十三幕 消える仕事
後追い小僧が家まで来た夜から、何日かが過ぎた。
そのあいだ、宗吉の身の回りには特に変わったことは起きなかった。
小僧が再び姿を見せることもない。
戸口に気配を感じることもない。
あの、
「きをつけて」
という声だけが、ときどき思い出された。
猫が、鼠を食べる。
意味は、やはり分からなかった。
猫が鼠を捕るのは当たり前のことである。
妖がわざわざ夜中に家まで来て告げるほどの話とは思えない。
弥一に聞いても、あれ以来まともな答えは返ってこなかった。
「あれの言うことなんか、気にしないほうがいいですよ」
そう言われただけだった。
宗吉は気にはなった。
けれど、考えて答えが出るものでもない。
それより今の宗吉には、もっと現実的な問題があった。
仕事である。
柏屋から時折もらえる帳面仕事は続いていた。
嘉助は宗吉を信用してくれているらしく、以前より任されるものも増えている。
それでも、あくまで手が足りないときだけだった。
毎日呼ばれるわけではない。
宗吉は相変わらず、ほかの仕事を探していた。
弥一も、
「あそこなら聞いてみてもいいんじゃないですか」
と店を教えてくれる。
人づてに仕事の話を聞いてくることもあった。
だが、なかなか決まらない。
そんな中で、久しぶりに手応えのある話が出た。
大きな店ではなかった。
日本人町の中にある、小さな商家だった。
扱っている品は幾つかあり、荷の出入りもある。
奉公人もいるが、主人を含めても大勢ではない。
その店が人を探していると聞き、宗吉が訪ねると、主人は思っていたより長く話を聞いてくれた。
「帳面はつけられるのか」
「はい」
「算盤は?」
「できます」
「商家に奉公したことは」
宗吉は一瞬だけ迷った。
ここでいつも話が止まる。
それでも、嘘をつくわけにはいかない。
「ありません」
主人は、
「そうか」
と言った。
宗吉は、その次に来る言葉を待った。
――では難しいな。
何度も聞いた言葉である。
ところが、主人は宗吉を帰さなかった。
「今はどこかで働いてるのか」
「柏屋で、ときどき帳面の手伝いをさせてもらってます」
主人の顔が少し変わった。
「柏屋?」
「はい」
「茶商の?」
「そうです」
「誰の下でやってる」
「嘉助さんという手代の方です」
主人は少し考えた。
それから、帳場の奥にあった帳面を一冊持ってきた。
宗吉の前へ置く。
「ちょっと見てくれ」
宗吉は帳面を開いた。
売買の記録だった。
難しいものではない。
ただ、何人かで書いたのか、字に癖があった。
数字の並びにも、少し分かりにくいところがある。
主人が何か所か指し示し、
「ここ、合ってると思うか」
と聞いた。
宗吉は算盤を借りた。
一つずつ拾った。
最初は合っている。
次も合っている。
その次で、数字がずれた。
宗吉はもう一度やった。
やはり違う。
前の頁へ戻る。
しばらく追って、
「ここじゃないですか」
と指した。
主人が覗き込む。
「どこだ」
「この頁から次の頁へ書き移すときに、数字を一つ間違えています」
主人は帳面を見た。
それから年若い奉公人を呼び、別の帳面を持ってこさせた。
確かめる。
宗吉の言う通りだった。
「よく見つけたな」
主人が言った。
宗吉は少し嬉しくなった。
「こういうのは得意です」
主人も少し笑った。
話はそこから進んだ。
帳場を任せている者の手が足りず、帳面を手伝う者を探しているのだという。
年季を入れて奉公する話ではない。
住み込みにもせず、朝から夕方まで通えばよい。
荷が入ったときに多少手を貸してもらうことはあるが、重いものを担がせるつもりはないという。
宗吉には都合がよかった。
何より、数日だけの仕事ではない。
決まれば、しばらく続く仕事だった。
主人が提示した銭も悪くなかった。
贅沢ができるほどではない。
だが、自分の暮らしの分をきちんと稼ぎ、共同の蓄えにも入れられる。
少しずつなら、自分の金もまた貯められるかもしれない。
宗吉は久しぶりに、先のことを考えた。
「ぜひお願いしたいです」
そう言いかけたところで、主人が手を上げた。
「いや、まだ決まりじゃない」
「あ」
宗吉は口を閉じた。
主人は宗吉を見た。
「こっちも少し考えたい。お前さんも、条件を聞いたばかりだろう」
「俺は大丈夫です」
「そう急ぐな」
主人は苦笑した。
「二、三日考えて返事をする」
宗吉は少し残念に思った。
それでも、これまでとは違う。
その場で断られていない。
「分かりました」
頭を下げた。
店を出たとき、宗吉の足は軽かった。
決まったわけではない。
浮かれすぎてはいけない。
そう思いながらも、顔が緩んだ。
家へ帰る途中、何度も勘定した。
このくらい入れば、共同の生活費へこれだけ出せる。
残りを少し取っておく。
弥一が受け取ろうとしなかった間代の代わりに、共同の暮らしへ今までより多く銭を入れることもできる。
その晩、弥一にも話した。
「よさそうなところがあった」
飯を食べながら宗吉が言うと、弥一が顔を上げた。
「仕事?」
「うん」
宗吉は店のことを話した。
帳場。
住み込みではない。
力仕事もほとんどない。
主人にも帳面を少し見せてもらった。
弥一は黙って聞いた。
「それ、よさそうですね」
「だろ」
宗吉は嬉しくなった。
「まだ決まってねえけどな」
「いつ返事なんです?」
「二、三日考えるって」
「へえ」
弥一は飯を口へ運んだ。
「決まるといいですね、兄貴」
「おう」
そこで宗吉は気づいた。
「だから、兄貴って言うな」
弥一が笑った。
宗吉も笑った。
その晩は、久しぶりに気分よく眠った。
翌日は柏屋へ行った。
嘉助に仕事の話をすると、
「それなら、いいじゃないですか」
と言われた。
みちも近くで聞いていた。
「決まったら、うちに来なくなるの?」
「いや、休みの日とか、頼まれたら来るよ」
「そう」
みちは笑った。
「それなら嘉助さんも困らないね」
「私は別に困りませんよ」
嘉助が言った。
「またまた」
みちが笑う。
宗吉も笑った。
本当に決まったような気になりそうだった。
だから、少し気を引き締めた。
まだである。
返事をもらうまでは分からない。
三日ほどして、宗吉は再びその商家へ向かった。
店先には、前に帳面を運んできた年若い奉公人がいた。
宗吉を見ると、軽く頭を下げた。
主人を呼んでもらう。
少し待つ。
やがて主人が出てきた。
宗吉は顔を見ただけで、何となく分かった。
前に会ったときと違う。
「この前のお話なんですが」
宗吉が切り出す。
主人は、
「ああ」
と言った。
少し目を逸らした。
「悪いが、今回はなかったことにしてくれ」
宗吉は黙った。
予想はできた。
それでも、胸の中に落ちたものは重かった。
「そうですか」
「悪いな」
「いえ」
宗吉は頭を下げかけた。
だが、一つだけ聞いておきたかった。
「理由を聞いてもいいですか」
主人の顔に、困ったような色が浮かんだ。
「いや、まあ」
言葉を濁す。
「こっちにもいろいろあってな」
「帳面を見たとき、何かまずいことをしました?」
「そういうんじゃない」
「じゃあ、経験がないから?」
「いや」
「ほかの人に決まったんですか」
主人は少し苛立ったように眉を寄せた。
「お前さんが悪いわけじゃないんだ」
そこで話を終わらせようとしているのが分かった。
宗吉も、それ以上は聞けなかった。
「分かりました」
もう一度、頭を下げる。
店を出た。
期待していただけに、落胆は大きかった。
往来へ出ても、しばらくどこへ向かう気にもならなかった。
二、三日前には、この道をずいぶん軽い足で歩いた。
いまはまるで違う。
仕方がない。
また探すしかない。
そう思い直し、歩き出そうとしたときだった。
「根津さん」
後ろから小さな声がした。
振り返る。
さっき店先にいた、年若い奉公人だった。
まだ少年の面影が少し残っている。
店の中を気にするように一度振り返ってから、宗吉へ近づいた。
「何?」
宗吉が聞く。
奉公人は声を落とした。
「この前、帳面の間違いを見つけてくれたでしょう」
「うん」
「あれ、俺が書き移したところだったんです」
宗吉は目を瞬いた。
「そうだったのか」
「旦那に叱られるかと思ったんですけど、根津さん、誰が書いたのか聞かなかったでしょう」
「間違いが見つかれば、それでいいからな」
奉公人は少し迷ってから言った。
「だから、黙ってるのも悪い気がして」
宗吉は相手を見た。
「何を?」
「俺、根津さんで決まると思ってたんですけどね」
宗吉は苦笑した。
「俺も少し思ってた」
「旦那も最初は、そのつもりだったと思います」
「そうなの?」
「ええ」
奉公人はまた店のほうを見た。
「そのあと、兼好さんが来たんです」
宗吉の表情が止まった。
「……弥一?」
「はい」
宗吉は、聞き間違えたのかと思った。
「弥一がここへ来たのか?」
奉公人は頷いた。
「この前」
「いつ?」
主人が二、三日考えると言った、そのあいだだった。
「何しに?」
「そこまでは俺には分かりません」
奉公人はまた店のほうを見た。
「旦那と奥で話してました」
「何を?」
「俺たちには、奥で何を話していたかまでは聞こえないんで」
「長かった?」
「そんなでもなかったと思いますけど」
「旦那は、弥一を知ってるのか?」
「前からの顔見知りみたいでした」
宗吉は何も言わなかった。
奉公人は、余計なことを言ってしまったと思ったのかもしれない。
「じゃあ、俺、戻ります」
「ああ」
「すみません」
「何で謝るんだよ」
奉公人は曖昧に笑い、店へ戻っていった。
宗吉は一人で残った。
また。
その言葉が最初に浮かんだ。
柏屋へも、弥一は宗吉に黙って出向いた。
嘉助に、宗吉が帳面仕事をどの程度できるのか尋ねている。
以前には、宗吉へ来た三日の仕事を勝手に断ったこともある。
燃え残った書状のこともあった。
そして今度は、まとまりかけていた店へ先に来ていた。
そのあとで、仕事の話が消えた。
宗吉は唇を結んだ。
偶然だろうか。
いや。
弥一が店へ来たこと自体は偶然ではない。
自分から来て、主人と何かを話している。
問題は、その中身だった。
家へ帰る頃には、宗吉の落胆は少し別のものに変わっていた。
腹立たしさとも違う。
疑い。
そう呼ぶには、まだ輪郭が薄かった。
戸を開ける。
弥一は家にいた。
ほつれかけた縄を直していた。
宗吉を見ると、
「おかえり、兄貴」
と言った。
宗吉は荷物を置いた。
「弥一」
「はい?」
「お前、あの店に行ったのか?」
弥一の手が止まった。
「どの店です?」
宗吉は店の名を言った。
「ああ」
弥一はすぐに頷いた。
「行きましたよ」
隠す様子はなかった。
宗吉は、かえって調子を外された。
「何で俺に言わなかった」
「言うほどのことでもないと思って」
「何を話した?」
「兄貴のことです」
「だから、何を」
弥一は縄を脇へ置いた。
宗吉を見る。
「ちゃんと働ける人だって」
宗吉は黙った。
弥一は続けない。
「それだけ?」
「それだけですよ」
「本当に?」
弥一の眉が少し上がった。
「それ以外に何があるんです?」
宗吉は言葉に詰まった。
嘘をついているようには見えない。
目を逸らさない。
慌てもしていない。
むしろ、宗吉がなぜそんなことを聞くのか分からないという顔だった。
「仕事、駄目になった」
宗吉が言った。
弥一の表情が、わずかに改まった。
「そうなんです?」
「今日、断られた」
「理由は?」
「教えてくれなかった」
「そうですか」
弥一は残念そうに言った。
宗吉はその顔を見ていた。
「お前が何か言ったからじゃねえよな」
言ってから、自分でもずいぶん直接的だと思った。
弥一は一度瞬いた。
「俺が?」
「だって、お前が来たあとで断られてる」
「兄貴」
弥一の声は怒っていなかった。
「俺が仕事を決める立場じゃないでしょう」
「断ったのがお前だとは言ってねえよ」
宗吉は返した。
「店の主人に、俺を雇わないほうがいいと思わせるようなことを言ったのかって聞いてるんだ」
弥一は宗吉を見た。
「言ってませんよ」
「本当だな」
「俺は兄貴なら帳面も任せられるし、真面目に働くって言っただけです」
話だけを聞けば、筋は通っていた。
だが、弥一が主人と何を話したのか、宗吉には確かめようがない。
自分のために動いてくれた弥一を疑いたくないという気持ちもあった。
その一方で、これまでにも弥一が自分の仕事へ勝手に手を出してきたことは、消しようのない事実だった。
「前にも言ったよな」
宗吉が言った。
「俺の仕事のことで、勝手に動くなって」
「今回は断ってませんよ」
「そういうことじゃねえ」
宗吉は弥一の言葉を遮った。
「褒めるにしても、話を聞きに行くにしても、俺に言ってからにしろ」
「先に言えばいいんです?」
「違う。俺が頼んだときだけにしろ」
弥一は少し黙った。
「分かりましたよ」
宗吉はなおも弥一を見た。
「本当だな」
「はい」
返事はした。
けれど、弥一が納得したのかどうかまでは分からなかった。
宗吉は着物を着替えた。
夕餉の支度にかかる。
米を量る。
いつもより手が止まることが多かった。
仕事はなくなった。
また柏屋の細かな仕事と、ほかの臨時の口を拾っていく暮らしに戻る。
共同の巾着には、まだ銭がある。
弥一も稼ぎを入れている。
すぐに困るわけではない。
それでも、宗吉自身の稼ぎが増えなければ、今の暮らしは弥一の働きに支えられることになる。
弥一の家を出ようとしても、自分だけで部屋を借りるには安定した収入が要る。
なぜ出ていく場合のことを考えているのだろう。
弥一と喧嘩をしたわけではない。
暮らしに不満があるわけでもない。
けれど、何かあっても自分の力だけではすぐに出ていけない。
そのことが、急に息苦しく感じられた。
宗吉は首を振った。
いま考えても仕方がない。
米を研ぎ、飯を炊いた。
数日すると、宗吉はその店のことを表立って口にしなくなった。
忘れたわけではない。
考えても、弥一と主人が何を話したのか確かめる術がない。
仕事探しは続いた。
柏屋へも行った。
弥一との暮らしも、見たところは変わらなかった。
そして、ある日の夕方。
弥一がまた身支度を始めた。
宗吉は炊事場で菜を洗っていた。
背後の音だけで、また出るのだと分かった。
「今日は何だ?」
宗吉が聞く。
弥一が答えた。
「祝いです」
宗吉は手を止めた。
ゆっくり振り返る。
「……またかよ」
弥一は帯を締めた。
「今夜、また子の祝いに呼ばれてるんでさ」
宗吉は呆れた。
「続きすぎじゃねえか」
「そうですかね」
「この間も、その前も行っただろ」
「続くときは続くんですよ」
「今度は誰のところだ」
「兄貴の知らない人ですよ」
「そりゃそうだろうけど」
宗吉は弥一の顔を見た。
いつもと変わらない。
「お前の知り合い、みんな同じ頃に子供を作ってたのか」
弥一が吹き出した。
「そんなの、俺が知るわけないでしょう」
宗吉も笑った。
確かにそうだった。
人の子が生まれる時期まで、弥一の責任ではない。
それでも、祝いが続きすぎていることだけは確かだった。
「今夜も飯はいらねえんだな」
「ええ」
「帰りは?」
「遅くなると思います」
「分かった」
宗吉は菜へ戻った。
水を切る。
後ろで弥一が草履を履く音がした。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
宗吉は振り返った。
弥一が戸を開ける。
外は、すでに暮れかけていた。
昼の明るさと夜の暗さが混じる、短い時間だった。
往来を行く者の顔も、少し離れれば判然としなくなっている。
弥一が外へ出た。
宗吉は戸口からその背中を見送った。
「飲みすぎんなよ」
「分かってますよ、兄貴」
「兄貴って言うな」
弥一は振り返らず、片手だけ上げた。
そのまま道を歩いていく。
宗吉は少し笑った。
けれど、胸の奥に残った引っかかりは消えなかった。
やがて弥一の大きな背中が、人影の中へ混じった。
宗吉は戸を閉めた。
気づかなかった。
道の向こう。
家並みの陰が濃く落ちるところに、ひとつの黒い影が立っていた。
人のような形をしていた。
けれど、暮れ残った空の下でも、顔は見えなかった。
影は弥一を追わなかった。
宗吉の家のほうを向いたまま、じっと立っていた。




