三幕 裏口の男
翌日、宗吉と弥一は飯屋の周りでも話を聞いた。
滝が相談に来てから三日目だった。とよは、もういつ子を産んでもおかしくない。
町には、とよについての噂がいくつもあった。
子を殺した。どこかへ売った。腹に入れた。祟られている。あの家には昔から何かがいる。
聞く相手が変わるたびに、話も変わった。どれも人づてのもので、自分の目で見た者は一人もいない。
宗吉が知りたいのは、その晩、誰がどこにいたのか。何を見て、何を聞いたのか。ただ、それだけだった。
二人目の赤ん坊が消えた夜について、妙な証言が飛び出したのは、その日の午後だった。話をしたのは、飯屋から二軒先で商いをしている男だった。
「戸倉なら、あの晩見たよ」
宗吉は帳面を開き、筆を取った。
「どこで?」
「あの飯屋の前だ」
男はいま、自分の店先に立っている。あの夜も、同じ場所で品を中へ運び、板戸を閉める支度をしていたという。
「戸倉は何をしていましたか」
「飯屋から出てきた」
「一人で?」
「ああ」
「そのあと、どこへ?」
男は、自分の店の脇にある細道を、顎で指した。
「うちの前を通って、あそこへ入っていった」
その細道は家々の間を縫うように抜け、飯屋の裏手へ通じている。ただし、途中にはほかの家の裏口もある。戸倉がどこまで行ったのかは、店先からでは見通せない。
「戻ってくるところは?」
弥一が訊いた。
「見たよ。しばらくして細道から出てきて、また飯屋へ入っていった」
「どれくらい外にいた?」
「そこまでは覚えてねえ。俺も仕事をしながら見てたからな」
男は、戸倉が出てから戻るまで、ずっと目で追っていたわけではなかった。
「店を出たのは、何時ごろでしたか」
宗吉が訊いた。
「そのときは時計を見てねえ。品をまだ全部、中へ運び終えてなかった」
「戻ったのは?」
「戻ったのは、八時半より前だったと思う」
「時刻は何で確かめたんですか」
「飯屋の時計だよ。店を閉めて、あの前を通ったときに見た。まだ八時半にはなってなかった。戸倉が戻ったのは、それより前だ」
「徳蔵が奥へ入るところは、見ましたか」
「そこまでは覚えてねえよ。時計を見ただけで、店の中を眺めてたわけじゃねえからな」
「赤ん坊が消えた夜のことに、間違いありませんか」
「ああ。あの日は、俺はいつもより早く店を閉めたんだ。それに、翌朝には徳蔵のところがまた騒ぎになったと聞いた。だから覚えてる」
二人目の夜、徳蔵が最後に奥へ入ったのも、八時半になる少し前だった。戸倉が戻ったのは、その前か、あとか。時刻だけでは、まだ決まらない。
「見たのは、間違いなく戸倉ですか」
「そうだよ」
男は言い切った。
「俺は提灯を持ってたんだ。出ていくときも、戻ってきたときも、目の前を通ったから顔を見た。向こうも俺を見たよ」
「声はかけなかったんですか」
「ああ。客が飯屋を出入りしてるだけだと思ったからな」
男にとっては、何の意味もない光景だったのだろう。ある客が店から出て、細道へ入り、しばらくして戻った。それだけのことである。
「一人目の子が消えた、三年前の晩はどうでしたか。戸倉の出入りを覚えてますか」
「そんな昔のことは覚えてねえよ。騒ぎになったのは聞いたが、その晩に誰が出入りしたかなんてな」
宗吉は、その証言を帳面に書きつけた。
二人目の晩。戸倉、店を出て細道へ。戻ったのは八時半前。出た時刻は不明。
一人目の晩。戸倉の出入りは覚えていない。
礼を言い、男と別れた。
「兄貴」
歩き始めてすぐ、弥一が声を落とした。
「あの細道、飯屋の裏へ続いてますよね」
「ああ。ただ、ほかの家にも行ける」
「赤ん坊が消えたころにも、あそこにいたんでしょうか」
宗吉は帳面の頁を戻した。
「戸倉は昨日、徳蔵が奥から戻るのを見た、そのあとおとよさんが出てきたと言った」
「ええ」
「その話が本当なら、その二つの場面では店にいたわけだ。確かめたいのは、外から戻ったのが、徳蔵が最後に奥へ入る前かあとかだ。前なら、戸倉が戻ったあとにも子は生きてた」
「あとなら?」
「それだけじゃ、子を見た前かあとかまでは分からねえ。子が消えたときに、外にいた可能性もある。店の者にも、その前後を確かめる」
「けど戸倉は、外へ出たなんて話は一言もしませんでしたよ」
宗吉は答えなかった。
戸倉は、二度の夜に自分も店にいたと言った。徳蔵ととよの動きや、時計を見たことも話した。だが、途中で外へ出たとも、ずっと店内にいたとも言っていない。
この証言だけでは、戸倉が嘘をついたとは言えなかった。
二人は飯屋へ戻った。昼の客はすでに引き、滝が店の端で洗った器を拭いていた。
「お滝さん。二人目の子がいなくなった晩、戸倉が途中で店を出たのを覚えてますか」
滝の手が止まった。
「戸倉さんが?」
「ああ。店から出て、しばらくして戻ったのを見た人がいます」
滝は眉を寄せ、記憶を手繰るように宙へ目をやった。
「私は覚えてないよ」
「出るところを見なかったんですか」
「見たかどうかも覚えてないよ。あの晩は店の仕事をしながら、何度も奥を気にしてた。客がちょっと外へ出たくらいじゃ、目に留まらなかったんだろうね」
徳蔵にも同じことを訊いたが、返事は変わらなかった。
「覚えてねえな」
二人目の十三日目、徳蔵は仕事の合間に何度も奥を覗いていた。戸倉が店を出るところを見なかったのか、見たが覚えていないのか。その返事からは分からなかった。
「最後に奥へ入る前、戸倉が席にいたかは覚えてますか」
徳蔵はしばらく考え込んだ。
「そこまでは覚えてねえ。騒ぎになってから、戸倉が店にいたのは覚えてる」
「旦那が表へ戻ってから、おとよさんが出てくるまでのあいだは?」
「客に膳を運んでた。誰が席を立ったかまでは、見てなかったよ」
戸倉が店へ戻ったのは、徳蔵が最後に奥へ入る前か、あとか。店の者からも、その順序は確かめられなかった。
徳蔵が炊事場へ戻ると、宗吉は滝へ向き直った。
「お滝さん。戸倉は前から、おとよさんのことを気にしていましたか」
滝の顔が、すっと曇った。
「気にしてたよ」
「どんなふうに?」
「今日は奥にいるのか。店へ出てこないのか。買い物には行かないのか。そんなことを、よく聞いてきた」
「一度や二度じゃないんですね」
「ああ。私が同じことを答えても、しばらくするとまた聞くんだ」
戸倉は、とよを悪く言う客がいれば怒った。姑がとよを責めたとき、止めたこともある。そのため滝は、あの男はとよを心配しているのだと思っていたという。
「徳蔵とのことも聞かれたよ」
「夫婦仲ですか」
「ああ。二人も子をなくして、それでも徳蔵はおとよを責めないのか。二人の仲は変わらないのか。家ではどうなんだってね」
弥一の目が細くなった。
「ほかには?」
滝は言いよどみ、それから声を落とした。
「徳蔵は、今でもおとよを抱いてるのか、とまで聞かれたよ」
宗吉は滝の顔を見た。
「いつですか」
「二人目の子がいなくなったあとだったと思う」
「何と答えたんですか」
「夫婦の夜の事なんて知るわけないだろ。そう言ってやったよ」
滝は吐き捨てるように言った。
とよがいつ店へ出るのか。外を歩くことがあるのか。夫は妻を責めているのか。夫婦仲は変わっていないのか。子をなくしたあとも、妻を抱いているのか。
心配しているだけにしては、夫婦の内情にまで立ち入りすぎている。
滝は拭き終えた器を置いた。
「そういえば、今度の子のことも、戸倉さんはずいぶん早くから知ってたよ」
「どのくらい早く?」
「まだ、見ただけじゃ分からないころだよ」
「そのころには、店で話していましたか」
「私は客には話してないよ。知ってたのは徳蔵とおっ母さん、それに私くらいだったはずだよ」
それなのに戸倉は、ある日、滝へ尋ねてきたのだという。また子ができたそうだな、と。
「どこで知ったのか聞きましたか」
「聞いたよ。おとよがそういう顔をしてたから分かった、なんて言ってた」
「顔だけで?」
「分かるわけないだろ」
滝の顔に、隠しようのない嫌悪が浮かんだ。
「私も今までは、あの人がおとよの味方なんだと思ってた。でも、何だか気味が悪くなってきたよ」
宗吉は、徳蔵と滝、二人の話を帳面にまとめた。
戸倉が店へ戻った時と、徳蔵が最後に奥へ入った時、その前後は不明。滝も徳蔵も、戸倉の出入りを覚えていない。
戸倉、とよの外出と夫婦仲を滝に尋ねる。徳蔵が今も妻を抱くか、とも。妊娠を知った経緯は不明。
宗吉は帳面を閉じた。
その日の夕方、戸倉はいつものように一人で飯屋へ来た。宗吉と弥一の姿を認めると、一瞬だけ足が止まる。しかし何も言わず、いつもの壁際の席へ腰を下ろした。
徳蔵に飯を頼み、運ばれてきた膳に箸をつける。宗吉は食事が半ばまで進むのを待ってから、静かに声をかけた。
「昨日の話を、もう少し聞いてもいいですか」
戸倉が顔を上げた。
「まだ何かあるのか」
「二人目の子が消えた晩のことです。その晩、途中で店を出ましたか」
戸倉の箸が、宙で止まった。
「出てない」
返事は、あまりに早かった。
「一度も?」
「ああ」
「あの細道へも行っていないんですか」
戸倉は箸を膳へ置いた。
「何でそんなことを聞く」
「昨日、時計を見たと言いましたね。そろそろ帰る頃合いだと思ったと」
戸倉は答えなかった。
「徳蔵が奥から戻ってくるのも見た、と。あんたが外から店へ戻ったのは、旦那が最後に奥へ入る前ですか、あとですか」
「出てねえと言ってるだろ。俺はここにいた」
「細道へ入って、どこへ行ったんですか」
「しつこいな」
戸倉が宗吉を睨みつけた。
「俺を疑ってるのか」
先ほどまで店を満たしていた器の音が、わずかに遠のいた。近くの客が、箸を止めてこちらを窺っている。
宗吉は、戸倉の目から視線を逸らさなかった。
「では、旦那が奥へ入ってから、おとよさんが出てくるまで、店で何をしていたか聞かせてください」
「余計なことを嗅ぎ回るな」
戸倉は再び飯を食べ始めた。だが、箸を運ぶ速さは、先ほどまでとまるで違っていた。掻き込むように食べ終えるとすぐに勘定を済ませ、逃げるように店を出ていった。
弥一が椀を置く。
「今のは嘘ですね」
「二軒先の親父が見間違えてなけりゃな」
宗吉は帳面を開き、出入りを見たという証言の隣へ、戸倉は一度も出ていないと答えた、と記した。
戸倉は行った先も、戻った時刻も答えなかった。出ていない。その一言だけで、話を断ち切った。
「何を隠してるんでしょうね」
弥一が戸口を見た。
「怪しいよな。少しつけてみるか」
宗吉はそう言って、帳面を閉じた。
戸倉が出てから少し待ち、二人も店を出た。
秋の夕暮れは短い。往来にはまだ人の姿があったが、空はすでに藍を深め、店先の灯が道へ細長い帯を落としていた。
戸倉の背は、少し先にあった。宗吉は距離を測りながら、その背を追った。
二つ目の角を曲がったところで、弥一が宗吉の肩を引いた。
「兄貴。顔ごとあいつへ向けないでください」
「見失うだろ」
「それじゃ先に気づかれますよ」
宗吉は仕方なく、道沿いの店先を眺めるふりをした。そのせいで、軒下に積まれた空の桶へ危うくぶつかりかける。弥一が襟首を掴み、引き戻した。
「どこ見て歩いてるんです」
「戸倉だよ」
「今は桶を見てください」
前を行く男は気づかなかったらしい。やがて、もう一つ角を曲がり、飯屋のある通りへ戻ってきた。往来を外れ、家々の間の細道へ吸い込まれていく。昼間、二軒先の男が顎で指した、あの道だった。
宗吉と弥一も角を曲がった。戸倉の足が次第に遅くなり、やがて止まる。弥一が宗吉を板塀の陰へ引き寄せた。
「ここは?」
宗吉が声を潜めて訊くと、弥一は塀越しに覗く屋根へ顎を向けた。
「飯屋の裏ですよ」
戸倉は遠回りをして、先ほど出たばかりの店へ戻ってきたのだ。表ではない。裏口から少し離れた、闇の濃い場所だった。
二人が身を隠した場所にも、板の継ぎ目に隙間があった。宗吉が顔を寄せると、庭を挟んだ障子が見えた。
戸倉は戸を叩くわけでも、誰かを呼ぶわけでもなかった。ただ、板塀の向こうをじっと見ている。細い隙間から家の灯が漏れ、中で人が動くたび、その光が揺れた。
そのたびに、戸倉もわずかに顔の向きを変えた。
誰がどこにいるのか、塀の外から探っているようだった。
やがて、障子の向こうを人影が横切った。戸倉がわずかに身を乗り出す。しかし、すぐ後ろから大きな影が現れると、弾かれたように身体を引いた。
大きな影は徳蔵らしかった。二つの影は隣り合い、そのまま障子の端から消えた。
戸倉は動かなかった。暗い裏道に立ち尽くしたまま、人影の消えた障子から目を離さずにいる。
「何してんだ、あいつ」
宗吉が呟いた。
「おとよさんを見てるんでしょう」
弥一の声には、隠しようのない嫌悪があった。
宗吉の腹の底が、冷えた。今日、面と向かって細道のことを問い詰められたばかりの男である。疑われていると分かっていながら、それでもこの男は、店を出たその足で、あの細道を辿ってここへ来ている。
しばらくして、戸倉は諦めたように板塀から離れ、来たときとは別の道へ曲がっていった。
二人は板塀の陰から、その姿が闇に溶けるまで見送った。足音が遠ざかり、聞こえなくなっても、しばらくは動けなかった。
「兄貴」
「ああ」
弥一は、戸倉が立ち去った道を睨んだままだった。
「俺たちに疑われているのを分かっているくせに、それでもここに来たんですよ。あいつで決まりじゃないですか」
宗吉は答えなかった。
怪しいことと、犯人であることは違う。それでも、疑いを捨てることはできなかった。あの男はあの晩、細道の先で何をしていたのか。
宗吉は板塀の陰から出て、戸倉が立っていた場所まで歩いた。弥一もついてきて、少し後ろで足を止めた。宗吉は板塀の隙間へ目を寄せた。
飯屋の中で、また灯が動いた。障子に人影が浮かび、すぐに消えた。
静まり返った裏道で、宗吉はしばらく、その障子を見つめていた。




