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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
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十九幕 札

怪人が腕を引き抜いた。


土に深い穴が残った。


弥一はすぐに立ち上がった。


肩の着物は裂けていたが、その下の肌に傷はない。


怪人は弥一には目もくれず、平らな顔を宗吉へ向けたままだった。


「弥一!」


宗吉が叫んだ。


「大丈夫です!」


怪人が宗吉へ向かって動いた。


一本の脚が、がくりと折れる。


一歩で大きく距離を詰めた。


弥一は地面へ手を伸ばした。


先ほど捨てた棒を拾い直し、宗吉の前へ立つ。


怪人の腕が伸びた。


その先には宗吉がいる。


弥一が棒を両手で構え、尖った腕を横から打った。


ばきっ、と音がした。


棒が真ん中から折れた。


怪人の腕はわずかに逸れ、宗吉の脇を通り過ぎた。


「そんなのでどうすんだよ!」


宗吉は地面から起き上がりながら叫んだ。


足の裏へ小石が食い込む。


痛みに顔をしかめながら、後ろへ下がった。


「兄貴は離れててください!」


「お前はどうするんだよ!」


弥一は折れた片方を捨て、残った短い棒を握った。


怪人はまた宗吉へ踏み出した。


弥一がその前へ割り込む。


腕が横から薙ぎ払われた。


弥一は身体を沈めてかわし、そのまま怪人の懐へ入り込んだ。


短い棒を胴へ叩きつける。


鈍い音がした。


怪人の身体がわずかに傾いた。


それだけだった。


痛がる様子はない。


弥一を見ようともしない。


目も鼻もない顔は、弥一の肩越しに宗吉へ向けられている。


怪人は弥一を狙っているのではなかった。


邪魔をする弥一を押しのけ、宗吉のところへ来ようとしている。


宗吉にも、それが分かった。


怪人が長い脚を振り上げた。


弥一は後ろへ跳んだ。


足先が腹の前を掠める。


あと少し遅ければ、まともに食らっていた。


弥一は二歩、三歩と後退した。


怪人は宗吉へ向かって進む。


がくり。


一歩。


がくり。


また一歩。


異様に長い歩幅が、たちまち距離を食いつぶしていく。


弥一は再び怪人と宗吉の間へ入った。


宗吉は立ったまま、その様子を見ていた。


何かしなければならない。


そう思う。


だが、何をすればいいのか分からない。


辺りには石も、折れた棒もある。


拾って投げることくらいならできる。


しかし、あんなものに石をぶつけて何になる。


弥一が棒を叩きつけても、ほとんど効いていない。


裸足で近づけば、避けることさえ満足にできない。


かえって弥一の邪魔になるかもしれなかった。


それでも、黙って見ているだけなのは耐えられなかった。


「弥一!」


宗吉は叫んだ。


「こっちへ来い!」


「兄貴は下がっててください!」


「逃げるぞ!」


「逃げても、兄貴を追ってきます!」


怪人の腕が宗吉へ伸びた。


弥一が横から棒を叩きつける。


黒い腕が逸れ、地面を穿った。


その隙に、弥一は怪人の側面へ回り込んだ。


折れた棒を長い脚へ打ち込む。


怪人の身体がぐらりと揺れた。


宗吉は効いたと思った。


だが、怪人は倒れなかった。


脚が妙な方向へ曲がる。


折れたように見えた関節が、ひっくり返るように向きを変えた。


怪人はそのまま身体を捻り、宗吉のほうへ踏み出した。


弥一が追いすがる。


怪人の腕が振られた。


弥一は棒で受けようとした。


短くなった棒が手から弾かれ、地面へ落ちた。


弥一は素手になった。


宗吉の胸が詰まった。


勝てない。


どう見ても勝てない。


弥一は強い。


宗吉などとは比べものにならないほど強い。


けれど、相手は人ではなかった。


殴れば倒れる。


蹴れば怯む。


押さえれば動きを止められる。


そういう身体ではない。


長い腕には手さえなかった。


細く尖った先端そのものが凶器だった。


宗吉のいた地面を、簡単に穿った。


人の腹や胸に刺されば、どうなるか考えるまでもない。


怪人が宗吉へ腕を突き出した。


弥一がその前へ身体を入れる。


紙一重で避けた。


反対側から、もう一本の腕が来る。


弥一が身体を捻る。


今度は袖が裂けた。


二の腕に細い傷が走り、血が滲んだ。


「弥一!」


「平気です!」


「平気じゃねえよ!」


宗吉の手に汗が滲んでいた。


一撃ごとに、身体の内側をつかまれるようだった。


ついさっきまで、宗吉は弥一を信用できないと思っていた。


金は消えたままだ。


嘘も、説明されないまま残っている。


それを許したわけではない。


それでも。


怪人の腕が弥一へ迫るたび、腹の底が冷えた。


「右!」


宗吉が叫ぶ。


弥一が動く。


腕が空を切る。


「後ろ!」


弥一が身体を伏せる。


もう一本の腕が背中の上を通った。


――俺を騙してたやつなのに。


死んでほしいとは、少しも思わなかった。


それどころか、傷が一つ増えるだけで胸が締めつけられた。


「くそ……」


宗吉は拳を握った。


怪人がまた宗吉へ近づく。


弥一は息を切らしていた。


最初の頃ほど余裕がない。


呼吸が荒い。


足の動きも鈍っている。


怪人は変わらない。


疲れるということがないらしい。


同じ速さで迫ってくる。


同じ力で腕を振るう。


弥一は一歩後ろへ下がった。


怪人が宗吉へ向かって踏み込む。


弥一が進路を塞いだ。


一本の腕が胸へ伸びる。


弥一は身体を横へ投げて避けた。


だが、もう一方の腕が、逃げる先へ回り込んでいた。


「弥一!」


弥一が無理に身体を捻る。


腕の先が脇腹を掠めた。


着物が裂ける。


弥一は地面へ転がった。


宗吉は駆け出しかけた。


足の裏に痛みが走る。


「来ないで!」


弥一が怒鳴った。


宗吉の足が止まる。


「でも!」


「来たら余計に面倒なんでさ!」


弥一は地面へ手をつき、立ち上がった。


怪人は弥一の横を抜け、宗吉へ近づこうとしている。


弥一が再び前へ立ち塞がった。


開け放した戸から漏れる灯と、薄い月明かりが二つの身体を照らしている。


弥一は深く息を吸った。


その目が一瞬だけ、自分の懐へ落ちた。


何かを確かめるように。


怪人が腕を突き出す。


弥一は後ろへ跳んだ。


また懐へ手をやる。


宗吉は眉を寄せた。


「何だ?」


弥一は答えない。


怪人の腕を避ける。


足を避ける。


かわすばかりだった。


もう反撃する道具もない。


「ああ、もう!」


弥一が突然、声を上げた。


腹を決めたような声だった。


「やっぱり、こいつを使うしかないか」


宗吉は聞き返した。


「何を!」


弥一が懐へ手を突っ込んだ。


何かを引き出す。


紙だった。


細長い札。


離れた灯と月明かりだけでは、何が書かれているのか宗吉には読めない。


墨で何かが記されている。


折り目もほとんどない。


ずいぶん丁寧に持っていたものらしい。


宗吉の頭に、ほんの一瞬だけ疑問が浮かんだ。


なぜ、そんなものを持っている。


いつから。


どこで手に入れた。


だが、聞く暇はなかった。


怪人が宗吉へ向かって踏み込んだ。


今まで以上に深く。


長い身体が、弥一の向こうから宗吉へ覆いかぶさろうとする。


二本の尖った腕が開いた。


左右から弥一を押しのけようとする。


「弥一!」


宗吉が叫んだ。


弥一は逃げなかった。


怪人へ向かって走った。


「何してんだ!」


一歩。


二歩。


距離がなくなる。


怪人の腕が動く。


弥一は片方を身体すれすれでかわした。


もう一方が肩へ向かう。


弥一はその腕の内側へ潜り込んだ。


怪人の胸が目の前に来る。


弥一の右手には札があった。


「これでどうだ!」


札を怪人の胸へ押しつけた。


ぺたり。


あまりにも軽い音だった。


宗吉は目を見開いた。


何も起きない。


そう思った。


ほんの一瞬だけだった。


怪人の動きが止まった。


尖った腕が、弥一の首筋から指一本ほどのところで止まっている。


長い脚も止まった。


弥一も動かない。


札だけが、怪人の胸へ貼りついていた。


次の瞬間。


怪人の身体が震えた。


びくり、と一度。


それから、もう一度。


長い胴が波打つ。


宗吉は後ずさった。


「……何だ?」


札を貼られた胸が、内側へへこんでいた。


黒い身体の表面が、そこへ吸い込まれていく。


へこんだ胸を中心に、怪人の形が崩れ始めた。


溶けているように見えた。


黒い表面が柔らかくなり、どろりと下へ垂れる。


けれど、液体になっているわけではない。


垂れたものは地面へ届く前に細かく崩れ、黒い粉のようになって消えていった。


怪人が身体を反らした。


声は出なかった。


顔の下のほうには口だけがある。


それなのに、悲鳴一つ上げなかった。


平らな顔が上を向く。


頬に当たる場所が沈む。


額が崩れる。


輪郭がなくなっていく。


長い腕が途中から折れ曲がった。


骨が折れるような音はしなかった。


力を失った紐のように垂れ、細くなり、そのまま黒い塊へ変わっていく。


もう一方の腕も同じだった。


弥一が怪人から離れた。


宗吉のほうへ数歩下がる。


「弥一!」


「近づかないで!」


宗吉は止まった。


怪人の崩壊は止まらなかった。


胸から腹へ。


肩から腕へ。


身体の形を保っていたものが、次々と失われていく。


長い脚が一本、膝の辺りから崩れた。


地面へ倒れる前に、黒い粉となって消えた。


もう一本も沈む。


怪人の背が急に低くなった。


胴と首が崩れ残り、その上にある平らな顔だけが、しばらく宙へ浮いているように見えた。


宗吉は息をするのも忘れて見ていた。


やがて、顔にも縦に亀裂のようなものが走った。


左右へ割れる。


内側には、血も肉も骨もなかった。


黒い塊が詰まっているだけだった。


それも、すぐに細かな粉となって消えた。


最後に残ったのは、胸に貼りついていた札だった。


支える身体がなくなり、ひらりと地面へ落ちる。


墨で書かれていたものは、見る間に薄れていった。


札が土へ着いたときには、何も書かれていない白い紙になっていた。


その頃には。


怪人はもう、どこにもいなかった。


黒い染みさえ残っていない。


宗吉は動けなかった。


さっきまで確かにそこにいて、人を食ったことがあるという妖が。


まるで初めから何もいなかったように消えていた。


夜の道には、宗吉と弥一だけが残されていた。


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