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開港場、怪異往来につき  作者: 古潭兄弟
第02章 壺は空になる
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十四幕 全部済みました

怪人は、そこに立っていた。


二人の家から少し離れた、家並みの影が濃く落ちる場所だった。


夜になりきる一歩手前の空には、まだわずかな明るさが残っている。


通りの向こうでは、家々に灯が入り始めていた。


もう少し人の多い道へ出れば、瓦斯灯の明かりもある。


だが、怪人の立っている辺りまでは届かなかった。


黒い身体だけが、暮れかけた町の中に浮かんでいる。


人の形をしていた。


少なくとも、遠くからならそう見えた。


ただ、ひどく細長かった。


胴も細い。


腕も長い。


そして何より、脚が異様だった。


怪人は動かなかった。


顔を、宗吉と弥一の暮らす家へ向けている。


顔には、目も鼻もなかった。


そこにあるはずの起伏が、初めから作られていないように、額から口元の近くまで平らだった。


その下に、口だけがあった。


夕闇の中でも、その異様な顔立ちは見て取れた。


視線などあるはずもない。


それでも、家の中を見据えているようだった。


戸はすでに閉まっている。


中では宗吉が一人、夕餉の支度を続けている。


宗吉は知らない。


怪人が自分の家を窺っていることを。


怪人は、しばらくそうしていた。


どれほどのあいだだったのか。


やがて、顔が動いた。


ゆっくりと家から逸れる。


次に身体が向きを変えた。


怪人は歩き始めた。


家とは反対の方向だった。


一歩。


脚が伸びる。


ひどく長かった。


普通の人間なら二歩、三歩とかかるほどの幅を、一度に進む。


だが、歩き方は滑らかではなかった。


膝のあたりで、


がくり、


と折れる。


細い棒を途中で急に折り曲げ、そのまま前へ倒すような動きだった。


もう一方の脚が前へ出る。


また、がくりと折れる。


一歩。


一歩。


長い脚が交互に折れながら、怪人を夜の町へ運んでいく。


歩みそのものは急いでいない。


それなのに一歩が大きいため、離れていくのが妙に速かった。


黒い姿が遠ざかる。


曲がり角へ差しかかる。


そこで長い身体が半分消えた。


次の瞬間には、もう見えなくなった。


その少しあとだった。


怪人が立っていた場所とは別の物陰から、人影が出てきた。


弥一だった。


大きな身体を壁際へ寄せて、ずっと様子を窺っていたらしい。


弥一は、怪人が消えた道を見ていた。


いつもの笑みはなかった。


しばらく動かない。


追うのか。


家へ戻るのか。


そのどちらともつかないまま、夜の向こうを見ている。


やがて弥一も歩き始めた。


怪人が去った方向ではなかった。


家へ戻る方向でもない。


別の道へ入っていった。


それから、長い時間が過ぎた。


夜はすっかり深くなっていた。


宗吉はまだ起きていた。


普段なら、もう横になっている頃である。


柏屋から今日受け取った銭を振り分け、共同の帳面へつけていたのだ。


いつもより少しまとまった額だった。


この頃は、臨時の仕事だけでなく、長く続きそうだった口まで消えている。


自分の稼ぎでこれだけの銭を一度に手にしたのは久しぶりだった。


宗吉には嬉しい収入だった。


飯を食べたあと、宗吉は受け取った銭をもう一度数えた。


共同の暮らしに入れる分。


自分で持っておく分。


そして残ったものは、二人の非常の蓄えへ加えようと思っていた。


日々の暮らしに使う巾着には、今すぐ困らないだけの金がある。


ならば、余裕のあるときに残す。


宗吉には、そのほうが気分がよかった。


小さい頃から変わらない。


銭は、使ってしまえばなくなる。


残しておけば、先で何かを助けてくれる。


宗吉は銭を三つに分けた。


明日にしてもよかった。


だが、せっかくまとまった額なのだから、先に分けておきたかった。


そうしているうち、戸の外で物音がした。


やがて戸が開いた。


「ただいま」


弥一だった。


宗吉は顔を上げた。


「遅かったな」


「そうです?」


「もうだいぶ夜だぞ」


「ちょっと長くなりましてね」


弥一は戸を閉めた。


いつもと変わらない様子だった。


酒に酔っているふうでもない。


着物が乱れているわけでもない。


宗吉は手元の銭を分けながら、少し笑った。


「三度目のお祝いはどうだった?」


弥一の動きが、ごくわずかに止まった。


宗吉は気づいたが、気に留めるほどではなかった。


弥一は草履を脱いだ。


「ええ」


それから宗吉のほうを見た。


「全部済みましたよ」


宗吉の指が止まった。


「全部?」


「ええ」


弥一は平然としていた。


宗吉は眉を寄せた。


前にも、似た言い方を聞いた。


最初の祝いのあとには、


ひとつ済んだ。


次の祝いのあとには、


半分くらい片付いた。


そして今度は、


全部済んだ。


祝いについて話しているにしては、何となく妙だった。


「お前さ」


宗吉が言う。


「何です?」


「前から思ってたけど、祝いの話をするとき、変な言い方するよな」


弥一は首を傾げた。


「そうです?」


「ひとつ済んだとか、半分片付いたとか」


宗吉は指を折った。


「今度は全部済んだ」


弥一は少し笑った。


「そう言いましたっけ」


「言ったよ」


「じゃあ、そうだったんでしょう」


「何だそれ」


宗吉も笑った。


引っかかりはした。


だが、それだけだった。


弥一の知り合いの家の祝いである。


宗吉が事情を知っているわけではない。


何を片づけたのか、どんな用があったのか、その場にいなければ分からない。


弥一の言葉遣いが少し妙だからといって、問い詰めるようなことでもなかった。


「まあいいや」


宗吉は手元へ目を戻した。


そこで、ちょうど思い出した。


「ああ、そうだ」


「何です?」


「今日、柏屋の仕事の金が入ったんだ」


弥一の顔が宗吉へ向いた。


「へえ」


「このところじゃ、そこそこまとまった金でさ」


宗吉は少し嬉しそうに、分けた銭を示した。


「普段使うほうには、今のところ足りてるだろ」


「そうですね」


「だから、こっちは使っちゃいけない金のほうへ入れとく」


弥一の表情が変わった。


ほんの一瞬だった。


それまで何でもない顔をしていたのに、目が見開かれた。


宗吉はその変化を見た。


「どうした?」


「……いや」


弥一はすぐに顔を戻した。


「何でもないです」


宗吉は怪訝に思った。


「何だよ」


「何でもないって」


「変な顔したぞ」


「してませんよ」


「したって」


「兄貴の気のせいでしょう」


「兄貴って言うな」


いつもの返事をしてから、宗吉は立ち上がった。


手には、柏屋でもらった銭の一部を持っている。


神棚へ向かう。


そこには、二人で非常の蓄えを納めた壺が置いてあった。


仕事で銭を得るたび、二人で無理のない分を少しずつ入れてきた。


一度入れた銭は、二人で必要だと決めるまで出さない。


それが約束だった。


宗吉は壺へ手を伸ばした。


「これも足しとけば、だいぶ――」


そこで言葉が止まった。


壺を下ろす。


軽かった。


あまりにも。


宗吉は両手で持ち直した。


一瞬、別の壺を取ったのかと思った。


そんなはずはない。


自分で置いたものだ。


何度も見ている。


「……あれ?」


宗吉は壺を傾けた。


音がしなかった。


銭が入っていれば、鳴るはずだった。


二人で少しずつ入れ続けてきた。


持ち上げれば、それなりの重さがあるはずだった。


宗吉は蓋を開けた。


中を覗く。


暗くて見えにくい。


壺を灯の近くへ持っていった。


もう一度覗いた。


宗吉の顔から、表情が消えた。


壺の底が見えた。


そこには、何も入っていなかった。


「どうしたんです?」


弥一の声がした。


宗吉は答えなかった。


空の壺を置く。


次の瞬間、部屋の隅へ向かった。


壁際の床板を一枚持ち上げる。


その下の狭い隙間に、宗吉は自分だけの蓄えを隠していた。


共同の金とは別にしたものだった。


子供の頃から少しずつ貯め、何があっても最後まで使わずにおこうと決めていた金である。


宗吉は隙間へ手を入れた。


指先が空を探った。


もう一度、奥まで探る。


何も触れない。


包みがない。


宗吉は床板をさらに持ち上げた。


灯を近づけ、暗い隙間を覗き込む。


そこにも、何もなかった。


共同の蓄えも。


宗吉だけの金も。


すべてなくなっていた。


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