七幕 神隠しと美しい女
彦太郎とてつの家は、村の外れにあった。
村での聞き込みを終えた宗吉と弥一が、教えられた細道を進んでいくと、丘の裾に身を寄せるようにして小さな家が建っていた。背後には雑木林が黒々と迫り、軒下には割った薪が積まれている。庭の隅では細い丸太や枝が縄で束ねられ、切り株の上には使い込まれた鉈が置かれていた。
土壁は雨風に晒されて黒ずみ、屋根も新しくない。それでも庭は掃かれ、薪は崩れないよう、きちんと積まれていた。
丘の影が、庭の端まで伸び始めている。
宗吉が戸口から声をかけると、しばらくして女が出てきた。
四十代半ばほどに見えた。小柄で日に焼け、髪には白いものが混じっている。
女は宗吉を見、それから隣に立つ弥一を見上げた。
「おてつさんですか」
「そうだけど」
「彦太郎さんはいますか」
「いるよ」
宗吉が昔のことで話を聞きたいと告げると、てつの表情がわずかに動いた。
家の奥で物音がした。
やがて男が姿を見せた。四十代後半ほどで、額や目尻には深い皺が刻まれている。長年の山仕事で日に焼け、肩や腕には今も山へ入る者の厚みが残っていた。
「誰だ」
「彦太郎さんですか」
男が頷く。
「根津宗吉です。こっちは兼好弥一」
弥一が軽く頭を下げた。
「どうも」
彦太郎は二人を見比べた。
「何の用だ」
宗吉は少し間を置いた。
「身元の分からない人がいて、頼まれて昔のことを調べています。この辺りにいたことがあるので、手がかりを探しに来ました。娘さんがいなくなったころのことを、聞かせてもらえませんか」
彦太郎の顔が固まった。
てつも動かなかった。
山から下りてきた風が、軒先に吊した縄の端を揺らした。
「誰から聞いた」
「この辺りに昔から住んでいる人たちです」
「何て聞いた」
「娘さんは三つだった。彦太郎さんは、知らない女に預けたと言った」
彦太郎は黙って宗吉を見ていた。てつが目を伏せる。
「まだ覚えてる人がいるんだね」
宗吉は続けた。
「娘を売ったんじゃないかという噂もあったそうですね。死なせたことを隠しているんじゃないか、とも」
「違う」
彦太郎が、腹の底から押し出すように言った。
「噂だけでは、何があったのか分かりません。ご自分で見たことを聞かせてください」
「言ったところで信じねえよ」
「聞く前から、嘘だと決めつけるつもりはありません」
彦太郎は、しばらく宗吉を見据えていた。
弥一は何も言わない。
やがて彦太郎が、顎で家の中を示した。
「入れ」
中は薄暗かった。小さな囲炉裏があり、壁際には籠や縄、山仕事に使う道具が寄せてある。
てつは囲炉裏の向こうへ座った。彦太郎もその隣へ腰を下ろす。宗吉と弥一は向かいに座った。
宗吉は帳面を出さなかった。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて彦太郎が、囲炉裏の灰を見つめたまま言った。
「あのころは、ひどく貧しかった」
今も豊かな暮らしではない。だが、そのころは本当に食べるものがなかった。
彦太郎は毎日のように山へ入り、木を切った。薪にし、炭を焼き、頼まれれば材木を運んだ。てつも畑を手伝い、山菜を採り、近くの家から細かな仕事をもらった。
それでも足りなかった。雨が続けば山へ入れない。仕事がなければ銭も入らない。どちらかが身体を痛めれば、その日から食べるものが減った。
娘は三つだった。一人娘だった。
「腹が減ったって泣くんだ」
彦太郎は言った。
「子供だからな」
てつは俯いている。
「粥を水で増やした。芋があれば入れた。山で採れるものも食わせた。それでも、何もない日はあった」
彦太郎は囲炉裏の火へ目を落とした。
「俺らが食わなきゃ、その分だけ娘にやれると思った。実際、食わなかった。それでも足りなかった」
ある日のことだった。
季節は春の終わりで、谷戸の田には水が入り始めていた。
彦太郎は朝から山へ入り、斜面で木を切っていた。鉈を振るい、額の汗を袖で拭ったとき、ふと人の気配を感じた。
少し離れた木々の間に、女が立っていた。
「村の人ですか」
宗吉が訊いた。
「違う」
「見たことは?」
「なかった」
女は、白い面をつけていた。
若い女の顔をかたどった面だった。細い眉、伏せた目、小さな口。何も思っていないようにも、かすかに笑っているようにも見えた。
面の周りから、長い黒髪が垂れていた。乱れひとつない髪が腰の下まで垂れ、風が木々を揺らすたび、その先だけが静かに動いた。
女は細身だった。衣も、この辺りの女が着るものと、大きく違っては見えなかった。
だが、山を歩いてきた者の姿ではなかった。
裾には泥ひとつついていない。草の実も、木の枝に引っかけた跡もない。袖から出た手は白く、指が細かった。
本当の顔立ちは、面に隠れて少しも分からなかった。
それなのに彦太郎は、ひどく美しい女だと思った。
「顔は見えなかったんだろ」
弥一が訊いた。
「ああ」
「それで美しいと思ったのか」
彦太郎はしばらく考えた。
「そう思ったんだよ」
「妙だな」
「今になればな」
彦太郎は言った。
「あのときは、そういう女なんだと思った」
その女が、彦太郎の名を呼んだ。
大きな声ではなかった。鳥の声も、風に擦れる葉の音もしていた。それでも、女の声だけは妙にはっきりと耳へ届いた。
「彦太郎」
女は、そう呼んだ。
「名を知っていたんですか」
「ああ」
「前に会ったことはない?」
「ない」
女は続けた。
お前には、三つになる娘がいる。
このままでは、その子を飢えさせる。
彦太郎は腹を立てた。知らない女に名を呼ばれた。娘のことまで知られている。そのうえ、自分が娘を養いきれないことまで言われた。
余計なお世話だ。なぜ俺のことを知っている。
そう怒鳴ったが、女は答えなかった。
白い女面は、ただ彦太郎へ向けられていた。
そして女は言った。
「娘を預ければ、飢えさせずに育てる」
てつの指が、膝の上で強く組まれた。
「女は、名も、娘をどこへ連れていくのかも言わなかったんですね」
宗吉が確かめる。
「ああ。何も言わなかった」
「それで、あんたは断ったんだろ」
弥一が訊いた。
彦太郎は即座に頷いた。
「そんな話、受けるわけがねえ。娘を渡すつもりはない。帰れって言った」
女は怒らなかった。食い下がりもしなかった。
ただ、
「考えておけ」
と言った。
もし気が変わったなら、明日の朝、谷戸の田の外れにある祠へ娘を連れてきなさい。
そう告げた。
「何の祠です?」
宗吉が訊く。
「大年さまのものだと思ってた」
「思ってた?」
「ああ。昔から、みんなそう呼んでただけだ」
立派な社ではなかった。神職がいるわけでもない。谷戸の田の端に木が何本か集まり、その下に小さな祠がある。
誰が建てたのか。いつからあるのか。彦太郎は知らなかった。
村では大年さまの祠だと言われていた。田仕事の節目に手を合わせる者がいて、米や酒を供えることもあった。
「ここから遠いんですか」
「いや。村を出て、少し歩いたところだ」
「女は、そこで待っていると?」
宗吉が訊くと、彦太郎は首を振った。
「娘を連れてこい。それだけだった」
女は斜面を歩いていった。長い黒髪が背で揺れた。白い女面は、もう一度も彦太郎の方を向かなかった。
木々の陰へ入り、その姿は見えなくなった。
彦太郎は仕事を続ける気になれず、いつもより早く山を下りた。家へ戻っても、てつにはすぐ話さなかった。
妙な女に会っただけだ。無視すれば、それで終わる。
そう思おうとした。
ところが、家では娘が泣いていた。
「腹を空かせてた」
彦太郎が言った。
その日、食べさせるものはほとんど残っていなかった。てつは娘を抱き、明日になれば何か食べられる、もう少し我慢しなさいと、何度もなだめていた。
彦太郎は、それを聞いて女の話をした。
てつは初め、何を馬鹿なことを言っているのだと思ったという。
「知らない女だよ」
てつが言った。
「名も知らない。顔だって分からない。どこの人かも知らない。そんな相手に三つの子を預けられるわけがない」
その夜、娘は夫婦の間で眠った。腹を空かせて泣き疲れたのか、すぐに寝息を立て始めた。
彦太郎とてつは眠れなかった。
最初は、行かないと決めた。そんな話は忘れる。
しばらくすると、どちらかがまた口を開いた。
明日は何を食べさせる。その次の日は。彦太郎に仕事がなかったら。雨が続いたら。娘が病になったら。
女は、飢えさせないと言った。
その言葉だけが、暗い天井の下に残った。
「信じたんですか」
宗吉が訊いた。
彦太郎は首を振った。
「信じちゃいねえよ」
「それでも行った」
「ああ」
彦太郎は宗吉を見た。
「信じたんじゃねえ」
少し間を置いた。
「信じたかったんだ」
てつは何も言わなかった。
「娘に食わせてやれるなら、俺らといるよりましなんじゃねえかって」
「もっとましなところへ連れていってくれるのかもしれないと思ったよ」
てつが言った。
女は、そんなことを約束していない。衣を与えるとも、良い家で暮らさせるとも、幸せにするとも言っていない。
飢えさせずに育てる。
それだけだった。
宗吉には、夫婦が女の言わなかったところを、自分たちの望む形で埋めたように思えた。
そうであってほしかったのだ。
翌朝、空が白み始めるころ、三人は家を出た。
彦太郎と、てつ。そして三歳の娘。
娘は、どこへ向かっているのか知らなかった。父親と母親に手を引かれ、眠そうに歩いていた。
田には朝靄が低く垂れ込め、畦の草は露に濡れていた。
「娘さんには、何と話したんです」
てつの唇が震えた。
「何も」
それだけだった。
「言えなかったよ」
途中で娘は、疲れたと言った。てつが抱いた。腹が減ったとも言った。家を出る前には、何も食べさせてやれなかった。
谷戸へ着くと、田に張られた水が、白み始めた空をそのまま映していた。端の方に木が何本か集まり、その下に小さな祠が見えた。てつは娘を地面へ下ろし、その手を握った。
女は、そこにいた。
昨日と同じ白い女面をつけていた。面の周りから、長い黒髪が落ちている。
朝靄の中に一人立ち、こちらを見ていた。
同じ女だと、彦太郎にはすぐ分かった。
女は近づいてこなかった。祠の脇で待っていた。
彦太郎は、そこで初めて怖くなった。
「帰ろうと思った」
宗吉は何も言わなかった。
「やっぱり駄目だと思った。何でこんなところまで来たんだって」
彦太郎は娘の手を握り、引き返そうとした。
そのとき、娘が言った。
お腹が空いた。
てつが目を閉じた。
「今でも覚えてる」
声が掠れていた。
「朝、何も食べさせてやれなかったから」
女は何も言わなかった。
娘を急かさない。寄越せとも言わない。
白い女面をこちらへ向けたまま、ただ待っている。
最後に動いたのは彦太郎だった。
娘の手を引き、女のところまで歩いた。
「娘は嫌がった?」
弥一が訊いた。
彦太郎の顔が歪んだ。
「嫌がったよ」
三つの子供である。見知らぬ女の顔には、白い面がある。怖がらないはずがない。
娘は彦太郎の脚へしがみついた。
帰ると言った。
てつの方へ手を伸ばした。
「俺も、そのまま帰ればよかった」
彦太郎は言った。
「何で帰らなかったんだろうな」
答える者はいなかった。
女がしゃがみ、娘と目の高さを合わせた。
女面の小さな口は動かなかった。
その下から、女の声だけが聞こえた。
何かを娘に言った。
「何て言った?」
弥一が訊いた。
彦太郎は首を振った。
「聞こえなかった」
娘にだけ聞かせるほど、小さな声だった。
娘はまだ泣いていた。
だが、女の話を聞くうちに、その泣き声が細くなっていった。
やがて白い女面を、じっと見つめた。
女が片手を差し出した。
白く細い手だった。
娘は迷った。
それから、彦太郎の脚を掴んでいた手を離した。
小さな手を、女の手へ重ねた。
「それで?」
宗吉が訊いた。
彦太郎は、長いこと黙っていた。
「行った」
女は娘の手を引いた。祠の脇を通り、その先へ続く細い道へ入った。長い黒髪が揺れ、その隣を三歳の娘が歩いていく。
彦太郎とてつは、二人の後ろ姿を見ていた。
娘は一度だけ振り返った。
「何か言ったんですか」
てつが首を振った。
「こっちを見ただけ」
それが、夫婦が娘の顔を見た最後だった。
女と娘は、祠の後ろに立つ木の陰へ入った。
姿が見えなくなった。
そこで、てつが泣き出した。
「やっぱり駄目だと思った」
てつは言った。
「連れて帰るって」
てつは走った。彦太郎も追った。
木のところまで、たいした距離ではなかった。すぐに着いた。
だが、二人ともいなかった。
木の向こうには細い道が続き、脇には藪があった。走れば身を隠すことはできたかもしれない。それでも、三歳の娘を連れている。夫婦が追い始めるまで、ほとんど間はなかった。
声も聞こえない。足音もしない。
彦太郎とてつは道の先まで走り、藪を掻き分け、田の向こうまで探した。途中で会った者にも、女面をつけた女と小さな娘を見なかったかと尋ねた。
誰も見ていなかった。
その日は暗くなるまで探した。翌日も、その次の日も。
娘は見つからなかった。
「それで、村には女に預けたと言ったんですね」
「ああ」
「信じてもらえなかったんですね」
宗吉が言うと、彦太郎は乾いた笑いを漏らした。
「今思えば、それも当たり前のことだ」
娘を売ったのだと言われた。貧しさに耐えられず、人買いへ渡したのだと。山で死なせ、それを隠すために妙な話を作ったのだと言う者もいた。
彦太郎は最初のころ、そう言う者と何度も殴り合った。
やがて、何を言っても無駄だと分かった。
てつは祠へ通った。初めのうちは、毎日のように。
「預けたんだから」
てつが言った。
「いつか返してくれると思ってた」
女は、くれとは言わなかった。預けろと言った。
ならば、いつか帰ってくる。
一日か。十日か。一年か。
もう少し大きくなれば。
そう思って待った。
「でも、帰ってこなかった」
てつは膝の上へ目を落とした。
「一度も」
夫婦が娘を手放してから、二十三年ほどが過ぎていた。
三歳の娘が生きているなら、今は二十六歳ほどになる。
「娘さんの名前を聞いても?」
宗吉が訊いた。
彦太郎は顔を上げた。
「きぬだ」
宗吉は、その名を胸の中で繰り返した。
きぬ。
徳蔵の家でつけられた、とよという名とは違う。
「何か、身体に目印はありましたか。痣や傷のようなものです」
「右の脇腹に、黒い痣があった」
てつが答えた。
「小指の先ほどの、丸い痣だよ」
「ほかには?」
てつはしばらく考えた。
「今、思い出せるのは、それくらいだよ」
――指が金色だったことは、なかったか。
そう訊きかけて、宗吉は口を閉じた。こちらから色を挙げれば、夫婦の覚えていることと、こちらが伝えたことが混ざりかねない。今は、二人自身の記憶を聞いておきたかった。
宗吉はもう一つだけ、確かめた。
「十二年前も、この村に住んでいましたか」
彦太郎とてつが顔を見合わせた。
「いや」
彦太郎が答えた。
「娘がいなくなって、五年ほどして村を出た。ここにいるのが辛くなってな」
「どこへ?」
「もっと西だ。山仕事の雇い口を頼って、あちこち移った」
「いつ戻ったんです?」
「七年ほど前だ」
とよがこの近くで見つかった十二年前、彦太郎とてつは村にいなかった。
二人が村を離れていたのなら、徳蔵が身元を尋ねて近隣を回った話が届かなかったとしても、不思議ではない。
「どうして、そんなことを訊く」
彦太郎が宗吉を見る。
「その人が、この近くで見つかったのが十二年前なんです。保護した人が、近隣の村で身元を尋ねたと聞いています。その話を耳にしていなかったかと思って」
彦太郎は首を振った。
「聞いてねえよ」
てつも黙って首を振った。
十四歳ほどで野山に現れた娘。異様に長い髪。ぼろぼろの衣。口が利かず、文字も知らず、自分の家を伝えられなかった。
二十三年前、白い女面をつけた女へ預けられ、そのまま姿を消した三歳の娘。
年齢はつながる。場所も近い。
それでも、同じ人間だという証拠にはならない。
まずは、とよにも同じ場所に痣があるか確かめたい。それが一致しても、娘だと決まるわけではない。夫婦に娘が見つかったと思わせるには、まだ早かった。
宗吉は立ち上がった。弥一も続く。
「長いこと、すみませんでした」
彦太郎が顔を上げる。
「もういいのか」
「ええ」
「その人が、きぬかもしれねえってことか」
宗吉は一瞬迷った。
「まだ分かりません。娘さんだと言えるものは、何もないんです。まずは、教えてもらった痣のことを確かめます」
彦太郎はしばらく宗吉を見ていた。てつが、膝の上で組んだ手をほどく。
「分かったら、知らせておくれ」
「はい」
宗吉が頷くと、彦太郎も小さく顎を引いた。
二人は土間へ下りた。
戸口の外には午後の光が差していた。丘の影は、まだ庭の端にとどまっている。
宗吉は空を見上げた。日はまだ高かった。
祠は村を出てすぐだという。そこを確かめてから戻っても、日暮れ前には余裕を持って飯屋へ着ける。
弥一が履物を直しながら宗吉を見る。
「帰ります?」
宗吉は答えかけて、やめた。
戸口を出て数歩進み、振り返る。
「彦太郎さん」
「何だ」
「その祠、まだありますか」




