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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
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十六幕 連れ去られる

その顔を見た瞬間、宗吉は一歩退いた。


弥一の冷たい目は、宗吉へ向けられている。


「……何だよ」


弥一が近づいた。


笑みを浮かべたまま、さらに一歩。


宗吉は反射的に身を引いた。


「おい。何だよ、その顔」


返事はなかった。


次の瞬間、腕をつかまれた。


「うわっ」


身体を引き寄せられる。


腕を背中側へ捻られた。


宗吉は逃れようと身体を回したが、その動きを利用するように足を払われた。


床へ手をつく。


「何す――」


言い終わる前に、うつ伏せに押さえ込まれた。


弥一の膝が背へ乗る。


宗吉の腕は身体の下へ挟まれた。


「何するんだ!」


身体を捻る。


床を蹴る。


だが、弥一の身体はびくともしなかった。


「離せ!」


弥一が低い声で言った。


「ごちゃごちゃうるせえ。少し黙れ」


宗吉は一瞬、動きを止めた。


声そのものは、以前にも聞いたことがある。


飯屋で、ほかの客を黙らせたときの声だった。


だが、宗吉へ向けられたことはなかった。


弥一は馴れ馴れしく兄貴と呼ぶ。


からかいもする。


けれど、どれほど宗吉が腹を立てても、その声にはどこか柔らかいところがあった。


今はなかった。


「離せって!」


宗吉はまた暴れた。


弥一が懐へ手を入れた。


手拭いを取り出す。


宗吉がそれを見る。


「……何だ、それ」


嫌な予感がした。


「おい」


手拭いが口元へ近づく。


宗吉は顔を逸らした。


「待て」


歯を食いしばる。


「待てって!」


弥一の指が頬をつかんだ。


「やめ――」


口が開いたところへ、手拭いを噛まされた。


「んっ!」


宗吉は激しく首を振った。


弥一は背を膝で押さえたまま、手拭いの両端を頭の後ろへ回した。


きつく結ぶ。


「んんっ!」


声を出しても、くぐもった音にしかならない。


弥一は宗吉から膝を退けた。


「これでいい」


宗吉はすぐに起き上がろうとした。


その前に、襟首と帯をつかまれる。


「んっ!」


弥一の肩が宗吉の腹の下へ入った。


そのまま一気に持ち上げられる。


両足が床から離れた。


宗吉の腹が弥一の肩に乗り、上半身と脚が前後へ垂れた。


弥一は、俵でも担ぐように宗吉を肩へ担いでいた。


「んんんっ!」


宗吉は慌てて身体を捻った。


足をばたつかせる。


弥一の肩や背中を拳で殴った。


だが、弥一は片腕で宗吉の脚を抱え込み、ほとんど揺れなかった。


「んーっ!」


「聞いてますよ」


弥一の声が、少しだけ元へ戻った。


それがかえって不気味だった。


「んんっ!」


「下ろせって言ってるんです?」


宗吉は何度も拳を振り下ろした。


「嫌です」


「んーっ!」


「暴れないでくださいよ」


宗吉はさらに大きく身体を捻った。


弥一の腕が、宗吉の脚を強く抱え直した。


「落ちたら痛いでしょう」


「んんんっ!」


「下ろすのは駄目です」


力では、どうにもならなかった。


弥一は水桶や米俵を軽々と持つ。


宗吉なら二人がかりでも苦労しそうなものを、一人で動かす。


その力で押さえ込まれれば、宗吉に逃げる術はなかった。


それでも暴れた。


何をされるのか分からない。


このまま黙って運ばれるほうが怖かった。


弥一が戸口へ向かう。


宗吉は目を見開いた。


「んっ!」


弥一は宗吉を肩へ担いだまま、草履へ足を滑り込ませた。


戸を開ける。


夜気が流れ込んできた。


そのまま外へ出る。


弥一は空いた手で戸を閉めた。


宗吉は必死に頭を上げ、周囲を見た。


誰かいないか。


誰でもよかった。


隣家の者。


通りすがりの男。


夜回り。


酔っ払いでもいい。


こちらを見てくれればよかった。


宗吉が暴れていることに気づけば、何か言うかもしれない。


隣の家の中で、何かが動く気配がした。


先ほどの怒鳴り声を聞いた者がいたのかもしれない。


だが、戸は開かなかった。


通りへ出ている者もいない。


少し先の家には灯がついている。


戸の隙間から明かりが漏れているところもある。


人が暮らしていることは分かる。


それでも、誰も外へ出てこなかった。


宗吉は声を上げた。


「んんーっ!」


手拭いに塞がれ、大声にはならない。


もう一度。


「んっ! んんっ!」


弥一が歩き始めた。


その歩みは普段と変わらなかった。


急いでいる様子もない。


肩に人を一人担いでいるのに、足取りは重くならなかった。


宗吉は肩の上で身体を揺らした。


「んんっ!」


「静かにしてください」


弥一は前を向いたまま言った。


宗吉は背中を殴った。


「だから痛いですって」


弥一の声には、もう怒気さえなかった。


その平静さが、宗吉には腹立たしかった。


いや。


腹立たしいだけではなかった。


怖かった。


家々の灯が、少しずつ減っていった。


弥一は明るい通りへは向かわなかった。


人の多いほうへ行かない。


夜でも店が開いている一角から離れていく。


曲がり角を一つ過ぎる。


また一つ。


宗吉にも見覚えのない道へ入った。


家が途切れ途切れになった。


道幅も狭くなる。


灯の間隔が広がる。


宗吉は首を捻って後ろを見た。


誰もついてこない。


宗吉は暴れるのをいったんやめた。


息が荒くなっていた。


口に噛まされた手拭いが苦しい。


唾液を飲み込む。


身体を捻り、弥一の身体の脇から進む先を見ようとする。


どこへ連れていくつもりなのか。


金を使ったことを問い詰めた。


弥一は何に使ったのか答えなかった。


そのあと、突然、宗吉を押さえつけ、猿轡をかませて担ぎ上げた。


何も説明されていない。


金のことなのか。


別の何かなのか。


頭の中でいくつもの考えが浮かび、どれも形になる前に消えた。


弥一の足音だけが続いていた。


そのとき。


宗吉は思い出した。


夜中の戸口。


笠をかぶった小さな子供。


後追い小僧。


あの幼い声。


――きをつけて。


そして。


――ねこが、ねずみをたべる。


宗吉の背筋が冷えた。


あのときは意味が分からなかった。


猫が鼠を食べる。


そんなことは当たり前だと思った。


どうして妖がわざわざ自分のところへ来て、そんな話をするのか分からなかった。


今も、意味が分かったわけではない。


それでも、あの言葉が急に嫌なものになった。


きをつけて。


あれは自分に言っていた。


何に気をつけろと言ったのか。


宗吉は、自分を肩へ担いでいる弥一の身体を見た。


短い髪。


太い首。


その下に広い肩がある。


宗吉がどれほど暴れても、びくともしなかった身体。


猫。


鼠。


宗吉の胸が速く鳴り始めた。


「……ん」


小さな声が漏れた。


これまで、弥一を怖いと思ったことがなかったわけではない。


最初に飯屋で見たときには、威圧的な男だと思った。


ほかの客を冷たい目で睨んだときにも、怖そうだと思った。


だが、それは他人へ向けられたものだった。


自分には関係がないと思っていた。


弥一は宗吉に飯を奢った。


仕事を探すのを手伝った。


家へ来ればいいと言った。


仕事が決まるまで間代はいらないと言った。


兄貴、兄貴と呼んだ。


二人で暮らした。


宗吉が飯を作り、弥一が重いものを持った。


何度も一緒に笑った。


宗吉はそれを思い返した。


その一方で、別のことも浮かんだ。


勝手に断られた仕事。


燃やされた書状。


黙って先回りしていた商家。


消えた二人の蓄えと、宗吉だけの金。


三度の嘘。


そして今。


宗吉は弥一の肩に担がれている。


声も出せない。


――こいつを信じなければよかった。


初めて、そう思った。


もっと早く疑えばよかった。


何度も黙って先回りされていると気づいたとき、そのどこかで離れていればよかった。


――一緒に住まなければよかった。


宗吉の胸が痛んだ。


同居しなければ、二人の蓄えを作ることもなかった。


自分の隠し金の存在を、弥一に話すこともなかった。


大切な金をすべて失うこともなかった。


そして今、こうしてどこかへ連れていかれることもなかった。


宗吉は再び暴れた。


「んっ! んんっ!」


弥一の背中を叩く。


「んーっ!」


「兄貴」


弥一が言った。


宗吉は殴る手を止めなかった。


「もう少しです」


宗吉の動きが止まった。


もう少し。


何が。


どこまで。


宗吉は身体を捻り、弥一の脇越しに前を見た。


闇の中に、道が伸びていた。


両側の家もまばらになっている。


灯はさらに少ない。


遠くに一つだけ、小さな明かりが見えた。


弥一はそちらへ歩いていく。


「んっ……」


宗吉は肩から滑り下りようとした。


弥一の腕が脚を抱え直す。


逃げられない。


やがて、暗がりの中に建物が見えてきた。


大きくはない。


人家とも、店とも違うように見えた。


夜の中に、小さく四角い影が立っている。


弥一はその前まで行った。


そして、止まった。


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