四幕 味方の顔
翌日、宗吉と弥一は、町に広まった噂の出どころを辿った。
滝の相談から四日目だった。とよが今日にも子を産むかもしれない。
最初に話を聞いたのは、飯屋の近くで荒物を商う男だった。
「おとよさんが子を食ったって話、誰から聞きましたか」
宗吉が訊くと、男は首を傾げた。
「誰だったかな。ずいぶん前のことだからな」
「初めて聞いたときのことは?」
「そう言われてもな」
男はしばらく考え込み、やがて顔を上げた。
「戸倉だったかもしれん」
宗吉の筆が止まった。
「戸倉が、おとよさんが食ったと言ったんですか」
「いや、逆だよ。そんな話はでたらめだって怒ってたんだ」
「そのとき、ほかに誰かがおとよさんが食ったと言っていましたか」
男はまた考えた。
「そういや、誰も言ってなかったな」
戸倉は突然、誰も口にしていない噂を持ち出し、そんな話を信じるなと言い出したのだという。
別の男は、二人の赤ん坊が十三日目に消えたと、戸倉から聞いていた。
「戸倉が噂を流したのか?」
弥一が訊くと、男は首を振った。
「違うよ。おとよさんを庇ってたんだ。二人とも十三日目だったからって、母親がやったとは限らないって」
「その話を聞く前から、十三日目だと知ってたか?」
「いや。戸倉が言うまで知らなかった」
聞く相手を変えても、返ってくるのは似たような答えばかりだった。
戸倉は、とよを悪く言ってはいない。むしろ、いつも庇っていた。しかし、その言葉の中には、聞き手がまだ知らなかったことまで含まれていた。
子が死んだのではなく、消えたこと。
二人とも十三日目だったこと。
姑がとよを疑っていること。
自分の子を腹に入れたという、ひどい話まで。
戸倉は噂を否定するたびに、その中身を新しい相手へ手渡していた。
宗吉は帳面に、戸倉の否定を聞いて初めて噂を知った者あり、と記して閉じた。
「妙な広め方をしたもんですね」
弥一が言った。
「ああ。悪口を言わなくても、悪い話は広められる」
「自分は味方のままで?」
「ああ。庇っているように見えるからな」
「わざとやってたなら、卑怯な野郎ですね」
宗吉も同じことを思った。だが、まだ分からないことがあった。
戸倉は、わざと噂を広めたのか。そうなら、何のために。
二人は飯屋へ向かった。
昼の客が引いた店で、滝が二人を迎えた。
「おとよさんの具合は?」
宗吉が訊いた。
「まだ産気づいてないよ。奥で休んでる」
宗吉は頷き、徳蔵の母親に会わせてもらった。
姑は二人を見るなり、露骨に口を曲げた。
「今度は何だい」
「戸倉さんについて聞きたいことがあります」
宗吉が言うと、姑は手にしていた布巾を膝へ置いた。
「戸倉さんが、どうしたっていうんだい」
「おとよさんのことで、よく話をしていましたか」
「あの人だけは話が分かるからね」
姑はためらいもせずに答えた。
「何と言っていましたか」
「町の者はみんな、あの女がやったと思ってるってさ」
宗吉と弥一は、思わず顔を見合わせた。
「みんな?」
「ああ。二人とも十三日目に消えたんだ。母親を疑わない方がおかしいってね」
それは、宗吉たちが町で聞いてきた話とは、まるで違っていた。
とよを疑う者はいる。だが、見てもいないことは決めつけられないという者もいた。病で亡くなったと思っていた者も、祟りではないかと噂する者もいた。町中が同じことを信じているわけでは、決してない。
「三人目のことも、戸倉さんと話しましたか」
宗吉が訊いた。
「ああ。子ができたと分かったころ、私から話したよ」
「戸倉さんは何と?」
姑は奥へ目をやった。
「あの女が子を産んだら、すぐに追い出した方がいいって」
「おとよさんだけを?」
「そうだよ。子はうちに残す。また十三日目になるまで、あの女と一緒に置いておくことはないってさ」
「徳蔵さんが、それに従うと思いますか」
「今は意地になってるだけだよ」
姑は吐き捨てた。
「今度の子まで危ないと分かれば、あの子だって目を覚ます」
「それも戸倉さんが?」
「そうさ。三人目に何かあってからじゃ遅いって、あの人も言ってたよ」
宗吉は姑を正面から見た。
「戸倉さんは、おっ母さんのいないところでも、おとよさんを庇ってます」
姑の眉が、ぴくりと動いた。
「何だって?」
「おとよさんが自分の子を殺すはずがない。何も知らない者が勝手なことを言うな。そう言ってるそうです」
姑はしばらく黙り込んだ。
「私には、そんなことは言わなかったよ」
「二人で話していたときは?」
「客の前では、私にも黙れと言ったさ。けど、あとでは話を聞いてくれた。町の者はみんな、あの女を疑ってるって」
姑は膝の布巾を折った。角が合わず、広げて折り直す。もう一度、角がずれた。
「あの人が何を言ってたって、子が二人いなくなったことは変わらないよ」
そう言うと、布巾を握りしめたまま、宗吉から目を逸らした。
宗吉は帳面へ目を落とした。町で聞いた戸倉の言葉と、いま姑が語った言葉。同じ男の口から出たとは思えぬほど、それは食い違っていた。
その日の夕方、宗吉と弥一は戸倉を待った。
飯屋ではない。昨夜、戸倉が飯屋の裏へ回るために入った細道だった。今夜も同じ道を通るかもしれない。
空にはまだ薄い明るさが残っていたが、家々の軒下には灯が入り始めている。表の通りを、人力車が一台、駆け抜けていった。車輪の音が遠ざかると、人通りの少ない細道は静まり返った。弥一が息を吐いた。
「来なかったらどうしますか」
「明日、また店でつかまえる」
「最初から店で待てばよかったんじゃないですか」
「人前で話せることじゃねえだろ」
「素直に話すとも思えませんけどね」
「だから、お前を連れてきた」
弥一が宗吉を見た。
「俺を何だと思ってるんですか」
「用心棒」
「ひでえな」
そう言いながら、弥一はまんざらでもなさそうだった。
やがて、表の通りから戸倉が細道へ入ってきた。飯屋の裏へ向かって歩いていたが、宗吉たちを見つけると、あからさまに顔をしかめる。
「またあんたらか」
「少し話がある」
「俺にはない」
戸倉は二人の脇を通り抜けようとした。弥一が一歩、前へ出る。それだけで、戸倉の足が縫い止められた。
「何だよ」
「話くらい聞いてけ」
弥一の声には、宗吉に向けるような柔らかさが微塵もなかった。
宗吉は戸倉を見た。
「二人目の子が消えた晩のことだ。昨日も、店を一度も出ていないと言ったな」
「ああ。出てない」
「じゃあ、昨夜のことはどうだ。俺たちも見てたぞ」
戸倉の足が、わずかに後ろへ引かれた。
「飯屋を出たあと、遠回りして裏へ戻った。裏口のそばに立って、家の中を見てたな」
戸倉の顔から、すとんと表情が抜け落ちた。
「何のことだ」
「おとよさんが表へ出るか、外を歩くか、お滝さんに何度も聞いてたそうだな。徳蔵との仲も、今でもおとよさんを抱いてるのかとまで訊いてる」
「それが何だ」
「三人目のことも、腹が目立つ前から知ってた」
戸倉が宗吉を睨みつけた。
宗吉は続けた。
「姑さんから聞いたんだろ」
「……だったら何だ」
「町中がおとよさんを疑ってる。あんたは姑さんに、そう言った」
戸倉は答えなかった。
「だが、町で聞いた話はばらばらだった。おとよさんを疑う奴もいたが、決めつけられないと言う奴もいた。みんなじゃねえ」
「俺の知ったことか」
「みんな疑ってることにしたかったんだろ」
戸倉の唇が開き、そのまま閉じた。
「あんたは、人前じゃおとよさんを庇ってた。だが、庇うふりをしながら、相手が知らないことまで喋った」
「何を言ってる」
「おとよさんが子を食ったなんて嘘だ。二人とも十三日目に消えたからって、おとよさんがやったとは限らない。そう言ったそうだな」
戸倉は黙っている。
「その話を、あんたから初めて聞いた者が何人もいた」
宗吉は戸倉を見据えた。
「噂を否定するふりをして、中身を広めたんだ」
「違う」
「その噂を使って、姑さんには町中がおとよさんを疑ってると思わせた。子が生まれたら、おとよさんだけを追い出せとも言ったそうだな」
戸倉の顔が歪んだ。
「黙れ」
「徳蔵とおとよさんを別れさせたかったのか」
「黙れと言ってるだろ!」
戸倉が宗吉の胸倉を掴んだ。
襟が喉へ食い込み、宗吉の身体が前へ引き寄せられる。
次の瞬間、その手が宗吉から引き剝がされた。弥一が戸倉の手首を掴んでいた。太い指が肉へ食い込み、戸倉が歯の間から息を漏らす。
「離せ!」
弥一は何も言わなかった。
戸倉の腕を外へ捻り上げ、その身体を引き寄せる。もう一方の腕が腰へ回ったかと思うと、戸倉の両足が地面から浮いた。
戸倉の身体が宙で弧を描き、背中から地面へ叩きつけられる。鈍い音が、夕暮れの道に響いた。
息を失って喘ぐ戸倉のそばへ、弥一が歩み寄る。傾いた陽を背に、その大きな身体が、戸倉の上へ影を落とした。
「俺の兄貴に何してんだ?」
弥一の声は、地を這うように低かった。
「すりつぶされてえのか?」
戸倉の顔から、血の気が引いた。
弥一が戸倉の胸元へ手を伸ばす。宗吉がその腕を掴んだ。
「弥一。もういい」
弥一の手が止まった。
「兄貴、喉は?」
「平気だ」
「本当に?」
「ああ」
弥一は宗吉の襟元を確かめてから、戸倉へ目を戻した。
「兄貴が聞いたことに答えろ」
戸倉は地面に手をつき、咳き込みながら身体を起こした。先ほどまでの強気は、跡形もなく消えていた。
宗吉は乱れた襟を直した。
「おとよさんに惚れてるんだな」
戸倉は答えなかった。弥一がわずかに動くと、その肩が跳ねた。
「……そうだ」
「弥一。そこで待ってろ」
宗吉が言うと、弥一は足を止めた。
いまの戸倉は、弥一が身じろぎするだけで身を縮める。この場を逃れるために、欲しがられた答えを返すかもしれない。ここで聞いたことは、ほかの者の話と照らし合わせなければならなかった。
「いつからだ」
「嫁に来て、しばらくしてからだ」
とよは客前へあまり姿を見せなかったが、店が忙しければ表へ出て働くこともあった。戸倉はその姿を見ているうちに、心を奪われたという。
「だが、おとよさんは徳蔵の女房だ」
「ああ」
「諦められなかったのか」
戸倉は地面へ目を落とした。
最初の赤ん坊が消えたあと、姑がとよを責め始めた。戸倉はその愚痴を聞き、初めはただ話を合わせていただけだったという。
「おっ母さんが、徳蔵に別れろと言ってると聞いた」
戸倉の指が、地面の小石を押し込んだ。
「町でも騒ぎになれば、あいつも庇いきれなくなると思った」
「それで噂を広めたのか」
「俺から悪口を言ったわけじゃない」
「否定するふりをした」
戸倉は黙った。
「姑さんには、町中がおとよさんを疑ってると言った」
「……ああ」
「子が生まれたら、おとよさんだけを追い出させようとした」
戸倉の声が萎んでいく。
「子まで奪うつもりはなかった」
「母親から引き離すつもりだったんだろうが」
弥一が吐き捨てた。
「居場所をなくしたおとよさんを、自分が引き取るつもりだったのか」
戸倉は答えなかった。地面についた手が、土を掻いた。
宗吉が口を開いた。
「自分で追い詰めておいて、自分だけは味方の顔をするつもりだったんだな」
「放り出されたら、放っとけねえだろ」
戸倉はそれだけ言って、顔を背けた。
「二人目の十三日目に、店を出た理由は?」
戸倉の肩が固くなった。
「おとよさんを見るためだ」
「裏から?」
「ああ」
「十三日目だと分かって行ったのか」
「分かってた」
「何か起きるのを待ってたのか」
「赤ん坊が消えるとは思ってなかった」
「なら、何を?」
戸倉はしばらく黙り込んだ。
「おっ母さんが、またおとよさんを責めるかもしれないと思った。家の中で揉めれば、外へ出てくるかもしれないとも」
「出てきたら、声をかけるつもりだったのか」
「ああ」
弥一が鼻から強く息を吐いた。
宗吉は戸倉を見た。
「何時ごろ、店を出た」
「八時を少し回ったころだと思う」
「どれくらい裏にいた」
「長くはない」
「店へ戻ったのは?」
「徳蔵が奥へ入る前だ」
宗吉は、その答えをすぐには書かなかった。
「旦那が奥へ入ったのは、八時半の少し前だ。そのすぐ前まで裏にいたなら、二十分近くになる。もっと早く戻ったのか」
戸倉は答えなかった。
「長くはないじゃ分からねえ。五分か、十五分か」
「……裏に何分いたかまで、時計で計ってたわけじゃねえ。そこまでは覚えてねえよ」
「あんたが席へ戻ったあとで、旦那が子を見に行ったんだな」
「ああ」
「奥から戻るところも見たのか」
「見た。普通に店へ戻ってきたよ。まだ何の騒ぎにもなってなかった」
徳蔵が最後に奥を覗いたとき、とよは起きていた。赤ん坊も、とよの腕の中にいた。そこまでは徳蔵から聞いている。
だが、そのとき戸倉がもう戻っていたかどうかは、徳蔵も滝も覚えていなかった。
「あんたが裏へ回ってるあいだに、子が消えたんじゃない。そう言いたいんだな」
「だから、俺はやってねえんだよ」
「その順序を信じるだけの裏づけが、今はねえ。徳蔵もお滝さんも、その前後は覚えていねえ」
戸倉は宗吉を見上げた。
「本当に、先に戻ったんだ」
宗吉は帳面を出し、「妊娠を知った経緯は不明」の一行に線を引いた。その脇へ、確かめたことを書き足す。
妊娠は姑から聞いていた。滝には、顔で分かったと言っている。
それから、二人目の晩について、話した者ごとに書き分けた。
二人目の晩。戸倉の話――八時過ぎに外出し、飯屋の裏へ。戻ったのは、徳蔵が最後に子を見に行く前。裏にいた長さは覚えていない。
徳蔵の話――八時半の少し前に奥へ入った。とよは起きており、子を抱いていた。
前後は未確認。裏にいた時間の長さも不明。
戸倉の言う順序なら、裏へ回っているあいだに子を攫ったという見立ては成り立たない。二軒先の店の男が語った時刻とも、食い違ってはいなかった。
辻褄は合う。だが、戸倉が戻ったあとで徳蔵が子を見た、という肝心のところは、戸倉自身の言葉でしかつながっていない。外にいた時間の長さも、最後の見回りとの前後も、裏づけは取れていなかった。
「どうして昨日、店を出てないと言った」
宗吉が訊くと、戸倉は顔を伏せた。
「裏で何をしてたか、知られたくなかった」
「おとよさんをつけ回していたことも、離縁を待っていたこともか」
「ああ」
「一人目の晩も、裏へ回ったのか」
戸倉は返事をしなかった。
「その晩も店を出たのか」
「三年前のことなんか、覚えてねえよ」
「子を攫ってはいないんだな」
戸倉が顔を上げた。
「攫ってない。二人とも、俺はやってない」
宗吉は、一人目の晩の外出は覚えていないと答えた、と書き添えた。
戸倉は膝に手を置き、身体を起こしかけた。背中を庇うように途中で止まり、低く呻く。
「こんな真似して……巡査に言ったらどうなると思ってる」
「今あったことを話すなら、止めねえよ」
宗吉は答えた。弥一は鼻で笑い、腕を組んだ。
戸倉は弥一を一瞥してから、声を落とした。
「徳蔵には、今の話は黙っててくれ」
「それは約束できねえ。確かめることがある」
戸倉は唇を噛んだ。
宗吉は帳面へ目を戻した。
噂の広め方や、姑に離縁を勧めたことについては、戸倉の話と、町の者や姑の話が重なった。昨夜、とよのいる家を覗いていたことは、宗吉たち自身がこの目で見ている。
だが、それらは赤ん坊を攫った証拠ではない。裏へ回った理由を認めたからといって、攫っていないという言葉まで信じられるわけでもなかった。
起きていた母親の腕の中から、二人の赤ん坊が消えている。戸倉の告白は、その謎に何ひとつ答えていなかった。
宗吉は、「前後は未確認」の一行を残したまま、帳面を閉じた。




