二十二幕 兄貴
宗吉は、しばらく何も言わなかった。
家のことも、金の使い道も、始めようとしている仕事のことも聞いた。
それでも、どうしても割り切れないことがある。
幼い頃から、何かあったときのために貯めてきた金。
この町へ来て仕事がなくなっても、最後まで手をつけまいとしていた金。
宗吉は肩を落とした。
「……俺の金が」
弥一が見る。
「まだ言ってるんです?」
「言うだろ。全部使いやがって」
「なくなったわけじゃないでしょう」
「俺の手元からはなくなったんだよ!」
「だから、家と札になったんでさ」
宗吉はますますしょんぼりした。
弥一は少し困ったように笑った。
「まあ、どのみち仕事が見つからなかったら、いつかは尽きる金だったでしょう」
宗吉が顔を上げた。
「慰め方ってもんを知らねえのか、お前は」
「慰めてるんじゃないですよ」
弥一は机を軽く叩いた。
「それに兄貴、貯めるの好きでしょう」
「好きっていうか、大事なんだよ」
「やりくりも得意だ」
「それはそうだけど」
「だったら商売してりゃ、またすぐ貯まりますよ」
宗吉は弥一を睨んだ。
「そんな簡単に言うなよ」
「兄貴ならできますって」
妙なところで自信満々だった。
宗吉は溜息をついた。
腹立たしい。
勝手すぎる。
人の金まで使っておいて、これからまた貯めればいいと言う。
普通なら、その場で殴って帰ってもおかしくない。
もっとも、宗吉が殴ったところで、弥一にはほとんど効かないだろうが。
ただ金を使い込まれていたのなら、思いきり怒れた。
ところが、使われた金は自分たちの家と、これからの稼ぎ口になっている。
それが余計に腹立たしかった。
宗吉は腕を組んだ。
「とにかく」
弥一を見る。
「これからは相談しろ」
「はい?」
「金を使うときだよ」
「ものによりますかね」
宗吉の眉が跳ね上がった。
「何でだよ!」
「兄貴、すぐ反対するんで」
「当たり前だ! 相談っていうのは、反対されることも含めて相談なんだよ!」
弥一は笑った。
「でも今回、先に相談してたら絶対駄目って言ったでしょう」
「言ったよ!」
「ほら」
「ほらじゃねえ!」
みちが横で口元を押さえた。
嘉助はもう慣れた顔で二人を見ている。
宗吉は弥一へ指を突きつけた。
「絶対に相談しろ!」
「善処します」
「絶対だ!」
「分かりましたって」
「本当に分かってんのか?」
弥一は曖昧に笑う。
宗吉はさらに睨んだ。
それから、ふと思った。
腹を立てた勢いのまま、言葉が出た。
「お前の――」
一度、詰まる。
弥一が首を傾げた。
「何です?」
宗吉は少し顔を背けた。
「俺、お前の兄貴なんだろ」
弥一の顔が変わった。
ほんの一瞬だった。
目が少し見開かれる。
それから、明らかに嬉しそうな顔になった。
宗吉はすぐに気づいた。
「何だよ、その顔」
「別に」
「嬉しそうにすんな」
「してませんよ」
「してるだろ」
弥一は口元を隠しもしなかった。
「兄貴が自分から言うの、初めてじゃないですか」
宗吉はしまったと思った。
「そういう意味じゃねえよ!」
「俺の兄貴なんでしょう?」
「そこだけ拾うな!」
「いやあ」
「にやにやすんな!」
「あらあら」
みちの声がした。
宗吉が振り返る。
みちは微笑ましそうに二人を見ていた。
「何ですか、その顔」
「別に」
「おみちさんまで!」
「仲がいいのねえと思って」
「今まで騙されてたんですよ、俺!」
「でも手当てしてあげたんでしょう?」
宗吉が詰まった。
弥一が笑う。
「兄貴、優しいんでさ」
「お前は黙ってろ!」
みちは楽しそうに笑った。
それから立ち上がった。
嘉助もそれに続く。
「まあ、喧嘩は好きなだけすればいいけど」
みちは着物の裾を整えた。
「仕事のほうはちゃんとしてもらうからね」
宗吉が顔を上げた。
「本当に始めるのか」
「そのためにここまでしたんでしょう」
「俺、昨日まで知らなかったんだけど」
「今日から知ってるじゃない」
あっさり言われた。
みちは戸口へ向かいながら続ける。
「客はこっちでも探すから、回した頼みはちゃんと受けてね」
宗吉は嫌な予感がした。
「ちょっと待って。ちゃんとって、どこまで――」
「仕事の依頼が来たら、何でも受けなさいよ!」
「何でも?」
「最初から選り好みできるほど客が来ると思ってるの?」
「いや、でも危ないやつとか」
「昨日倒したじゃない」
「俺が倒したんじゃねえ!」
「じゃあ弥一さんがいるでしょう」
弥一が横から、
「任せてください」
と言った。
宗吉は振り返った。
「お前、昨日ぎりぎりだっただろ!」
「でも勝ちましたよ」
「札でな!」
「次も考えますって」
「だから行き当たりばったりなんだよ!」
みちはまた笑った。
嘉助が静かに声をかける。
「お嬢様、そろそろ」
「あ、そうね」
みちは頷いた。
「じゃあ私たちは戻るから」
宗吉はまだ納得していない顔をしていた。
みちはそんな宗吉へ言う。
「ちゃんと稼いでね」
「いきなりだなあ」
「一割」
みちは指を一本立てた。
「忘れないでよ」
「はいはい」
「返事が軽い!」
「忘れねえって」
嘉助が戸を開けた。
「それでは」
「ああ。嘉助さんも、いろいろありがとう」
宗吉が言うと、嘉助は軽く頭を下げた。
「足りないものがあれば、お知らせください」
みちは宗吉と弥一へ振り返った。
「必要なものが出たら、今度は先に私に相談してね」
宗吉は弥一を見る。
「ほら。相談って大事だろ」
「お嬢さんも反対するからでしょう」
「そこじゃねえよ!」
弥一は、にやりと笑った。
宗吉は目を細める。
「お前、困ったときににやにやする癖があるのな」
「そうですか?」
「今もそうだろ」
「困ってませんよ」
「なら笑うな」
弥一は答えず、まだ笑っていた。
みちと嘉助は帰っていった。
戸が閉まる。
急に静かになった。
残ったのは、宗吉と弥一だけだった。
ついさっきまで四人の声が飛び交っていた部屋には、まだ一人の客も来ていない。
帳面にも、何も書かれていなかった。
弥一が隣に立つ。
「これから、二人で頑張りましょうや」
宗吉は横目で見た。
「勝手に決めやがって」
「嫌です?」
宗吉はすぐには答えなかった。
金を勝手に使われた。
仕事も、家も、知らないところで話を進められていた。
今だって、すべてを許したわけではない。
それでも、新しい仕事が始まろうとしている。
誰が訪ねてくるのか。
何を頼まれるのか。
どんな妖に会うことになるのか。
何一つ分からない。
この町へ来たときも、そうだった。
知らない土地で、何が待っているのか分からなかった。
それでも、不安より先に胸が弾んだ。
あのときと少し似ている。
宗吉は口元が緩みそうになるのを堪えた。
「何笑ってるんです?」
弥一が言った。
「笑ってねえよ」
「笑ってますよ」
「うるせえ」
宗吉は新しい帳面を一冊手に取った。
真っ白な頁を開く。
腹立たしさは、まだ残っている。
けれど、それ以上に。
宗吉は、これから始まるものに胸を躍らせていた。




