↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
PR
43/57

二十幕 戸を叩く音

怪人の姿が完全に消えてからも、弥一はしばらくその場を動かなかった。


怪人の胸に貼りついていた札も、黒い身体とともに端から崩れ、地面へ落ちる前に細かな粉となって消えた。


あとには何も残っていない。


弥一は肩で息をしていた。


大きな胸が、荒く上下している。


いつもなら、重い荷を担いでも平然としている男だった。


宗吉を肩に担いであれだけ歩いたときでさえ、息を乱した様子はなかった。


その弥一が今は、両膝へ手をつき、俯いて息を整えている。


「……弥一」


宗吉が呼んだ。


返事はなかった。


「おい」


もう一度呼ぶ。


ようやく弥一が顔を上げた。


「何です?」


「何です、じゃねえよ」


宗吉は近づいた。


さっきまで怒鳴り合っていた相手だった。


自分の金を勝手に使い、嘘をつき、挙げ句の果てに口へ手拭いを噛ませ、ここまで担いできた男である。


それでも今、宗吉が最初に見たのは弥一の傷だった。


肩の着物が裂けている。


二の腕には細い傷がある。


脇腹の辺りも破れていた。


「怪我」


「大したことないですよ」


「見せろ」


「平気ですって」


「さっきからそればっかりだな、お前」


宗吉は弥一の腕を取った。


弥一は抵抗しなかった。


暗くて、傷の深さまでは分からない。


ただ、血が大量に流れている様子はなかった。


宗吉は少しだけ息をついた。


「深く刺さってはいねえんだな」


「避けましたから」


「見てたよ」


「なら分かるでしょう」


「掠ったところがあるだろ」


弥一は答えず、また大きく息を吐いた。


宗吉は怪人の消えた場所を見た。


黒い身体も、あの札も、跡形なく消えている。


聞きたいことはいくらでもあった。


あの札は何だったのか。


どこで手に入れた。


なぜ持っていた。


怪人が自分を狙っていたのはなぜなのか。


そして、この建物は何なのか。


二人の蓄えと、自分の金を何に使ったのか。


何一つ片づいていなかった。


けれど、宗吉も疲れていた。


怒り続けるにも体力がいるらしい。


「とりあえず」


弥一が言った。


まだ息が整いきっていない。


「中に入りましょう」


宗吉は建物を見る。


「家に?」


「まあ、今はそういうことで」


「何だよ、それ」


「外にいるよりいいでしょう」


それはそうだった。


宗吉は辺りを見回した。


もう怪人はいない。


それでも、暗い道に立ち続けている気にはなれなかった。


「……おう」


二人は建物へ戻った。


弥一が戸を閉め、内側からしっかりと掛け金を下ろした。


中には、先ほどつけた灯が残っていた。


宗吉は炊事場へ目をやった。


水甕が置かれている。


その近くの棚を、弥一が開けた。


宗吉は眉を寄せた。


「……何だ、それ」


中には、清潔な晒が畳んであった。


傷を拭うための布もある。


ほかにも、手当てに使えそうなものがいくつか置かれていた。


「ご丁寧に包帯まであるじゃねえか」


「あると便利でしょう」


「何であるんだよ」


「必要になるかもしれないから」


宗吉は弥一を見た。


「何が始まるつもりだったんだ、ここで」


弥一は笑った。


「まあまあ」


「まあまあじゃねえ」


宗吉は腹が立ちかけた。


だが、弥一の裂けた着物が目に入った。


「先に座れ」


「はい?」


「手当てする」


「大丈夫ですよ」


「座れ」


宗吉が睨む。


弥一は素直に座った。


「兄貴、怒ってると怖いですね」


「誰のせいだと思ってんだ」


「俺ですね」


「分かってるなら黙ってろ」


宗吉は水甕から水を汲み、布を濡らした。


弥一の肩の着物をずらす。


肩の皮膚には傷がなかった。


裂けた着物が擦れた跡が、わずかに赤く残っているだけだった。


「肩は何ともねえな」


「言ったでしょう」


「腕を見せろ」


二の腕には、怪人の尖った腕が掠めた細い傷があった。


薄く皮膚が裂け、血が滲んでいる。


脇腹にも傷はなかった。


宗吉は濡らした布で、二の腕の傷についた土を拭った。


弥一はじっとしている。


「痛いか」


「少し」


「じゃあ痛いんじゃねえか」


「兄貴が心配するほどじゃないって意味ですよ」


宗吉の手が一瞬止まった。


「……別に心配なんか」


言いかけた。


やめた。


心配していた。


怪人の腕が弥一へ迫るたび、心臓が縮むような思いをした。


それを今さら否定するのも妙だった。


宗吉は黙って傷へ晒を当て、二の腕へ巻いた。


少しきつく締める。


「いて」


「我慢しろ」


「わざとでしょう」


「知らねえ」


弥一が笑った。


宗吉は笑わなかった。


けれど、さっきまでの怒りだけで胸がいっぱいというわけでもなくなっていた。


手当てを終える。


「ほら」


弥一が腕を動かした。


「ちゃんとしてる」


「当たり前だ」


「さすが兄貴」


「兄貴って言うな」


いつものやり取りだった。


それが妙だった。


つい少し前、自分はこの男を信じたことを後悔していた。


もう一緒に暮らさなければよかったとまで思った。


それなのに、今こうして傷の手当てをしている。


宗吉には、自分の気持ちがよく分からなかった。


弥一が宗吉の足元を見た。


「兄貴も怪我してるでしょう」


「これくらい何でもねえよ」


「見せてください」


「自分でやる」


宗吉は水を新しく汲み直した。


足の裏は土で汚れていた。


細かな石が擦れたところから、わずかに血が滲んでいる。


宗吉は足を洗い、傷に入り込んだ砂を落とした。


深い傷はない。


痛みの強いところへ布を当て、細く裂いた晒を巻いた。


そのあいだ、弥一は黙って見ていた。


「本当に大丈夫です?」


「お前よりはな」


「歩けます?」


「歩けるよ」


「ならいいですけど」


宗吉は手当ての道具を棚へ戻した。


身体のあちこちが痛かった。


担がれて暴れた。


地面へ転がされた。


怪人から逃げた。


何度も肝を冷やした。


そして、その前には弥一と大喧嘩までしている。


一日分とは思えなかった。


弥一が壁にもたれた。


「疲れましたね」


宗吉は呆れて弥一を見る。


「お前が言うのか」


「疲れたものは疲れたんでさ」


「本当に疲れたな」


宗吉もその場へ座り込んだ。


しばらく二人とも黙っていた。


建物の中は静かだった。


新しい木の匂いがする。


宗吉は文机を見た。


帳面を置くためらしい棚を見る。


何のために作られた場所なのか。


やはり分からない。


ただ、怪しい品を隠すための場所でないことだけは分かっている。


「弥一」


「はい」


「ここ、結局何なんだ」


弥一は少し目を閉じた。


「明日でいいでしょう」


「お前な」


「もう眠いんですよ」


「俺は聞きたいことだらけなんだけど」


「俺は答えることだらけです」


「だったら答えろ」


「明日」


宗吉は睨んだ。


弥一は目を開け、少し笑った。


「とりあえず寝ますか」


宗吉はまだ問い詰めたかった。


だが、弥一の顔には、隠しようのない疲労が浮かんでいる。


息は落ち着いたものの、瞼が重そうだった。


宗吉自身も、身体を起こしているのがつらくなっていた。


今ここで問い詰めても、まともに話ができるとは思えない。


「明日、全部話せよ」


「はいはい」


「ごまかすなよ」


「分かってます」


「あと、金のこともだぞ」


「それも」


宗吉は奥を見る。


寝具まであった。


二人ぶん。


「……ここで寝ていいのか」


「いいんですよ」


「誰の家なんだよ」


「俺たちのですよ」


宗吉は弥一を見る。


「は?」


「続きは明日です」


弥一はそれ以上説明しなかった。


宗吉はまた問い詰めようとした。


しかし、欠伸が出た。


それが悔しかった。


「絶対に話せよ」


「分かってますって」


結局、二人はその小さな建物で眠った。


新しい木の匂いがする、何のために用意されたのかも分からない場所で。


宗吉は眠りに落ちる直前まで、


明日は絶対に全部聞く、


と思っていた。


朝になった。


宗吉は、戸を叩く音で目を覚ました。


最初は何の音か分からなかった。


見慣れない天井がある。


一瞬、自分がどこにいるのかさえ分からない。


もう一度。


とん、とん、とん。


戸が叩かれた。


「ごめんください」


女の声だった。


宗吉は身体を起こした。


「……誰だ?」


隣では弥一も目を覚ましている。


しかし、驚いた様子はなかった。


むしろ、


「ああ」


とだけ言った。


宗吉はそれを見逃さなかった。


「お前、誰か来るの知ってたな」


「まあ」


「まあ?」


「開ければ分かりますよ」


宗吉は立ち上がった。


「お前が開けろよ」


「腕が痛いんで」


「戸くらい開けられるだろ!」


外から、また声がした。


「ごめんください。いるんでしょう?」


今度は宗吉にも分かった。


聞き覚えがある。


「……おみちさん?」


戸へ近づく。


掛け金を外し、戸を開けた。


朝の光が入ってきた。


そこに、みちが立っていた。


隣には嘉助もいる。


宗吉は目を見開いた。


「おみちさん」


みちも宗吉を見た。


そして、みちのほうも驚いた。


「あれ」


宗吉は何も言えない。


嘉助も宗吉を見ている。


みちは建物の中を覗いた。


奥には弥一がいる。


包帯を巻いた腕をかばいながら、平然と座っている。


みちの顔に、すぐ笑みが浮かんだ。


「あれ、宗吉さん!」


「何が?」


「もういるじゃない」


宗吉は眉を寄せた。


みちは弥一を見る。


「弥一さん、宗吉さんにばれちゃったんだ?」


宗吉はゆっくり振り返った。


弥一は気まずそうにも見えなかった。


嘉助は軽く息を吐いた。


みちは楽しそうに笑っている。


宗吉だけが何も知らない。


「……どういうことだ?」


誰に向けたとも分からない声が、建物の中に響いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。