十九幕 札
怪人が腕を引き抜いた。
土に深い穴が残った。
弥一はすぐに立ち上がった。
肩の着物は裂けていたが、その下の肌に傷はない。
怪人は弥一には目もくれず、平らな顔を宗吉へ向けたままだった。
「弥一!」
宗吉が叫んだ。
「大丈夫です!」
怪人が宗吉へ向かって動いた。
一本の脚が、がくりと折れる。
一歩で大きく距離を詰めた。
弥一は地面へ手を伸ばした。
先ほど捨てた棒を拾い直し、宗吉の前へ立つ。
怪人の腕が伸びた。
その先には宗吉がいる。
弥一が棒を両手で構え、尖った腕を横から打った。
ばきっ、と音がした。
棒が真ん中から折れた。
怪人の腕はわずかに逸れ、宗吉の脇を通り過ぎた。
「そんなのでどうすんだよ!」
宗吉は地面から起き上がりながら叫んだ。
足の裏へ小石が食い込む。
痛みに顔をしかめながら、後ろへ下がった。
「兄貴は離れててください!」
「お前はどうするんだよ!」
弥一は折れた片方を捨て、残った短い棒を握った。
怪人はまた宗吉へ踏み出した。
弥一がその前へ割り込む。
腕が横から薙ぎ払われた。
弥一は身体を沈めてかわし、そのまま怪人の懐へ入り込んだ。
短い棒を胴へ叩きつける。
鈍い音がした。
怪人の身体がわずかに傾いた。
それだけだった。
痛がる様子はない。
弥一を見ようともしない。
目も鼻もない顔は、弥一の肩越しに宗吉へ向けられている。
怪人は弥一を狙っているのではなかった。
邪魔をする弥一を押しのけ、宗吉のところへ来ようとしている。
宗吉にも、それが分かった。
怪人が長い脚を振り上げた。
弥一は後ろへ跳んだ。
足先が腹の前を掠める。
あと少し遅ければ、まともに食らっていた。
弥一は二歩、三歩と後退した。
怪人は宗吉へ向かって進む。
がくり。
一歩。
がくり。
また一歩。
異様に長い歩幅が、たちまち距離を食いつぶしていく。
弥一は再び怪人と宗吉の間へ入った。
宗吉は立ったまま、その様子を見ていた。
何かしなければならない。
そう思う。
だが、何をすればいいのか分からない。
辺りには石も、折れた棒もある。
拾って投げることくらいならできる。
しかし、あんなものに石をぶつけて何になる。
弥一が棒を叩きつけても、ほとんど効いていない。
裸足で近づけば、避けることさえ満足にできない。
かえって弥一の邪魔になるかもしれなかった。
それでも、黙って見ているだけなのは耐えられなかった。
「弥一!」
宗吉は叫んだ。
「こっちへ来い!」
「兄貴は下がっててください!」
「逃げるぞ!」
「逃げても、兄貴を追ってきます!」
怪人の腕が宗吉へ伸びた。
弥一が横から棒を叩きつける。
黒い腕が逸れ、地面を穿った。
その隙に、弥一は怪人の側面へ回り込んだ。
折れた棒を長い脚へ打ち込む。
怪人の身体がぐらりと揺れた。
宗吉は効いたと思った。
だが、怪人は倒れなかった。
脚が妙な方向へ曲がる。
折れたように見えた関節が、ひっくり返るように向きを変えた。
怪人はそのまま身体を捻り、宗吉のほうへ踏み出した。
弥一が追いすがる。
怪人の腕が振られた。
弥一は棒で受けようとした。
短くなった棒が手から弾かれ、地面へ落ちた。
弥一は素手になった。
宗吉の胸が詰まった。
勝てない。
どう見ても勝てない。
弥一は強い。
宗吉などとは比べものにならないほど強い。
けれど、相手は人ではなかった。
殴れば倒れる。
蹴れば怯む。
押さえれば動きを止められる。
そういう身体ではない。
長い腕には手さえなかった。
細く尖った先端そのものが凶器だった。
宗吉のいた地面を、簡単に穿った。
人の腹や胸に刺されば、どうなるか考えるまでもない。
怪人が宗吉へ腕を突き出した。
弥一がその前へ身体を入れる。
紙一重で避けた。
反対側から、もう一本の腕が来る。
弥一が身体を捻る。
今度は袖が裂けた。
二の腕に細い傷が走り、血が滲んだ。
「弥一!」
「平気です!」
「平気じゃねえよ!」
宗吉の手に汗が滲んでいた。
一撃ごとに、身体の内側をつかまれるようだった。
ついさっきまで、宗吉は弥一を信用できないと思っていた。
金は消えたままだ。
嘘も、説明されないまま残っている。
それを許したわけではない。
それでも。
怪人の腕が弥一へ迫るたび、腹の底が冷えた。
「右!」
宗吉が叫ぶ。
弥一が動く。
腕が空を切る。
「後ろ!」
弥一が身体を伏せる。
もう一本の腕が背中の上を通った。
――俺を騙してたやつなのに。
死んでほしいとは、少しも思わなかった。
それどころか、傷が一つ増えるだけで胸が締めつけられた。
「くそ……」
宗吉は拳を握った。
怪人がまた宗吉へ近づく。
弥一は息を切らしていた。
最初の頃ほど余裕がない。
呼吸が荒い。
足の動きも鈍っている。
怪人は変わらない。
疲れるということがないらしい。
同じ速さで迫ってくる。
同じ力で腕を振るう。
弥一は一歩後ろへ下がった。
怪人が宗吉へ向かって踏み込む。
弥一が進路を塞いだ。
一本の腕が胸へ伸びる。
弥一は身体を横へ投げて避けた。
だが、もう一方の腕が、逃げる先へ回り込んでいた。
「弥一!」
弥一が無理に身体を捻る。
腕の先が脇腹を掠めた。
着物が裂ける。
弥一は地面へ転がった。
宗吉は駆け出しかけた。
足の裏に痛みが走る。
「来ないで!」
弥一が怒鳴った。
宗吉の足が止まる。
「でも!」
「来たら余計に面倒なんでさ!」
弥一は地面へ手をつき、立ち上がった。
怪人は弥一の横を抜け、宗吉へ近づこうとしている。
弥一が再び前へ立ち塞がった。
開け放した戸から漏れる灯と、薄い月明かりが二つの身体を照らしている。
弥一は深く息を吸った。
その目が一瞬だけ、自分の懐へ落ちた。
何かを確かめるように。
怪人が腕を突き出す。
弥一は後ろへ跳んだ。
また懐へ手をやる。
宗吉は眉を寄せた。
「何だ?」
弥一は答えない。
怪人の腕を避ける。
足を避ける。
かわすばかりだった。
もう反撃する道具もない。
「ああ、もう!」
弥一が突然、声を上げた。
腹を決めたような声だった。
「やっぱり、こいつを使うしかないか」
宗吉は聞き返した。
「何を!」
弥一が懐へ手を突っ込んだ。
何かを引き出す。
紙だった。
細長い札。
離れた灯と月明かりだけでは、何が書かれているのか宗吉には読めない。
墨で何かが記されている。
折り目もほとんどない。
ずいぶん丁寧に持っていたものらしい。
宗吉の頭に、ほんの一瞬だけ疑問が浮かんだ。
なぜ、そんなものを持っている。
いつから。
どこで手に入れた。
だが、聞く暇はなかった。
怪人が宗吉へ向かって踏み込んだ。
今まで以上に深く。
長い身体が、弥一の向こうから宗吉へ覆いかぶさろうとする。
二本の尖った腕が開いた。
左右から弥一を押しのけようとする。
「弥一!」
宗吉が叫んだ。
弥一は逃げなかった。
怪人へ向かって走った。
「何してんだ!」
一歩。
二歩。
距離がなくなる。
怪人の腕が動く。
弥一は片方を身体すれすれでかわした。
もう一方が肩へ向かう。
弥一はその腕の内側へ潜り込んだ。
怪人の胸が目の前に来る。
弥一の右手には札があった。
「これでどうだ!」
札を怪人の胸へ押しつけた。
ぺたり。
あまりにも軽い音だった。
宗吉は目を見開いた。
何も起きない。
そう思った。
ほんの一瞬だけだった。
怪人の動きが止まった。
尖った腕が、弥一の首筋から指一本ほどのところで止まっている。
長い脚も止まった。
弥一も動かない。
札だけが、怪人の胸へ貼りついていた。
次の瞬間。
怪人の身体が震えた。
びくり、と一度。
それから、もう一度。
長い胴が波打つ。
宗吉は後ずさった。
「……何だ?」
札を貼られた胸が、内側へへこんでいた。
黒い身体の表面が、そこへ吸い込まれていく。
へこんだ胸を中心に、怪人の形が崩れ始めた。
溶けているように見えた。
黒い表面が柔らかくなり、どろりと下へ垂れる。
けれど、液体になっているわけではない。
垂れたものは地面へ届く前に細かく崩れ、黒い粉のようになって消えていった。
怪人が身体を反らした。
声は出なかった。
顔の下のほうには口だけがある。
それなのに、悲鳴一つ上げなかった。
平らな顔が上を向く。
頬に当たる場所が沈む。
額が崩れる。
輪郭がなくなっていく。
長い腕が途中から折れ曲がった。
骨が折れるような音はしなかった。
力を失った紐のように垂れ、細くなり、そのまま黒い塊へ変わっていく。
もう一方の腕も同じだった。
弥一が怪人から離れた。
宗吉のほうへ数歩下がる。
「弥一!」
「近づかないで!」
宗吉は止まった。
怪人の崩壊は止まらなかった。
胸から腹へ。
肩から腕へ。
身体の形を保っていたものが、次々と失われていく。
長い脚が一本、膝の辺りから崩れた。
地面へ倒れる前に、黒い粉となって消えた。
もう一本も沈む。
怪人の背が急に低くなった。
胴と首が崩れ残り、その上にある平らな顔だけが、しばらく宙へ浮いているように見えた。
宗吉は息をするのも忘れて見ていた。
やがて、顔にも縦に亀裂のようなものが走った。
左右へ割れる。
内側には、血も肉も骨もなかった。
黒い塊が詰まっているだけだった。
それも、すぐに細かな粉となって消えた。
最後に残ったのは、胸に貼りついていた札だった。
支える身体がなくなり、ひらりと地面へ落ちる。
墨で書かれていたものは、見る間に薄れていった。
札が土へ着いたときには、何も書かれていない白い紙になっていた。
その頃には。
怪人はもう、どこにもいなかった。
黒い染みさえ残っていない。
宗吉は動けなかった。
さっきまで確かにそこにいて、人を食ったことがあるという妖が。
まるで初めから何もいなかったように消えていた。
夜の道には、宗吉と弥一だけが残されていた。




