↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第03章 子が消える十三日目
PR
47/57

序幕 神を忘れる

かつて、人間は神を生み出した。


まだ人間の知っていることがあまりに少なく、世界の大半が、その手の届かぬ闇の中にあったころのことである。


太陽が沈むと、闇はまたたく間に世界を塗りつぶした。人間の場所として残るのは、焚き火の明かりが届く、狭い輪の内側だけだった。燠火がはぜる音の向こうで、獣が低く鳴き、草木がざわめいた。何かの足音が近づいてきても、明かりの輪の外にあるものの姿は、誰にも確かめようがない。誰かが薪をくべると、炎が大きく揺らぎ、地面に伸びた草の影がびくりと震えた。――闇の中で、足音が止まった。


朝が来るたび、東の空はまず白く滲み、やがて金色に燃え上がって、太陽が地平を割って昇った。凍えていた大地に熱が戻り、草の葉が光を浴び、人の身体にもまた血の温もりが戻ってくる。誰があの炎を天に掲げているのか。なぜ夜になれば消え、朝にはまた戻ってくるのか。どれほど闇の中で待ち焦がれても、人の手であの炎を呼び戻すことはできなかった。


海もまた、人間の願いなど意に介さなかった。凪いだ日には銀色の魚影を惜しみなく差し出し、荒れる日には人も、船も、時には家すらも波の底へ引きずり込んだ。嵐が過ぎ去った浜に、折れた櫂が一本、打ち上げられている。その持ち主がどこへ消えたのか、岸に立ち尽くす者に知る術はなかった。


病は、閉ざした家の中にまで忍び込んだ。昨日まで庭を駆けまわっていた子が熱に浮かされた。額に手を当て、乾いた唇に水を含ませ、夜通し抱きしめていても、子は数日のうちに事切れた。腕の中の身体は少しずつ冷えていく。命が生まれることも、育つことも、老いた者がなお生き永らえることも、人の願いだけで決まりはしなかった。


説明のつかないものの向こう側には、必ず何者かがいる――人間はそう思わずにいられなかった。恵みを与え、同時に命を奪う何か。人はそれを恐れながら、縋るほかなかった。


食べ物を与えてください。雨を降らせてください。雨を止めてください。子を守ってください。病を治してください。獣を遠ざけてください。明日もまた、太陽を昇らせてください。


人間は祈り続け、名もなかった力に名を与え、その姿を思い描いた。火に、風に、山に、海に――それぞれの神が生まれ落ちた。


その神々は、人間の想像の中だけに留まりはしなかった。


名と姿を与えられた神は、やがてこの世界に実在するものとなった。岩の前に供えられた食べ物へ、岩陰からすっと手が伸びる。そこにいたのは、人間が語り継いできた、まさにその姿をしたものだった。


人間は、神々についての物語も紡いだ。ある神とある神が結ばれ、そのあいだに子が生まれたと語った。その物語の中では、争う神もいれば、力を貸し合う神もいた。語られた物語もまた形を持ち、神々のあいだに親子の関係が生まれ、争いもこの世界で実際に起こるようになっていく。神々の系譜もまた、人間が生み出したものだった。


神は恵みを授けるばかりでなく、災いによって人間を戒めるとも語られた。そのように語られた神は、やがて人間を罰する力を、確かに手にした。


長い時が過ぎるあいだに、人間の暮らしも姿を変えていった。


火は、すでに人の手にあった。食べ物を焼き、寒さをしのぐための炎に、新たな使い道が加わっていく。土を練り、焼いて器を作り、食べ物を蓄えるようになった。住まいを整え、そこで暮らす家族の無事を願ううちに、家にも、かまどにも、神が宿るようになった。


暮らしの変わり方は、土地ごとに違っていた。ある土地では地を耕し、種を蒔き、水を引いた。別の土地では獣を飼い、その乳や肉を得た。人々は季節の移ろいを読み、作物や獣の世話を覚えていったが、収穫の乏しい年もあれば、飼っていた獣が病に倒れることもある。田畑の実りを守る神、家畜の無事を守る神が、それぞれの暮らしの中に生まれていった。


さらに時代が下ると、金属を熱して打ち、道具を作る者が現れた。作った品を遠い土地へ運び、売り歩く者も増えていった。物を作る技にも、人と物の往来にも、それを守る神がいた。星の位置を頼りに海を渡る者は、方角を確かめながら、航海の無事をひたすらに神へ祈った。


自然の中に生まれた神々に加え、人間の営みそのものから生まれる神々がいた。子が生まれるときにも、働くときにも、旅立つときにも、死の床にあってさえ、人々は神の名を呼び続けた。


だが、人間は知ることをやめなかった。


長い年月をかけて、人は病の多くが人から人へと伝わることを知り、その広がりを防ぐ術を探り当てていった。神の怒りとされてきた雷もまた、その仕組みを探るために観察されるようになった。かつて「誰があの火を天に掲げているのか」と問われた太陽にも、満ち欠けする月にも、人間への褒美や罰とは別の、確かな理があることが、少しずつ明らかになっていく。その理を突き止めようとする者は、増え続けた。


新しい技を覚えることは、かつて、新しい神の居場所を作った。けれど今度は違う。神に尋ねていたことを自分たちの手で調べ、神の意志によると考えていた出来事にも、人間が解き明かせる仕組みを見いだすようになった。神の怒りを鎮めるほかになかった災いにさえ、備える道が開けていった。


それでも、祭りが絶えたわけではなかった。人々はなお供え物を並べ、神の名を呼び、子の無事や実りを願い続けた。


その一方で、神を信じ、祈っている者でさえ、いつしか神がそこにいることに気づかなくなっていった。なぜそうなったのか、そのわけは誰にも分からない。社の前で深々と頭を垂れても、すぐそばに立つ神には気づかない。神の声を聞いても、それをただの風の音だと思い込み、神がすぐ傍らを通り過ぎても、わずかに空気が冷えたとしか感じなかった。


さらに長い年月が過ぎた。


人間は増え、町は広がっていった。森を切り開き、山を削り、川の流れを変えた。家々の灯は夜更けまでともり、かつて神のものだった場所にまで、人間の暮らしが入り込んでいった。


古い祠が倒れても、建て直す者のいない土地があった。社の屋根から雨が漏り、床板が朽ちて崩れた。供え物を置いていた石には枯れ葉が幾重にも重なり、参道には丈高い草が伸びた。季節がいくつ巡っても、その草を踏み分けてやってくる者は、もういなかった。


その神の由来を詳しく知る最後の老人が死んだ。幼いころにその話を聞いた者たちも、いつしか年老いていく。名だけは覚えていても、それが何を守り、何に怒る神だったのかまでは、もう思い出せない。子や孫に伝わったのは、話の切れ端と、理由の分からない言いつけだけだった。


なぜそこに石が置かれているのか。なぜあの木だけは切ってはならないのか。なぜその夜だけ戸を開けてはならないのか。かつてはその土地の誰もが知っていたはずのことを、やがて誰も知らなくなっていった。


木は伐られ、石は道の脇へ無造作に退けられた。戸を固く閉ざして過ごしていた夜にも、人々はいつもと変わらず行き来するようになった。それを咎める人間も、もうどこにもいなかった。


そうして、名を呼ばれなくなった神々がいた。何を司る神であったのか、人間の誰にも知られなくなった神々がいた。


それでも、神々は消えなかった。


なぜ、生み出した者たちに忘れられてなお、この世に留まり続けているのか。そのわけは、誰にも分からない。祠が倒れた場所にも、社が朽ち果てた場所にも、神々は確かにいた。


かつて社のあった場所を、いま道が横切っている。朝になれば、仕事へ向かう者や、幼い子の手を引く者が、足早に通り過ぎていく。立ち止まり、頭を下げる者はもういない。その道の脇にひっそりと立つ神は、通り過ぎていくいくつもの顔を、ただ黙って見つめていた。


山の奥でも、川底の暗がりでも、人の家の物陰でも、忘れられた神々は、自分たちを生み出した者たちのことを思い続けていた。


人間は彼らを忘れた。だが、彼らは、人間を忘れなかった。


かつて彼らは、人を愛していたという。自分たちを恐れた者たちを。自分たちに祈った者たちを。食べ物を捧げ、歌い、踊り、季節が巡るごとに名を呼んでくれた者たちを。そして何より――自分たちをこの世界に生み出した、その者たちを。


自分たちを生み出し、頼り、やがて名さえ忘れていった人間を、彼らは今もなお、愛しているのだろうか。


忘れ去られたあとまでも。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。