一幕 十三日目の子
明治十年十月。
開港場の外れ、二人の住まう家の障子には、昼過ぎの光が薄く滲んでいた。宗吉は文机に帳面を広げ、墨のにおいの残る筆を手にしたまま待っている。机の向こうでは、滝が膝の上で両手をきつく握り合わせ、指の関節を白くしていた。宗吉の隣に座った弥一も口を開かない。開いた戸口の外を、荷車の車輪がきしみながら通り過ぎていく音だけが、しばらく部屋を満たしていた。
やがて車輪の音が遠ざかり、通りが静けさを取り戻したころ、滝が顔を上げた。
「相談したいのは、飯屋のおとよって女と、その二人の子供のことだよ」
「おとよさん?」
「徳蔵の女房さ。普段は奥で、野菜を切ったり器を洗ったりしてる」
宗吉の脳裏に、湯気の向こうでうつむいたまま働いていた女の姿がよみがえった。幾度か見かけただけで、名までは知らずにいた。
「あの人か」
隣で弥一が、ふと思い出したように顎を上げた。
「……そういや、あの店の子供の話があったな。二人とも赤ん坊のうちに亡くなったって。おとよが何かしたって噂も」
「亡くなったんじゃない」
刃物のように、滝の声が鋭くなった。宗吉は滝の顔を見た。
「二人とも、消えたんだよ。おとよは何もしてない」
「いつの話だ」
宗吉が訊くと、滝は握り合わせた両手に、さらに力を込めた。
「最初は三年前。二人目は去年だよ。そのたびに、家の中から赤ん坊が消えたって、町じゅうで噂になった。いつの間にか、おとよが殺したって話に変わってたけどね」
どちらも、宗吉がこの開港場へ来る前のことだった。
「お前は、そのころから聞いてたんだな」
宗吉が隣を見ると、弥一は頷いた。
「ええ。この町で育ってますからね。けど、今、おとよの名を聞くまで忘れてました。人の家の話まで、気に留めてなかったんで」
「あんたは昔から、そんなところがあるね」
滝は短く息をついた。弥一は言い返さず、あぐらをかき直した。
宗吉は滝に向き直った。
「子供は、生まれてどれくらいで消えた」
「最初の子は十三日目」
「二人目は?」
「その子も十三日目だよ。二人とも男の子だった」
宗吉は帳面に、二行を書きつけた。
一人目 三年前 生後十三日目。
二人目 去年 生後十三日目。
十三日目、という字が二つ並んだ。墨はまだ乾き切らず、障子越しに射す光を弾いて鈍く光っている。
「同じ日数なのが、どうしても気になってね」
滝は、その二行から目を離せずにいた。
「人さらいなのか、ほかの何かなのか、私には分からない。でも、あんたたちが、そういう相談を受ける仕事を始めたって噂を聞いたんだよ。それで来たのさ」
「一人目から聞かせてくれ。その晩、店には誰がいた」
「徳蔵とおっ母さん、私とうちの人だよ。まだ客も残ってた」
「お滝さんの亭主も、店に出てるのか」
「台所にいるのが、うちの人さ。徳蔵は私の親類でね。夫婦で働いてるんだよ」
宗吉は、湯気の向こうで鍋を扱っていた男の顔を思い浮かべた。
飯屋は往来に面した表側が店で、その奥が徳蔵たちの住まいになっている。その晩、とよは赤ん坊と奥の間にいて、産後の身体を休めていた。
「お滝さんは、ずっと表の店にいたんだな」
「ああ。私が見たのは、おとよが奥から出てきたところからだよ。その前のことは、徳蔵に聞いたんだ」
とよが出てくる少し前に、徳蔵が水を持って奥へ入ったという。そのとき、とよは起きていて、赤ん坊も寝床にいた。
それから、さほど時を置かず、とよが表へ出てきた。
「顔から血の気が引いてた。何も抱いてないのに、何度も赤ん坊を抱くように腕を構えるんだよ。こうやって」
滝は両腕を胸の前で曲げ、赤ん坊を抱く形を作った。その腕の中には何もなかった。
「それから奥を指して、徳蔵の腕を掴んだ。赤ん坊に何かあったのかって訊かれたら、何度も頷いてね」
徳蔵は奥へ駆け込んだ。徳蔵の母と滝もあとを追った。滝の夫が店に残った。
寝床は空だった。徳蔵は布団を剝ぎ、押入れを開けた。隣の間にも赤ん坊はいない。とよが寝床のそばで赤ん坊を抱くように両腕を構えているあいだ、徳蔵は家の中を探し回り、また奥へ戻ってきた。
「さっきめくった布団を、もう一度めくってたよ。そこにいないのは、分かってるはずなのにね」
宗吉は筆を持ったまま、滝の腕がようやく膝へ戻るのを待った。
「泣き声は聞こえたか」
「私は聞かなかった。うちの人も、表に残ってた客も、聞いてないって言ってたよ」
「血は?」
「寝床にも、おとよの着物にもなかった。巡査が来てから家じゅうを調べたけど、どこにも見つからなかったんだ」
「おとよさんは、眠っていたのか」
「徳蔵が目の前で訊いたよ。おとよは何度も首を横に振った。水を持っていったときにも起きてたと、徳蔵は言ってたね」
「何が起きたかは、話せなかったのか」
「おとよは口が利かないからね」
「生まれつきか」
「そこまでは知らないよ。私が初めて会ったときには、もう話せなかった」
「字は?」
「読めないし、書けない。だから、身振りで答えてもらうしかなかったのさ」
滝もその場にいた。とよは寝床を指し、両腕で赤ん坊を抱く形を作ってみせた。徳蔵が問いかけるたびに頷いたり、首を振ったりしたが、やがて同じ問いが繰り返されるようになった。
「誰かが入ってきたのかって訊いても、あの子は赤ん坊を抱くように腕を構えたまま震えてた。私が背中をさすっても、止まらなかったよ」
弥一が机に置いていた肘を下ろした。宗吉の隣で、両手を膝に載せている。
巡査を呼びに走ったのは滝の夫だった。滝はとよのそばに残り、巡査が家を調べ、家の者や客に話を聞くのを見ていた。
戸や窓に壊れたところはなかった。赤ん坊を抱いて出ていった者を見た、という客もいなかったと滝は言った。
「徳蔵とうちの人も、巡査と捜しに行った。井戸も水路も見たけど、いなかったって戻ってきたよ」
宗吉は一行目の脇に、滝とその夫、表の客は泣き声を聞かず、血と戸や窓の破損も見つからず、と記した。それから筆に、もう一度墨を含ませた。
「二人目のときは、何か変わったことがあったか」
滝の口元が、こわばった。
「十三日目が近づくと、おとよは赤ん坊を離さなくなった。私が見に行っても、いつも抱いてたよ。私たちも、代わる代わる奥を覗くようにしたんだ。普段はおとよも入れて五人で働いてるのを、四人でこなしてたからね。そこから一人が付き添いに抜けたら、三人じゃ店の仕事が間に合わないんだよ」
その晩、最後に奥を覗いたのは徳蔵だったという。
「そのときも、おとよは起きて、赤ん坊を抱いてたそうだよ。徳蔵が表へ戻って、それほど経たないうちだった。おとよが飛び出してきたのは」
滝は赤ん坊を抱くように両腕を構え、片方の手でもう片方の袖を掴んだ。
「こうして、袖を掴んでた。腕の中を何度も覗いてね。私があの子の指を開かせようとしても、袖を離さなくてね。一度目より、ずっと取り乱してたよ」
二度目も、滝は徳蔵と奥へ入った。そこに赤ん坊はいなかった。滝の話では、今回も表にいた者たちは泣き声を聞いていなかった。血も、戸や窓の破損も見つからなかった。その点は、一度目と同じだった。
宗吉は二行目の脇に、徳蔵が最後に見たときは、とよが抱いていた、と書き足した。
来たのは、前の事件を知っている巡査だった。今度は寝床や押入れを念入りに調べ、四人を一人ずつ呼んで、同じことを何度も訊いた。滝も問い詰められたが、最後に巡査が帰るときにも、赤ん坊の行方は分からなかった。
「巡査は、おとよさんを疑ったのか」
「ああ。二度ともそばにいたのは、おとよだからね。けど、捕らえていくことはなかったよ」
滝は一度口を開き、何も言わずに閉じた。膝の上で、重ねた手の指だけが小さく動いた。
「ほかにも、何かあるのか」
「……あるよ。けど、先に、あの家で何を言われてるか聞いておくれ」
宗吉は頷き、筆を置いた。
「徳蔵は、おとよさんを疑ってるのか」
「疑ってないよ。乳を飲ませたり、泣けば抱いてあやしたりするところを、あの人もずっと見てたからね。おとよが我が子に手をかけるはずがないって、今も庇ってる」
「子供を捜すのも、続けたのか」
「うちの人と、何日も歩き回ってたよ。二人目のときも同じさ。徳蔵は子供を抱いた女を見かけるたび、抱かれている子の顔を確かめずにはいられなかったって。うちの人が、そう言ってた」
宗吉は開いた帳面へ目を戻した。
「子が生まれた届けは、二人とも出してるんだな」
「ああ。どちらのときも、徳蔵から届けてきたって聞いたよ」
「消えたあとは、役所にどう届けた」
「そっちは聞いてないよ。そういうことは、徳蔵がやってたからね」
「それは徳蔵に確かめる」
「生まれたばかりのころは、そりゃあ嬉しそうにしてたんだ。それが……」
滝は唇を結び、少ししてから続けた。
「徳蔵は庇ってる。でも、おっ母さんは違う」
弥一が低く息を吐いた。
「ああ、あの婆さんか」
「お前は、よく知ってるのか」
宗吉が訊くと、弥一は苦いものを噛んだように口を曲げた。
「俺が子供のころから、あの婆さんはあの店にいますからね。気の強い人ですよ」
「気が強いなんてもんじゃないよ」
滝は吐き捨てるように言った。
姑はとよを、嫁いできたころから嫌っていた。口が利かず、どこの誰とも知れない。何を考えているのか分からない。とよが来てから家にはろくなことがない。滝はそんな言葉を、店で幾度も聞かされていた。
二人の子が消えてからは、とよが殺したのだと言い出した。
「死体もないのにか」
「だから、食ったんだってさ」
宗吉は滝の顔を見た。隣で弥一が身を起こした。
「自分の子を?」
「ああ。二人ともどこにもいない。外へ運び出した跡もない。それなら、おとよが食ったに違いないって」
「よく、そんなことが言えるな」
弥一の声が低くなった。
「言うんだよ。孫が二人消えたのに、あの女だけが残ってるってね」
開いた戸口の向こうを、人影がひとつ横切っていった。宗吉は机の端に置いた筆を取り、姑がとよを疑っている、と帳面に記した。
「お滝さんは、おとよさんを信じてるんだな」
「あたりまえだよ。毎日一緒に働いてきたんだ。口が利かないからって、何を考えてるのか分からない女じゃない。嬉しけりゃ笑うし、嫌なら嫌な顔をする。店が忙しけりゃ、言われなくても手を貸すような子だよ」
滝は机越しに宗吉を見つめた。
「一人目が消えたときの顔も、二人目が消えたときの顔も、私は見てる。あんな顔をした人間が、自分の子を殺したなんて思えるもんか」
宗吉は、それを帳面には書かなかった。
滝がとよを信じていることは、事件の答えにはならない。しかし、滝がここへ来た理由にはなる。
「ほかに、おとよさんを庇ってる者は?」
「常連の戸倉という男がいるよ。徳蔵の親類でも、昔馴染みでもないんだけどね」
「その男も、赤ん坊が消えたことを知ってるのか」
「二度目の晩に店にいたからね。おっ母さんがおとよを責めたときも、何も知らないくせに勝手なことを言うなって怒ってたよ」
弥一が首を傾げた。
「ずいぶん肩を持つんだな」
「そうなんだよ。あのときは、徳蔵より先に口を出してたね」
宗吉は、戸倉、と記した。とよを庇ったからといって、怪しいとは限らない。滝も同じだからだ。
「それぞれの晩にいた客を、覚えてるか」
「全員は無理だよ。でも、顔を覚えてる客ならいる」
「分かる者だけでいい。あとで一人ずつ教えてくれ。どちらの晩にもいた客は?」
滝は少し考えた。
「私が覚えてる限りじゃ、戸倉一人だね」
宗吉は、今書いた名の脇に線を一本引いた。
隣から弥一が帳面を覗き込み、指を伸ばした。その指が、二つ並んだ十三日目の手前で止まった。
「兄貴は、人じゃないものの仕業だと思いますか」
「まだ分からねえ。十三日目が二度続いたのは妙だ。けど、人間にだって、その日を選ぶことはできる」
「おとよは、何か見たんでしょうか」
「それも、本人に会って確かめる。徳蔵に分からなかったことが、俺に分かるとは限らねえけどな」
宗吉は筆を置き、滝へ向き直った。
「まず店を見る。おとよさんと徳蔵、おっ母さん、お滝さんの亭主にも話を聞きたい。戸倉や、ほかの客にも会わせてくれ」
「ああ。徳蔵にも、そう頼んであるよ」
「俺たちが調べることには、賛成なんだな」
「もちろんさ。私が噂の話をしたら、頼んできてくれって。自分からも頭を下げるって言ってたよ。今日は店を休んでるんだけど、徳蔵はおとよを置いて出たくないんだとさ」
「おっ母さんは?」
「初めは反対したよ。また家の恥を言いふらす気かってね。けど、徳蔵が引かなかった。最後には、勝手にしろって折れたよ。あんたたちが来ることは、承知してる」
「金は誰が払う」
「私だよ。払えるだけは払う」
「徳蔵と親類だからか」
「それだけじゃないよ」
滝は宗吉をまっすぐ見た。その目に、迷いの色は一片もなかった。
「私は、おとよが好きなんだよ。あの子は二人も子供をなくした。そのうえ、同じ家の中で人殺しみたいに言われてる。放っておけるかい」
宗吉は頷いた。
弥一はもう帳面を覗いていなかった。机の向こうの滝を、黙って見ていた。
「さっき、ほかにもあるって言いかけたな」
宗吉が促すと、滝は膝へ目を落とした。重ねた両手を、ゆっくりほどいた。
「おとよは今、三人目の子を身籠ってる」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。膝の上に置かれた滝の両手の指先だけが、小さく震えていた。
「もう、いつ生まれてもおかしくないって、産婆に言われてるんだよ」
外から聞こえていた往来の音が、いつの間にか遠くなっていた。
宗吉は置いた筆を取り上げ、二つの「十三日目」を――ゆっくりと、一つの丸で囲んだ。




