十五幕 壺の底
壺の底が見えていた。
何もなかった。
その傍らでは、壁際の床板が外れたままになっている。
床板の下へ隠していた包みも消えていた。
共同の蓄えも。
宗吉個人の蓄えも。
すべてなくなっていた。
宗吉はしばらく、その意味を理解できなかった。
灯のそばへ持ってきた壺を傾ける。
底を覗く。
もう一度、軽く振った。
音はしない。
銭が一枚でも残っていれば、何かしら音がするはずだった。
床板の下へも、もう一度手を入れた。
指先で奥まで探る。
そこにも何もない。
本当に、何もなかった。
宗吉の指先から、すうっと血の気が引いた。
「……ない」
声が、自分のものではないように聞こえた。
弥一は黙っていた。
宗吉は壺を抱えたまま振り返った。
「弥一」
返事がない。
「壺の金も、俺が隠してた金もない」
弥一は、宗吉ではなく、空の壺と外された床板を見た。
その視線で、宗吉には分かった。
初めて知った者の顔ではなかった。
驚いている顔でもない。
宗吉は壺を床へ置いた。
手がわずかに震えていた。
神棚の壺に入っていたのは、二人の金だった。
同居を始めてから、二人で少しずつ入れてきた。
弥一が稼いだ日には、弥一が入れた。
宗吉が仕事をした日には、宗吉も無理のない額を入れた。
どちらが多く出したかは、そのときによって違う。
それでも、壺へ入れたあとは二人の金だった。
勝手に使わない。
二人で必要だと決めるまで、出さない。
そう約束した金だった。
だが、床板の下へ隠していた金は違う。
あれは宗吉だけのものだった。
生まれて初めてもらった銭を、そのまま残してきたわけではない。
けれど、幼い頃から少しずつ貯めてきたものが、形を変えながらそこまで残ってきた。
手伝いでもらった銭。
働くようになってから貯めた銭。
欲しいものを買わずに残したぶん。
生家を出るときに持ってきたもの。
道中でも使った。
この町で暮らすためにも使った。
それでも、どうにもならなくなるまでは手をつけないと決め、残してきた金だった。
その金があるから、この町へ来られた。
仕事を失っても、すぐには路頭に迷わずに済んだ。
持っているだけで、いざというときには帰れると思えた。
宗吉にとって、銭はただ物を買うためのものではなかった。
逃げ道だった。
選べる余地だった。
何もかも駄目になったときに、自分でどうにかするためのものだった。
弥一には、その金があることを話していた。
だが、どこへ隠したのかまでは教えていない。
宗吉は弥一を見た。
「使ったのか」
弥一は答えなかった。
一度だけ、空になった壺へ目を落とす。
そのとき初めて、少し気まずそうな顔をした。
宗吉の胸の中で、何かが切れた。
「使ったのかって聞いてんだよ」
「……」
「弥一!」
弥一が宗吉を見る。
否定しない。
それだけで十分だった。
「どういうことだ!」
宗吉の声が跳ね上がった。
自分でも驚くほど大きな声だった。
けれど止められなかった。
「何に使った!」
弥一は少し黙ってから言った。
「必要だったんですよ」
宗吉は耳を疑った。
「何だって?」
「必要だったんでさ」
「だから、何に!」
弥一は答えなかった。
「壺の金だけじゃねえぞ」
宗吉は外された床板を指した。
「俺が隠してた金まで持っていったのか」
「……」
「どこにしまったか、お前には言ってねえだろ。何であそこにあるって知ってた」
返事はない。
「何に使ったんだよ!」
「今は言えない」
耳の奥で何かが鳴った。
弥一の声が、ひどく遠くから聞こえた。
「今は言えない?」
「はい」
「ふざけんな」
宗吉は壺を指した。
「壺の金は、俺の金でもあるんだぞ。それに、隠してた金は全部俺のだ!」
「分かってます」
「分かってて使ったのか!」
弥一は黙った。
その沈黙が、宗吉の怒りをさらに煽った。
「一文二文じゃねえんだぞ。全部だぞ」
弥一は何も言わない。
「俺が何年かけて貯めてきたと思ってんだ」
言葉にすると、胸の奥から別のものまで込み上げた。
宗吉は金を惜しんでいる。
それは間違いない。
金は大事だった。
だが、それだけではなかった。
弥一は、宗吉にとってあの金が何を意味するのか知っていた。
知ったうえで、二人の蓄えを作ろうと言った。
二人で守ろうと言った。
それなのに共同の金を使い、宗吉が別に隠していた金まで持ち出した。
しかも、宗吉には何も言わずに。
「何で黙ってた」
弥一は目を伏せた。
「弥一」
宗吉は一歩近づいた。
「何で黙ってたんだよ」
「今話しても、兄貴は信じないでしょう」
宗吉は一瞬、言葉を失った。
そして怒鳴った。
「もう十分信じられねえよ!」
弥一の眉がわずかに動いた。
「勝手に人の仕事を断った」
宗吉は指を一本立てた。
「俺宛ての紙を勝手に燃やした」
もう一本。
「まとまりかけた仕事のところにも、俺に黙って先に行った」
さらに一本。
「今度は金まで全部使った!」
言いながら、これまでのことが頭の中で並んでいった。
一つ一つなら、理由はあった。
短い仕事より長いものを探したほうがいい。
燃やしたのは断りの知らせだった。
店へ行ったのは、宗吉が働ける人間だと話すためだった。
どれも、説明だけを聞けば通らない話ではなかった。
宗吉も、そのたびに納得した。
完全に納得できなくても、弥一が自分のためにしてくれているのだと考えた。
だが、金は違う。
これは説明を待って済ませられることではなかった。
「必要だった、じゃ分かんねえんだよ」
宗吉は言った。
「信じるかどうかは俺が決める。まず話せよ」
弥一は黙っている。
「何に必要だったんだ」
「それは、まだ言えない」
「俺に言えないことに、俺の金を使ったのか!」
声が家の中に響いた。
そのとき、別のことが頭に浮かんだ。
最初の祝い。
ひとつ済んだ。
次の祝い。
半分くらい片付いた。
そして今夜。
全部済んだ。
宗吉の顔がゆっくり変わった。
「……待てよ」
弥一が宗吉を見る。
「お前」
宗吉は思い返した。
三度。
三度とも、弥一は夜に出ていった。
三度とも、子供が生まれた祝いだと言った。
知り合いのところ。
別の家。
また別の家。
偶然にしては続きすぎていると、宗吉自身が笑った。
「祝い」
弥一は何も言わない。
「お前、お祝いだって言って出かけていったの」
宗吉は弥一の顔を見た。
「嘘だろ」
否定してほしかったわけではない。
もう、ほとんど確信していた。
それでも弥一が、
違いますよ、
とでも言えば、何か別の説明が出てくる余地はあった。
弥一は否定しなかった。
宗吉は乾いた息を吐いた。
「やっぱり嘘だったのか」
「……」
「祝いでも何でもなかったのか」
弥一は答えない。
三度の外出と、三つの妙な言葉。
そのたびに、少しずつ金を持ち出していたのではないか。
宗吉には、そうとしか思えなかった。
何のために嘘をついたのか。
どこへ行っていたのか。
なぜ、何度かに分けて金を持ち出したのか。
何一つ分からない。
ただ一つ、目の前にある事実だけは変わらなかった。
兼好弥一という男は、二人の約束を破って共同の金を使い、宗吉個人の金まで持ち出した。
何に使ったのかも言わない。
金にだらしがないどころではない。
人の金まで自分のもののように扱う。
宗吉には、そのようにしか見えなかった。
共同生活を始めてから、弥一は生活費をきちんと入れていた。
宗吉より多く入れることさえあった。
だから、金については大雑把でも気前のいい男なのだと思っていた。
違ったのかもしれない。
持っていれば使う。
必要だと思えば、人との約束まで無視する。
そういう男だったのかもしれない。
宗吉は腹の底が冷えていくのを感じた。
怒っているのに、同時に怖かった。
金がなくなったことが、である。
今日から食えなくなるわけではない。
日々の生活費は別にある。
弥一も働いている。
宗吉にも柏屋の仕事がある。
だが、なくなった金は、そういう金ではなかった。
何かあったときのための最後の備えだった。
その金が、宗吉の知らないところで消えていた。
しかも宗吉は、今夜までそれを知らなかった。
「何とか言えよ」
宗吉が言った。
さっきほど大きな声ではなかった。
それでも怒りは消えていない。
「何に使った」
返事はない。
「どこへ行ってた」
返事はない。
「何のためだ」
返事はない。
宗吉の拳が握られた。
「お前、俺を馬鹿にしてんのか」
「してませんよ」
ようやく弥一が答えた。
「じゃあ話せ」
「それはできない」
「またそれか!」
宗吉の声が再び大きくなった。
弥一が顔をしかめる。
「大きな声を出さないでください」
宗吉は耳を疑った。
「は?」
「近所にまで聞こえちまう」
宗吉は弥一を見つめた。
一瞬あと、怒りがさらに燃え上がった。
「だったら何だ」
一歩、弥一へ近づく。
「お前が勝手に使い込んだことがばれたら困るのか」
「そういう話じゃないですよ」
「じゃあどういう話なんだよ!」
「兄貴」
「呼ぶな!」
弥一は口を閉じた。
宗吉は息を切らしていた。
これほど人に腹を立てたのは、いつ以来か分からなかった。
いや、もしかすると初めてかもしれない。
弥一はしばらく宗吉を見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
溜息だった。
宗吉の眉が吊り上がった。
「何だよ、その溜息」
弥一は答えなかった。
ただ、顔を上げた。
そのときだった。
弥一の目の色が変わった。
宗吉は、その目を知っていた。
最初に人魂を見た飯屋。
狭い通路で、ほかの客と肩がぶつかりそうになったとき。
相手が文句を言った。
その瞬間、弥一が向けた目。
冷たい目だった。
宗吉へ話しかけるときには、ほとんど見せたことのないものだった。
その目が今、
宗吉に向けられていた。
そして弥一は、
にやりと笑った。




