃ」
老人が言った。
「人が神々の名を古い書物へ記すより、さらに前のことよ」
宗吉は黙って待った。
「そのころは、祠などなかった」
「大年さまも、ここにはいなかった?」
「ああ」
「では、誰の場所だったんです」
老人は、祠の後ろにある木々を見た。
藪の奥から、風が吹き出した。
枝が揺れ、重なった葉の隙間に暗い道が覗いた。それは一瞬だけ、この谷戸の外ではないどこかへ続いているように見えた。
老人の翁面が、宗吉へ戻る。
「我が子よ」
声が、静まり返った田へ落ちた。
「この社の建つ場所は、もとは聖神のものじゃ」




