十幕 こどものくに
二十三年前。
娘は父の脚にしがみついていた。知らない女の顔は白い面に隠れ、その小さな口は笑っているようにも見えた。
帰りたい。
母の方へ手を伸ばすと、女が目の前にしゃがんだ。長い黒髪が肩から滑り落ちた。
女は娘にだけ聞こえる声で囁いた。
「お腹いっぱい、食べられますよ」
泣き声が少しずつ細くなった。娘は鼻をすすり、白い面を見た。差し出された手を、しばらくためらってから握った。
白く細い手だった。握ると、女の指が娘の手をすっぽりと包んだ。
女は立ち上がり、祠の脇へ歩き出した。娘もついていった。木の陰へ入る手前で、一度だけ振り返った。
父と母が並んで立っていた。
母の口が動いたように見えた。けれど声は聞こえなかった。娘が前を向くと、女は足を止めて待っていた。
再び歩き出した、その一歩で、目の前の景色が変わった。
娘は足を止めた。
そこにも田はあった。だが、さっきの狭い谷戸ではない。畦の向こうにまた畦があり、田は果てしなく続いていた。はるか遠くに、青い山並みが見えた。
すぐそばの田には、細い苗が並んでいる。その隣では稲が青々と茂り、さらに向こうには金色の穂が重たげに垂れていた。水を張ったばかりの田もあった。何も植わっていない水面に、白い雲が映っている。
娘は後ろを見た。
父と母はいなかった。祠も、今通った木の陰もない。来たはずのところには、水路に沿って畦が延びているだけだった。
「おっかあ」
娘は小さく呼んだ。
女が振り返り、娘の前に膝をついた。
「おっかあは?」
女は空いている手を差し伸べた。娘はその袖を掴んだ。抱き上げられると、衣から甘く優しい匂いがした。
娘は女の肩越しに、田を見た。
父も母も、どこにもいなかった。
腹が鳴った。
女が娘の顔を覗き込んだ。
「お腹が空いているのですね」
娘は頷いた。
「食べるものがあります。行きましょう」
女は娘を抱いたまま歩き出した。
水路には澄んだ水が流れていた。青い稲の間から蛙が跳ね、向こうの畦では白いものが幾つも動いている。娘が目で追っているうちに、畦は木立へ入り、その先に大きな屋根が現れた。
一つではなかった。
木々の向こうで幾つもの屋根が重なり、奥へ奥へと続いている。近づくと太い柱が見えた。広い階の上に板の間があり、そこから長い廊が庭を囲んでいた。
女は階の手前で娘を下ろした。
娘は女の衣を握ったまま、柱の上を見上げた。屋根の裏は高く、首が痛くなるほどだった。廊の向こうにも庭があり、その先にもまた建物が見える。
足元で、白いものが跳ねた。
娘は女の後ろへ隠れた。
丸い毛玉だった。
白い毛の中に黒い目が二つある。手も足も見えなかった。毛玉は娘を見上げ、少し離れたところでもう一度跳ねた。
別の毛玉が板の間から転がってきた。その後ろにも二つ続く。
「怖がらなくていいのですよ」
女が娘の背へ手を添えた。
毛玉の一つが階を下り、娘の足元で止まった。ほかのものより少し小さい。娘が身を引くと、毛玉もその場で動かなくなった。
女は急かさず、娘のそばに立っていた。
やがて娘は、衣の陰から片手を伸ばした。指先が毛に触れると、毛玉がぷにりと沈んだ。柔らかかった。
娘はもう一度触った。
今度は毛玉が、手の下へ身体を寄せてきた。
女が娘の手を取り、階を上がった。白く細い指が、娘の小さな手を包んでいる。毛玉たちが後ろからついてきた。小さなものだけは、娘の足元を離れなかった。
廊を進むと、庭で子供が遊んでいた。
水路へ手を入れている男の子がいる。木の下では二人の子が、集めた実を並べていた。どの子も金色の衣を着ていた。袖から出た手も、顔も、衣と同じ金色をしている。
向こうの板の間を走ってきた女の子が、女に気づいて足を止めた。
「帰ってきた」
女の子は駆け寄り、女の袖に触れた。女が頭を撫でると、目を細めた。
それから、娘を見た。
「新しい子?」
「仲よくしてくださいね」
女の子は頷いた。娘より少し背が高く、片手に赤い実を幾つか持っていた。
「食べる?」
差し出された実を、娘は見つめた。
女の子は一つ、自分の口へ入れた。噛むと笑い、もう一つを娘へ差し出す。
「甘いよ」
娘は女の顔を見上げた。
白い面が、ゆっくりと頷いた。
実を受け取り、口へ入れた。皮が破れ、甘い汁が口いっぱいに広がった。娘は目を丸くした。家で食べた木の実のような酸っぱさも、喉に残る渋さもなかった。
女の子が、もう一つくれた。
娘は今度はすぐに受け取った。
「おいしい?」
頷くと、女の子は嬉しそうに笑った。
女は板の間へ腰を下ろし、娘を隣に座らせた。ほどなく、毛玉が盆を載せてやってきた。白い毛が床すれすれに揺れているのに、盆の上の椀は少しも傾かなかった。
女が椀を取り、娘の両手に持たせた。
白いものが入っていた。細い湯気が立ち上っている。
「少しずつ飲みなさい」
娘は匂いを嗅いだ。
「これ、なあに」
「乳ですよ」
女が椀の底を支えた。娘は縁へ口をつけた。
温かく、甘かった。
飲み込むと、空っぽだった腹の底へ、温かさがゆっくり落ちていった。娘は続けて飲んだ。椀を下ろしたとき、女が布で口元を拭いてくれた。
次の盆には、砂糖を使った菓子が載っていた。
女の衣からしたのと同じ、甘く優しい匂いがした。
白く丸いものと、黄色い四角いもの。娘が一つ取ると、指の跡が残るほど柔らかかった。噛むと、中から甘いものがとろりと出てきた。
娘は急いで食べた。なくなる前にもう一つ取り、片手に持ったまま、空いた手でさらに取った。
次がいつ食べられるかは分からない。
一つを胸元へ押し込もうとしたとき、女の手が添えられた。
娘は身体を固くした。
女は菓子を取り上げなかった。娘の着物についた粉を、指でそっと払っただけだった。
「あとでも食べられますよ」
娘は胸元の菓子を握ったまま、盆を見た。
まだ幾つも残っていた。
毛玉が来て、隣にもう一つ盆を置いた。さっき食べたのと同じ菓子が並んでいる。
「明日も?」
娘が訊くと、女は頷いた。
「明日もあります」
娘は菓子を胸元から出した。それを食べ終えたころには、腹が苦しいほど膨れていた。
それでも、盆には菓子が残っている。
娘は手を伸ばしかけ、やめた。
女が娘の背を撫でた。
「もう、お腹はいっぱいですか」
「うん」
女は娘を膝へ抱き寄せた。娘はしばらく盆を見ていたが、やがて女の胸へ頬をつけた。
面の下から、穏やかな声がした。
「よく来ましたね」
白い指が、娘のもつれた髪を梳いた。
「わたし」
娘は言った。
「わたし、きぬだよ」
指が、髪の途中で止まった。
「いいえ」
白い面が、娘の顔を覗き込んだ。
「あなたは、私の愛する子の一人です」
娘は女を見上げた。
「もう、その名は要りません」
娘には、その言葉の意味がよく分からなかった。それでも、女の声はどこまでも優しかった。
白い指が、また髪を梳き始めた。
娘は口を閉じた。
その夜、娘はほかの子供たちと同じ部屋へ連れていかれた。
床には寝床が並び、灯の下で子供たちが着替えていた。娘にも金色の衣が用意されていた。手で撫でると柔らかく、袖を通しても、肌に触れるところに硬い継ぎ目がなかった。
女が襟を整えているうちに、娘は自分の手を見た。
手首が金色になっていた。その色は手の甲へ広がり、指の先まで染めていった。
娘は片手でもう一方の手を擦った。色は落ちなかった。袖をまくると、腕も金色になっていた。衣に触れたところから広がった色は、首筋にも、頬にも及んでいた。
「美しくなりましたね」
女はそう言って、娘の手を取った。
娘は指を曲げ、また伸ばした。さっきまでと同じように動いた。昼間、実をくれた女の子が隣へ来て、自分の手を並べた。
同じ色だった。
娘は二つの手を見比べ、そっと指先を触れ合わせた。
毛玉たちが古い衣を運び始めると、娘は慌てて後を追った。
女がその前にしゃがんだ。
「捨てませんよ」
娘は古い衣を見た。母が繕ったところが、袖に残っていた。
女は毛玉から衣を受け取り、小さく畳んだ。それを娘の寝床の脇へ置いた。
「ここに置いておきましょう」
娘は頷いた。
横になると、身体の下が柔らかかった。昼間、実をくれた女の子が隣に寝た。足元には、小さな毛玉が丸くなっていた。
腹はいっぱいだった。寒くもなかった。
けれど、部屋の灯が落とされると、娘は母の寝息を探した。
聞こえなかった。
隣の子供が身じろぎする音がした。遠くで誰かが笑い、その声も静まった。
娘は脇に置かれた古い衣へ手を伸ばした。袖を握り、顔へ寄せた。
「おっかあ」
声が震えた。
隣の女の子が起き、娘の手を握った。毛玉も寝床へ上がってきた。それでも涙は止まらなかった。
廊で衣の擦れる音がした。
女が部屋へ入ってきた。娘のそばへ膝をつき、顔を覗き込む。
「父さまと母さまに、会いたいのですね」
娘は泣きながら頷いた。
女は娘を抱き上げた。古い衣も一緒に抱かせ、背中へ手を回した。
「泣いてもいいのですよ」
娘は女の肩へ顔を押しつけた。女は泣くのをやめさせようとはしなかった。背中を撫で、途切れ途切れに漏れる言葉を、ただ聞いていた。
娘の息が少し落ち着くと、女が額へ手を添えた。
「あなたを愛しています」
娘は顔を上げた。
白い面が、すぐ近くにあった。
「ここでも、あなたは大切な子です」
娘は女の衣を掴んだ。
女はその手をほどかず、抱いたままゆっくりと身体を揺らした。娘が眠ったあとも、しばらくは下ろさなかった。
翌朝にも食べ物があった。
米の飯と、柔らかく煮た野菜。温かな乳。昼には果物も出た。菓子が欲しいときには、毛玉が運んできた。
娘はしばらく、食べ物を隠していた。木の実を寝床の脇へ置き、菓子を衣の中へ入れた。
だが、朝が来るたびに新しい食べ物が出された。昨日残したものを食べなくても、腹を空かせることはなかった。
やがて、隠した菓子を思い出さずに眠る日が来た。
娘には、いつもついてくる毛玉ができた。
最初に足元へ寄ってきた、小さな毛玉だった。娘が廊を走れば転がって追い、座れば隣に止まった。抱き上げると温かく、顔を埋めると毛が鼻をくすぐった。
「くすぐったい」
娘が笑うと、毛玉は腕の中で一度跳ねた。
毛玉たちは子供の世話をしていた。水や食べ物を運び、汚れた衣を持っていく。夜には灯をつけ、朝には戸を開けた。
言葉は話さなかったが、子供たちの言うことは分かるらしかった。
娘が転んだときにも、すぐに集まってきた。
庭の石につまずき、膝を擦りむいたのだった。娘が傷を見て泣き出すと、一つが廊へ転がっていった。ほどなく、女が来た。
女は娘を抱いて板の間へ運び、濡らした布で膝の土を拭った。布が傷に触れると、娘は足を引いた。
「痛い」
「ええ。痛かったですね」
女は足を押さえつけず、娘が落ち着くまで待った。それから、もう一度そっと拭いた。
娘は女の肩につかまっていた。
手当てが済んでも離れなかった。女も下ろそうとせず、娘の髪を撫でていた。
子供たちは、その女を聖神さまと呼んだ。
娘も覚えた。
廊の向こうに白い面を見つけると、呼びながら駆け寄るようになった。聖神がしゃがんで腕を広げると、そこへ飛び込んだ。
ほかの子供たちも同じだった。
聖神に摘んだ花を見せに来る子がいた。喧嘩をして、その胸へ泣きつく子もいた。聖神の膝で小さな子が眠っているときには、年上の子が声をひそめた。
聖神は一人ずつ顔を向け、話を聞いた。両手が塞がっていれば、そばへ座らせた。娘もその衣に頬を寄せ、ほかの子の話が終わるのを待った。
「愛しています」
聖神は、何度もそう言った。
娘はやがて、その言葉を聞くと笑うようになった。
誰も、娘を名で呼ばなかった。
子供たちは互いを呼ぶとき、背の高い子、髪の短い子、と姿で呼び分けた。聖神は誰のことも、あなた、と呼んだ。
初めのうち、娘は自分の名を口の中で繰り返していた。だが、その名を呼ぶ者はなく、自分から名乗ることもなくなった。口の中で繰り返すことも、だんだん減っていった。
ある夜、髪を梳いてもらっているとき、娘は振り向いて聖神の顔を見上げた。
「わたしも」
白い面が下を向いた。
「わたしも、好き」
聖神の手が止まった。
それから娘を抱き寄せ、長いあいだ離さなかった。
社の外では、場所が変わると季節も変わった。
青い田へ行けば、稲の葉の間に蛙がいた。金色の田では、小さな白い毛玉たちが稲穂を運んでいた。刈られたところへ翌日行くと、また穂が揺れていた。
丘の木には実がなり、庭先には白い花が咲いていた。雨の降る日もあったが、冷たい雨ではなかった。娘は廊の端に座り、毛玉を抱いて雨粒を眺めた。
そんな日々を重ねるうちに、娘はほかの子供たちの昔の話を聞くようになった。
子供たちは、それぞれ違うところから来ていた。
海のそばにいたと話す子がいた。山の中に家があったという子もいた。母の顔をよく覚えている子も、もう思い出せないという子もいた。
娘は、自分の家のことを話そうとした。
覚えているのは、切れ切れの像だけだった。
木を切っていた男の背中。衣を繕う手つき。二人が顔を見合わせて黙り込む、雨の続く日の暗い土間。
どこにある家だったのか、娘には分からなかった。谷があった。丘があった。だが、それぞれの景色がどうつながっていたのか、家へ帰るにはどこを通ればよいのかは、思い出せなかった。
話しているうちに言葉が途切れ、娘は黙った。それでも涙が出てくると、年上の子がそばへ座った。
帰る道を探したという男の子もいた。
「どこまで行ったの」
「ずっと向こう。山の方まで歩いた」
「おうちはあった?」
男の子は首を振った。
「どこまで行っても田んぼだった。山も、ずっと遠いままだった」
娘は山を見た。青く重なった稜線は、途方もなく遠かった。この国では、いくら歩いても田が続き、遠くに見える山へ辿り着くことはできないらしかった。
その晩は、聖神のそばで眠った。
父と母を忘れたわけではなかった。
畦で手を引かれれば、朝靄の中を歩いた記憶がよみがえった。畳まれた古い衣を見ると、繕われた袖の手触りが指へ戻ってきた。
けれど朝になれば、友達が呼びに来た。毛玉が足元へ転がってきた。廊の先で聖神が手を差し伸べれば、娘は駆けていった。
家へ帰りたいと泣く夜は、少しずつ減っていった。
社には、まだ知らない場所が幾つもあった。
庭を二つ過ぎた先の広間。水路を渡ったところにある高い建物。毛玉たちが忙しく出入りする小さな戸。
娘は友達と歩き回り、疲れると日当たりのよい板の間へ寝転がった。目を覚ますと、聖神の膝に頭を載せていることがあった。
白い面は、いつも同じ顔をしていた。
その下の顔を見た子は、一人もいなかった。
娘は、それをあまり気にしなかった。
手を伸ばせば抱いてくれた。泣けばそばへ来てくれた。自分が話すときには、最後まで聞いてくれた。
娘は聖神の声も、衣の匂いも、髪を梳く指も知っていた。
それで十分だった。
ほかの子供たちも、その優しさを慕い、聖神を愛していた。
新しい子供が来ることもあった。
泣いている小さな子へ、娘は果物を差し出した。相手が受け取らないと、自分で一つ食べてみせた。
「甘いよ」
小さな手が伸びてくるまで、娘は待った。
いつか自分がしてもらったように、その子の隣へ座った。
娘の身体も育っていった。
廊の手すりへ顎が届き、やがて向こうの庭を楽に見渡せるようになった。小さくなった衣は、同じ金色の新しい衣に替えられ、足取りも速くなった。
髪は切られなかった。
肩を越え、背へ落ち、腰へ届くようになっても、聖神は丁寧に梳いた。娘はその膝の前に座り、櫛が通るたびに頭を少し後ろへ引かれた。
田の景色は変わらなかった。
水を張った田には空が映り、青い稲の隣では金色の穂が揺れていた。毛玉たちは廊を行き来し、聖神は白い女面をつけて子供たちの間を歩いた。
その中で、娘と子供たちは少しずつ大きくなった。
自分を呼ぶ名があったことを、娘はいつしか思い出せなくなっていた。
けれど、聖神が差し出す手には、迷わず自分の手を重ねた。




