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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第03章 子が消える十三日目
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二幕 口の利けない女

翌日の昼過ぎ、宗吉と弥一は柏屋を訪れた。


暖簾をくぐるなり、帳場の奥からみちが弾かれたように立ち上がった。そばには番頭の嘉助が控えている。


「どう?ついにお客は来た?」


宗吉は頷いた。


「昨日の昼過ぎ、初めての頼みが来ました。飯屋で働いてる、お滝さんからです」


「よかったですね」


穏やかな声をかけたのは嘉助だった。一拍遅れて、みちの顔がぱっと明るくなる。


「ええ。本当によかった」


みちは言った。


自分のことのように喜ぶ顔を見ていると、宗吉まで頬が緩むのを止められなかった。


「おみちさんのおかげです。あの家がなければ、頼みを受ける場所もなかった」


「私は家を用意しただけよ。お客が来たのは、宗吉さんたちの力でしょう」


「でも――」


「兄貴」


弥一が横から口を挟んだ。


「そろそろ行かねえと、徳蔵を待たせちまいますよ」


「分かってるよ」


「お嬢さんへの報告は、もう十分済んだでしょう」


弥一はにやりと笑っていたが、その目はどこか面白くなさそうだった。


「何だよ、その顔」


「何でもありませんよ」


みちが袖で口元を隠すようにして笑った。


二人が暖簾をくぐりかけたとき、背後の笑い声に宗吉はつい振り返った。その拍子に敷居へつま先を引っ掛け、体が大きく前へつんのめる。とっさに弥一の手が腕を掴んだ。


「危ねえな」


「悪い」


「お嬢さんの顔ばかり見てるからですよ」


「見てねえよ」


「見てました」


言い返す間もなく、弥一は宗吉の腕を掴んだまま表へ引っ張り出した。背後で、みちの笑い声がもう一段高くなった。


昼過ぎ、二人は滝の働く飯屋へ着いた。


昼の客がひと通り引けた刻限で、店には二人ほどの客が残っているだけだった。空いた膳はすでに下げられ、炊事場では滝の夫が黙々と器を洗う水音だけが響いている。


滝は宗吉たちに気づくと、手にしていた布巾を置いた。


「来たね」


「ああ。徳蔵には?」


「話してあるよ。奥で待ってる。店は私らで見てるから、ゆっくり聞いてやっておくれ」


往来に面した店の裏には炊事場があり、そのさらに奥に、徳蔵たちの居間と寝所が続いている。普段のとよは炊事場で野菜を切ったり、器を洗ったりしているため、宗吉も何度か姿を見ていた。


今日は店へ出ていなかった。


滝に案内されて居間へ入ると、徳蔵が待っていた。


宗吉は店で顔を見たことがある。肩幅のある男だが、頬の肉が落ち、目の下が黒ずんでいた。この数日、まともに眠れていない顔だった。


徳蔵は弥一を見ると、しばらく目を細めた。


「弥一か」


「覚えてたのか」


「そりゃな。昔からでかかったが、またでかくなったな」


「横には育ってねえよ」


徳蔵の口元がわずかに動いた。だが、その笑みはすぐに消えた。


「あんたが根津さんか」


「根津宗吉です」


「お滝から聞いた」


徳蔵は二人に座るよう勧めた。


宗吉は帳面を開いた。


「昨日、お滝さんから大まかな話は聞きました。同じことを最初から全部話してもらうつもりはありません。旦那が自分で見聞きしたことを中心に、確かめさせてください」


徳蔵は頷いた。


「最初の子がいなくなった夜、旦那は店にいたんですね」


「ああ」


「最後に赤ん坊を見たのは?」


「夜の八時を少し回ったころだと思う。表の掛時計を見てから、奥へ入った」


徳蔵は膝の上へ目を落とした。


「おとよは起きてた。子は寝てた」


「何のために奥へ?」


「おとよに水を持っていった。ついでに、子の顔を見たんだ」


徳蔵は少し間を置いた。


「初めての子だったからな。眠ってるだけでも、見たかった」


徳蔵は表へ戻った。店にはまだ三人ほど客が残っていた。それからほどなくして、とよが奥から出てきた。


「顔を見たとき、何かあったと分かった」


徳蔵は自分の腕を掴んだ。掴んだ指の跡が残りそうなほど強く。


「ここを強く掴まれた。おとよは何度も奥を指して、両手を動かしてた」


「赤ん坊に何かあったのか、と訊いたんですか」


「ああ。そしたら頷いた」


徳蔵が奥へ駆け込むと、赤ん坊はいなかった。布団にも、畳にも、血はなかった。戸や窓が壊された跡もなく、誰かが争ったような乱れもなかった。


「おとよさんは、何があったのか伝えようとしたんですね」


「何度もな」


「旦那には分からなかったんですか」


徳蔵の拳が、膝の上で固くなった。


「子がいなくなったことは分かった。それより前に何があったのかは、分からなかった」


徳蔵は日々の暮らしの中で、とよの表情や身振りから多くのことを読み取ってきた。それでも、あの夜の動きだけは理解できなかったという。


「俺が分かってやれなかった」


その言葉を、宗吉は帳面に書かなかった。


家の中を探した。滝の夫が巡査を呼び、家を調べてもらった。そのあと、徳蔵も滝の夫や巡査と外へ出て、近くの井戸や水路まで調べた。それから何日も方々を歩き、赤ん坊を抱いた者を見なかったかと人に聞いた。


それでも、何も見つからなかった。


「死んでるなら、それでもいいから見つかってくれと思った」


徳蔵は言った。


「何も残らねえ方が、よほど堪える」


炊事場から届く水の音だけが、間を埋めた。


宗吉は少し間を置いてから、二人目のことを訊いた。


二人目のときは、十三日目が近づくにつれ、徳蔵も母親も、滝とその夫も、仕事の合間に何度も母子の様子を見に行った。


「店を閉めようとは思わなかったんですか」


「思った」


徳蔵は答えた。


「だが、一度目の十三日目に意味があるのかも分からなかった。人に攫われたのなら、戸口に気をつければいいとも思った。それに、一日店を閉めれば、その日の稼ぎがなくなる」


徳蔵は目を伏せた。


「今なら、閉めておけばよかったと思う。だが、あのときは、店を閉めなくても、何も起きないかもしれないと思ったんだ」


店は開けたままにし、四人が交代で奥を覗いた。徳蔵が覗くたびに、とよは起きて赤ん坊を抱いていた。


「最後に見たのは?」


「八時半になる少し前だ。そのときも、奥へ入る前に時計を見た」


「赤ん坊は?」


「おとよの腕の中で眠ってた」


徳蔵はそこで口を閉じた。しばらくして、ようやく続けた。


「俺が表へ戻ったあと、おとよが出てきた。顔を見た瞬間、一度目と同じだと分かった」


徳蔵は奥へ走った。二人目の赤ん坊も、消えていた。


「おとよさんは、そのときも何か伝えようとしましたか」


「ああ」


「一度目と同じ身振りでしたか」


「似てたと思う。だが、おとよも取り乱してた。俺もだ。何をどう動かしてたか、今じゃはっきり思い出せねえ」


宗吉は、身振りの細かいところは覚えていない、と帳面に記した。


分からないことを、分かったことにするわけにはいかない。


「子が生まれた届けは、二人とも旦那が出したんですね」


「ああ」


「消えたあと、役所へはどう届けたんですか」


「いなくなったと、そのまま話した。二人ともな」


「亡くなったとは届けていないんですね」


「届けてねえ。死んだと決まったわけじゃねえんだ」


宗吉は、二人とも行方知れずと届けた、と書き添えた。


「おとよさんが二人をどうかしたとは、思っていないんですね」


「思ってねえ」


徳蔵は顔を上げた。落ちくぼんだ目が、まっすぐ宗吉を捉えた。


「一度もだ」


「町で言われていることは?」


「知ってる。おとよが殺しただの、腹に入れただの」


徳蔵の声が低くなる。


「俺の前で言った奴は殴った」


弥一がわずかに眉を上げた。


「そいつは仕方ねえな」


「おっ母とも、それで揉めてる」


徳蔵は居間の奥を見た。


「子を産んだら、すぐにおとよだけを追い出せと言ってる」


「旦那は?」


「追い出さねえよ」


徳蔵は即座に答えた。


「おとよは俺の女房だ」


しばらくして、とよが隣の間から出てきた。


宗吉が店で見かけたときと同じ、細身の女だった。それでも腹は大きく、着物を押し上げていた。徳蔵が座布団を置くと、とよは片手を畳につき、宗吉たちの向かいへ、ゆっくりと腰を下ろした。


「こちらが根津さんだ」


徳蔵が宗吉を示した。


「隣が弥一。お滝が頼んだ人たちだ」


とよは二人へ頭を下げた。宗吉も頭を下げる。


「おとよさん。俺の言ってることは分かりますか」


とよは頷いた。


「答えにくいことは、答えなくていいです。苦しくなったら、そこでやめます」


もう一度、頷いた。


宗吉は一人目の夜について、短く確かめていった。起きていたか。赤ん坊はそばにいたか。徳蔵が店へ戻ったあとも、赤ん坊はいたか。


とよは、それぞれに頷いた。


「そのあと、戸が開きましたか」


とよは強く首を振った。


「窓は?」


首を振る。


「誰かが入ってきましたか」


とよの動きが止まった。頷きもせず、首も振らない。


「人を見ましたか」


同じだった。


宗吉は訊き方を変えた。


「何があったのか、見せられますか」


とよは自分の両手を見つめた。


やがて片腕を曲げ、赤ん坊を抱くような形を作った。もう一方の手を上へ伸ばし、指を開く。何かを掴もうとするように閉じ、胸元へ引き戻した。


それから腕の中を見て、激しく首を振った。


「一人目の子も、腕の中からいなくなったんですか」


とよは頷いた。


「旦那が表へ戻ってから、抱き上げたんですね」


もう一度、頷く。


宗吉は一行目に、腕の中から消えた、と書き足した。徳蔵が最後に見たときは、寝床にいた。そのあとで、とよが抱き上げたのだ。


とよはもう一度、片手を上げかけた。


「上に、何かいましたか」


とよの手が止まった。


「手を伸ばしたのは、それを掴もうとしたんですか」


答えはなかった。とよは上げかけた手を胸へ戻した。


「もう一度、できますか」


とよは同じ動きを繰り返した。だが、伸ばした手で何を示しているのかは、やはり読み取れなかった。


「そこが、まだ分からねえ」


宗吉は正直に言った。とよの顔が曇る。


「おとよさんが悪いんじゃありません。俺が分からないだけです」


とよは宗吉を見つめた。


隣で、徳蔵が俯いている。何度も同じ思いをしたのだろう。


弥一が訊いた。


「二人目の夜も、同じことが起きたのか」


とよは頷いた。


宗吉は帳面に記された二つの言葉を見た。


十三日目。


十三日目。


「二人とも、生まれて十三日目にいなくなった」


宗吉が口にすると、とよは目を伏せた。膝の上の手が、着物を強く掴んでいた。


「十三日目に、何かあるんですか」


とよは口を開いた。しかし、言葉にはならない。片手を上げかけ、途中で止める。その手が腹へ移った。


「ほら」


背後から声がした。徳蔵の母親が、居間の入口に立っていた。


「知ってるんだよ、その女は」


「おっ母」


徳蔵の声が低くなる。


「十三日目と聞いた途端、その顔だ。何も知らない人間が、そんな顔をするかい」


「やめろ」


「二人とも、その女と一緒にいるときに消えたんだ!」


とよが俯いた。徳蔵が立ち上がる。


「やめろと言ってるだろ!」


怒鳴り声が店まで響いた。表の話し声が一瞬途切れる。


徳蔵は歯を食いしばり、声を抑えた。


「二人は俺の子でもあるんだ。悲しいのは、おっ母だけじゃねえ」


「だからこそ言ってるんだよ。三人目まで――」


「黙れ」


徳蔵の手が震えていた。


「俺だって、二人とも……」


その先は続かなかった。


とよが徳蔵の袖を掴む。徳蔵はその手を握った。


「おとよ、もう戻れ」


とよは宗吉を見た。


宗吉は頷いた。


「今日は、これで十分です」


とよは頭を下げた。徳蔵の手を借りて立ち上がり、隣の間へ戻っていった。


宗吉は徳蔵の母親からも話を聞いた。だが、二人の赤ん坊が消えた夜について、姑だけが見聞きした事実はなかった。


「おとよさんがやったという証拠はあるんですか」


「ほかに誰がいるんだい」


「それは証拠じゃありません」


姑は宗吉を睨んだ。


「ずいぶん、あの女の肩を持つんだね」


「持ってません。やったとも、やってないとも決めていないだけです」


「どこの誰とも分からない女だよ。親が誰かも、どこから来たのかも話さない」


「話さないんじゃなく、話せないんでしょう」


「私には同じさ」


姑は立ち上がった。居間を出る前に、とよが戻った隣の間を一度見た。


宗吉たちが表へ戻るころには、夕方の客が入り始めていた。


滝は膳を運び、徳蔵は注文を聞いている。つい先ほど声を詰まらせていた男が、何事もなかったように働いていた。ただ、ときおり店の奥を見る。ほんの一瞬だけ視線を向け、また客へ視線を戻す。


宗吉と弥一は、そのまま店に残った。一人目と二人目が消えた夜、店にいた客にも話を聞くためだった。


弥一はこの町で生まれ育っている。顔見知りの客を見つけると、飯を食べながら何気なく声をかけた。


「ここの赤ん坊の話、覚えてるか」


年嵩の男が声を落とす。


「覚えてるさ。巡査まで来たからな」


「その晩、ここにいたのか」


「俺はいなかった」


「じゃあ、何を知ってる」


「人から聞いた話だけだよ」


別の客も似たようなものだった。


母親が殺したらしい。いや、病で死んだのを隠しただけだ。誰かに売ったのだ。


聞くたびに話が違った。確かなことを知る者は少なく、誰も確かめていないことが、憶測で埋められていた。


滝が教えてくれた客の中には、一人目が消えた晩に居合わせた者もいた。だが、覚えているのは、とよが慌てて店へ出てきたことと、急に騒ぎになったことだけだった。


「何時だった?」


弥一が訊く。


「そこまでは覚えてねえ」


「誰がどこにいた?」


「さあな。飯を食いに来ただけだからな」


それが普通なのだろうと宗吉は思った。何かが起こると知って、店内を見張っていたわけではない。


しばらくして、滝が膳を持ったまま宗吉のそばを通った。


「あの人だよ」


小さな声で言い、入口へ目を向ける。


三十代半ばほどの男が入ってきた。男は空いている場所を探すこともなく、壁際の席へ腰を下ろした。


「戸倉さんだ」


滝は言った。


「どちらの晩にもいたっていう?」


「そうさ。おとよを庇ってるのも、あの人だよ」


徳蔵が戸倉へ声をかけた。


「いらっしゃい」


「いつものを頼む」


戸倉はそう答え、奥へ一度だけ目を向けた。


弥一が頃合いを見て、戸倉の向かいへ移った。


「少し訊いていいか」


「何だ」


「おとよさんの子供が消えた晩、あんたもここにいたそうだな」


戸倉は弥一の顔を見た。


「誰から聞いた」


「誰でもいいだろ。二度ともいたのか」


「ああ」


戸倉は答えた。


「いたよ」


宗吉も弥一の隣へ座った。


「何を見ましたか」


「一度目は、徳蔵が奥から戻ってきて、しばらくしてからおとよさんが出てきた。二度目も同じだった」


「そのあいだ、外から入ってきた者は?」


「いなかった」


「裏口は見えませんよね」


「見えねえな」


戸倉はあっさり認めた。


「だから、外から誰も入れなかったとは言わねえ。ただ、店を通った奴はいなかった」


「徳蔵が奥へ入った時刻は、覚えていますか」


「一度目は八時を少し回ったころだ。二度目は八時半になる前だったと思う」


「何で時刻を確かめたんですか」


戸倉は壁を指した。掛時計の振り子が、規則正しく揺れている。


「あれだよ。そろそろ帰る頃合いだと思って見たんだ」


徳蔵が時計を見たという時刻と合っている。


「よく覚えてますね」


宗吉が言うと、戸倉は宗吉を見返した。


「二度も騒ぎに居合わせりゃ、忘れねえよ。それで、俺を疑ってるのか」


「誰がやったかは、まだ分かりません」


宗吉は答えた。


「見たことを、一人ずつ確かめてるんです」


「なら、おとよさんを疑うのもやめろ」


戸倉の声が強くなった。


「あの人が自分の子をどうかするはずがねえ」


弥一が戸倉を見る。


「ずいぶん、信じてるんだな」


「普段の姿を見てりゃ分かる」


「飯を食いに来るだけの客が?」


戸倉は口を閉じた。


ほんのわずかな間だった。


「長く通ってるからな」


それ以上、戸倉は話そうとしなかった。宗吉も無理には訊かなかった。


戸倉はこの店の常連である。二度の夜に居合わせたことも、時刻を覚えていたことも、それだけなら不自然とは言い切れない。とよを信じているというだけで、疑う理由にもならない。


それでも宗吉の胸には、小さな棘のようなものが残った。


二年ほど隔たった二つの夜。二人の赤ん坊が消えた、その両方の夜に、同じ男が店にいた。その男が、ただの客ではないのかと問われたとき、一瞬、言葉に詰まった。


滝が戸倉の前に膳を置いた。宗吉たちが元の席へ戻ると、戸倉は何事もなかったように飯を食べ始めた。


隣で、弥一の箸が止まっている。宗吉と目が合うと、弥一はごくわずかに顎を引いた。


宗吉も何も言わなかった。

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