六幕 女に預けた
滝が相談に来てから五日目の朝、宗吉と弥一は開港場を離れた。
とよはいつ子を産んでもおかしくない。出がけに寄った飯屋で、徳蔵は、まだ産気づいていないと言った。宗吉は日暮れ前には戻ると伝えていた。
向かうのは、十二年前、とよが見つかった場所だった。
徳蔵から聞いた道筋は、帳面に書き留めてある。保土ヶ谷へ抜ける道を進み、一本松の立つ分かれ道を西へ折れる。炭焼きの通う細道へ入り、小さな谷を越えた先の、二つ目の丘。その手前の、雑木林が始まる辺りに、とよは座っていたという。
町外れにも、店や人家はまだ続いていた。荷車の車輪が軋み、商いの声が飛び交っている。海の方を見れば、林立する帆柱が、ときおり家並みの向こうに覗いた。
歩いていくにつれ、家と家との間が開き、店の数も減っていった。やがて土の道の両側に畑が現れる。低い丘がいくつも折り重なり、その裾には刈り入れを終えた田が、褪せた金色を広げていた。
十月の空は、抜けるように高かった。町の中では建物に遮られていた風が、ここでは丘を越えてまっすぐ吹きつけてくる。乾いた草と土の匂いがした。
一本松の立つ分かれ道を見つけたのは、町を出てからだいぶ歩いたころだった。
宗吉は立ち止まり、帳面に描いた道筋と、目の前の景色を見比べた。
「ここを西だな」
「ええ。ここから炭焼き道ですね」
弥一はもう、西へ向かう道に足を踏み入れていた。朝から妙に機嫌がよく、道端に色づいた柿を眺め、藪から鳥が飛び立てば目で追っている。用事と関係のないものを、こんなふうに眺める男ではなかった。
「お前、楽しそうだな」
宗吉が言うと、弥一は少し笑った。
「そう見えますか」
「見える」
「兄貴とこうして遠くまで歩くのは、初めてでしょう。ちょっとした旅みたいじゃないですか」
「仕事だぞ」
「分かってますよ」
「遊びに来たんじゃねえ」
「それも分かってますって」
返事まで軽い。宗吉は眉を寄せ、帳面を閉じた。
弥一は町の方へ一度目をやった。
「帰るころには、おとよさんの子が生まれてるかもしれませんね」
「前の二人と同じなら、十三日目が来る前に手を打たなきゃならねえ。日暮れ前に戻って、様子を確かめるぞ」
「ええ」
炭焼き道は、二人が並んで歩けば肩が触れそうなほど細かった。片側には畑があり、反対側には草の茂った斜面が続いている。
小さな谷を越えると、二つ目の丘が姿を現した。
雑木林の手前には、枯れ草に覆われた斜面があった。その脇まで畑が広がっている。宗吉は帳面を開き直した。道と丘の形は、徳蔵の話とおおむね合っていた。
宗吉は斜面の下へ降りた。枯れかけた草が、脛をかすめて鳴る。ところどころ土が剝き出しになり、落ちた栗の毬が転がっていた。
ここに、十四歳ほどの少女が座っていた。ぼろぼろの衣を着て、周りの草に長い髪を絡ませて。
宗吉は辺りを見回し、道の続く先や、林と畑の位置を確かめた。だが、とよが道を歩いてきたのか、林を抜けてきたのかは、今の景色だけでは分からなかった。
「村で聞きますか」
後ろから弥一が言った。
「ああ」
丘を回り込んだ先に、小さな村があった。谷あいに十数軒の家が身を寄せ合い、家々の裏には薪や枝が高く積まれている。
最初に声をかけたのは、畑で土を返していた老人だった。
宗吉は、十二年前にこの近くで見つかった少女の特徴を伝えた。
「十四歳くらいで、髪がずいぶん長かったそうです。着ているものも、ひどく傷んでいたとか」
老人は鍬へ手を置き、しばらく考えた。
「知らんな」
「昔から、この村に?」
「生まれたときからいる」
それでも、そのような少女を見た覚えはないという。宗吉は礼を言い、次の家へ向かった。
軒先で豆を選っている老婆がいた。二人が近づくと、皺の間から探るような目を向けてきた。
宗吉は同じことを尋ねた。
「そんな娘は知らないねえ」
老婆は豆を選る手を止めなかった。
宗吉は少し考えてから訊いた。
「では、この辺りで、昔いなくなった子供はいませんか」
今度は、老婆の手が止まった。
「子供?」
「ええ。女の子です」
「いつの話だい」
「十二年前より、もっと前かもしれません」
宗吉は答えた。
「この辺りで、急にいなくなった子がいなかったかと思って」
老婆は宗吉と弥一を交互に見た。
「何を調べてるんだい。役人かい」
「違います」
「じゃあ、何者だい」
宗吉は少しためらってから答えた。
「頼まれて、その人の身元を調べているんです。どこの生まれか、親が誰かも分からないので」
横から弥一が口を挟んだ。
「昔いなくなった人がいねえか、聞いて回ってるだけだ」
老婆が弥一の大きな顔を見上げる。
「そんな顔をした男に言われてもねえ」
「顔は関係ねえだろ」
「悪いことに使うんじゃないだろうね」
「使うわけがねえよ」
弥一がむっとして答えると、老婆は初めて少し笑った。
「子供なら、一人いたよ」
宗吉は帳面を開いた。
「女の子ですか」
「ああ」
「いくつくらい?」
「三つだったかねえ。まだ一人で遠くへ行けるような年じゃなかったよ」
宗吉の筆が止まる。
「いつのことですか」
「ずいぶん昔だよ。港が開くより、五年ほど前だったかねえ」
港が開かれてから、十八年ほどになる。宗吉は帳面の端で年を数えた。
「二十三年ほど前か」
「ああ。そのくらいになるね」
三歳の娘が、二十三年ほど前に消えた。
宗吉は老婆の話を書き留め、その下へ徳蔵から聞いたことを並べた。
十二年前。十四歳ほどの少女。
二つの年を見比べる。その間には、およそ十一年あった。
「兄貴」
帳面を覗き込んでいた弥一の声が変わった。
「ああ」
「年が合いますよ」
三歳の子供が十一年を経れば、十四歳になる。
見つかったときのとよの年齢は、見た目から推し量ったものにすぎない。娘が消えた年も、老婆の記憶である。どちらも確かな数字ではなかった。それでも、二つの年は食い違わなかった。
徳蔵は十二年前、少女を連れて近隣の村を回ったという。だが、この村にも来たのか、誰に何を尋ねたのかまでは聞いていない。幼い娘の姿と、十四歳ほどになった少女の姿が、結びつかなかった可能性もある。
宗吉は老婆に目を戻した。
「その子の親は?」
「彦太郎っていう樵だよ」
宗吉は帳面に、彦太郎、と記した。
「母親は?」
「おてつだ」
その隣に、てつ、と添える。
「娘は、どうやっていなくなったんですか」
老婆の表情が曇った。
「それが、妙な話でねえ」
「何があったんですか」
「彦太郎は、娘がいなくなったとは言わなかったんだよ」
「では、何て?」
老婆は声を落とした。
「女に預けたって言ったのさ」
軒下に吊された干し大根が、風にひとつ揺れた。
「どこの女ですか」
「知らない女だよ」
「親類でも、知り合いでもなかったんですか」
「そう聞いたねえ」
宗吉は筆を止めた。
「その話は、彦太郎さんから直接聞いたんですか」
「ああ。どこの誰だと訊いたって、知らない女に預けたと言い張るんだから」
弥一が眉を寄せた。
「誰も信じなかっただろ」
「ああ。信じなかったねえ」
老婆の話では、娘が消えたあと、村ではさまざまな噂が立った。
彦太郎は山へ入って木を切り、炭を焼き、それを売って暮らしていた。食べるものにも困っていた時期だったという。
そのため、娘を金に換えたのではないかと言う者がいた。山で誤って死なせ、それを隠しているのだと言う者もいた。
「何か、そうと分かるものがあったんですか」
宗吉が訊くと、老婆は首を振った。
「そんなものはないよ。誰も見たわけじゃない。ただ、彦太郎の話を信じられなかっただけさ」
「おてつさんも、女に預けたと言ったんですか」
「おてつは泣いてたよ」
老婆は手元の豆へ目を落とした。
「亭主の言うことを信じてくれ。娘は女に預けたんだ。いつか帰ってくるんだって、そればかりだった」
「その女を見た人は?」
「私は知らないねえ」
「娘は、結局戻らなかったんですか」
「少なくとも、村へ戻ったとは聞いてないよ」
宗吉は帳面の二つの年を、もう一度見た。
年齢は合う。場所も近い。だが、それだけで同じ人物だと決めることはできない。
「彦太郎さんと、おてつさんは、今も生きていますか」
老婆は頷いた。
「この近くにいるよ」
「どこですか」
老婆が、家々の向こうへ続く細い道を指した。
「丘の裾に小さな家がある。裏に木を積んでるから、見れば分かるよ」
宗吉と弥一は、教えられた方を見た。道は家々の間を抜け、その先で雑木林の方へ細く延びている。
すぐに向かうこともできた。だが宗吉は、帳面を閉じなかった。
「もう少し聞いて回るぞ。夫婦に会う前に、娘がいたことと、いなくなったころを、ほかの者にも確かめておく」
弥一が頷く。
「夫婦の話と比べられるように、ですね」
二人は、古くから村に住んでいる者をさらに訪ねた。
年老いた炭焼きの男は、彦太郎の娘が姿を見せなくなったことを覚えていた。娘が三歳ほどだったことも、港が開かれる何年か前の出来事だったことも、老婆の話と重なった。
別の家の老人は、彦太郎本人から、娘を女へ預けたと聞いていた。
しかし、聞いた者の中に、その女を自分の目で見た者は一人もいなかった。娘が売られたという話も、山で死んだという話も、突き詰めれば誰かから聞いた噂にすぎなかった。
宗吉は話した者ごとに記録を分けた。彦太郎とてつには三歳ほどの娘がおり、二十年以上前に姿を見せなくなった。父親は、知らない女へ預けたと話していた。
二十三年ほど前というのは、最初の老婆の記憶だった。ほかの者は、そこまで細かく年を言えなかった。
夫婦が今も村で暮らしていることと、その家の場所は、どの者に尋ねても同じだった。
昼を少し回っていた。宗吉は空を見上げて日の位置を確かめ、今朝歩いてきた道の長さを思い返した。夫婦の話を聞く時間はある。だが、日暮れ前に飯屋へ戻るには、この先で長居はできなかった。
宗吉は帳面を閉じた。
「行くぞ」
「彦太郎さんの家へ?」
「ああ。話を聞いたら引き返す。おとよさんの様子も確かめねえとな」
宗吉は、老婆から教えられた道へ目を向けた。
十二年前、草むらに一人で座っていた少女。二十三年ほど前に姿を消し、父親が女へ預けたと語った三歳の娘。
年が食い違わないというだけの、細い糸である。それでも、いま手にしているのは、その一本きりだった。
もし二人が同じ人間なら、そのあいだにあるおよそ十一年が、丸ごと抜け落ちている。
徳蔵の話では、とよは二つ目の丘が見えたところで足を止めた。宗吉たちはその場所を越え、丘の向こうの村まで来ていた。
宗吉と弥一は、丘の裾へ続く細い道を歩き始めた。




