十二幕 後追い小僧
前の祝いから、まださほど日もたっていなかった。
その日の夕方、宗吉は柏屋から帰ると、飯を炊き、買ってきた豆腐を切っていた。
弥一は壁際で帯を締め直している。
「今夜も出るのか」
「ええ」
「仕事?」
「いや。祝いですよ」
宗吉は包丁を止めた。
「祝い?」
「知り合いのところに、子供が生まれましてね」
「またか」
宗吉は思わず笑った。
「前の家とは違うのか」
「違いますよ」
弥一も笑った。
「俺の知り合いが、みんな同じ家に子供を産ませてるわけじゃないでしょう」
「そりゃそうだ」
宗吉は豆腐を切る手を戻した。
「お前、案外そういう付き合いが多いんだな」
「この町で長いですからね」
弥一はこの開港場で生まれ育った。
宗吉より二つ若いが、町の人間については比べものにならないほど顔が広い。
荷を運ぶ者にも、商家の者にも知り合いがいる。
職人らしい男に道で声をかけられることもあった。
宗吉の知らないところに、昔からの付き合いがいくつもあるのだろう。
「飯はいらねえんだな」
「向こうで食います」
「分かった」
宗吉は弥一のぶんの豆腐を取り分けるのをやめた。
弥一は草履を履いた。
「遅くなると思います」
「戸を静かに開けろよ」
「分かってますって」
「この前もそう言った」
「あれは静かだったでしょう」
「戸はな。お前がぶつかった柱がうるさかった」
弥一は笑った。
「じゃあ、行ってきます。兄貴」
「兄貴って言うな」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
弥一が出ていった。
宗吉は一人で飯を食った。
食後には、その日の出入りを帳面へつけた。
柏屋でもらった銭の一部を、日々の暮らしに使う巾着へ入れる。
菜と豆腐に使ったぶんを引く。
油はまだある。
米も当分足りる。
数字におかしなところはなかった。
その夜も弥一は遅くまで戻らなかった。
前の祝いのときと同じである。
宗吉は気にせず、先に寝た。
翌朝、目を覚ますと、弥一はまだ眠っていた。
昨夜もずいぶん遅かったらしい。
宗吉は先に米を炊き、汁を温めた。
しばらくすると、弥一がのそのそと起きてきた。
「おはようございます」
「遅かったな」
「まあ」
弥一は欠伸をした。
「ずいぶん長い祝いだったな」
「人が多かったんでさ」
宗吉は飯をよそった。
昨夜のことを詳しく聞くつもりはなかった。
ただ、前の祝いのときの言葉を思い出し、何となく尋ねた。
「どうだった?」
弥一は椀へ手を伸ばしかけた。
「何がです?」
「昨日の祝い」
「ああ」
ほんのわずかに間があった。
弥一は椀を受け取った。
「半分くらい片付きましたよ」
宗吉は飯杓子を持ったまま、弥一を見た。
「半分?」
「ええ」
「祝いが?」
「まあ、そんなところです」
宗吉は眉を寄せた。
祝いというものは、半分片づくとか、全部片づくとかいうものだろうか。
「何だ、それ」
宗吉は笑った。
「よく分かんねえな」
「俺もいろいろ頼まれたんですよ」
弥一はそれだけ言って、飯を食べ始めた。
宗吉も追及しなかった。
弥一の話は、ときどき肝心なところが抜ける。
今に始まったことではない。
その日の夕方は、珍しく二人とも用がなかった。
宗吉には柏屋から声がかからず、弥一も、
「今日は何もないですよ」
と言った。
米が少なくなっていた。
味噌も要る。
灯の油も、そろそろ買っておいたほうがよい。
そこで二人で買い出しへ出た。
宗吉一人でも買えるものばかりだったが、米を持って帰るなら弥一がいたほうが早い。
買い物を終えた頃には、日が落ちかけていた。
昼間の熱が薄れ、道を渡る風が涼しくなっている。
店じまいを始める店がある一方で、これから客を迎える店には灯が入っていた。
人通りの多いところでは、まだ声が絶えない。
そこを離れ、二人の家へ戻る道へ入った。
弥一が米を持っていた。
宗吉は味噌や油など、細かなものを抱えている。
「やっぱり、お前と来て正解だったな」
「何がです?」
「米」
「これくらいなら大したことないでしょう」
「お前にはな」
弥一は笑った。
宗吉も笑った。
しばらく歩いたところで、
ぺた。
後ろから音がした。
宗吉は足を止めかけた。
弥一はそのまま歩いている。
ぺた。
また聞こえた。
草履の音とは少し違う。
裸足とも違う。
小さな足で地面を踏んでいるような音だった。
「弥一」
「何です?」
「何かついてきてねえか」
弥一が振り返った。
宗吉も振り向く。
少し離れたところに、子供がいた。
男の子だった。
まだ幼い。
背丈は宗吉の腰を少し越える程度だった。
頭には笠をかぶっている。
笠の縁が低く、顔の上半分は影になっていた。
着ているものも、特別変わってはいない。
遠目なら、どこかの家の子供が一人で歩いているようにしか見えなかった。
ただ、宗吉たちが止まると、その子も止まった。
道の真ん中に立っている。
宗吉は子供を見た。
子供もこちらを向いていた。
「誰かの子か?」
「違いますね」
弥一が言った。
宗吉は隣を見る。
弥一の顔から、笑みが消えていた。
「妖ですね」
「ああ、やっぱり」
宗吉はもう一度、子供を見た。
怖いとは思わなかった。
妙なものを見ると、まず何者なのか知りたくなる。
それは昔から変わらなかった。
二人が再び歩き始める。
ぺた。
後ろから音がした。
ぺた。
宗吉が振り返る。
子供も歩いていた。
宗吉が立ち止まる。
子供も止まる。
「本当についてきてるな」
宗吉は少し面白くなった。
弥一はそうでもないらしい。
「行きましょう」
「知ってるのか?」
「あれは後追い小僧ですね」
「後追い小僧?」
「歩いている人間のあとをついてくるんでさ」
宗吉は子供を見る。
笠の下から顔はよく見えない。
ただ立っている。
飛びかかってくるわけでもなければ、呻き声を上げるわけでもない。
「何だか大人しそうなやつだな」
「大人しそうだから何なんです」
「いや」
宗吉は少し考えた。
「話しかけてみるか」
弥一がすぐに宗吉を見た。
「何を言ってるんですか」
「だって、ついてきてるんだぞ」
「だからでしょう」
「何か用があるのかもしれねえ」
「駄目です」
珍しく、弥一がきっぱり言った。
宗吉は目を瞬いた。
「何で」
「分からないものに、わざわざこっちから関わることないでしょう」
「でも、お前、名前まで知ってるじゃねえか」
「名前を知ってるのと、あれが何をするか全部知ってるのは別です」
「話すだけだぞ」
「それで何が起きるか分からない」
弥一は前を向いた。
「行きますよ」
歩調を速める。
宗吉は後ろを見た。
小僧はまだ立っていた。
「待てよ」
宗吉は弥一を追った。
しばらくすると、後ろからまた足音がした。
ぺた。
ぺた。
弥一は振り返らなかった。
宗吉は何度か振り返った。
小僧はついてきた。
近づいてはこない。
離れもしない。
いつも同じくらいの距離を保っている。
やがて、人通りのある道へ出た。
宗吉が振り返る。
小僧はいなかった。
「消えた」
「なら、よかったでしょう」
弥一は言った。
宗吉には、少し惜しいような気がした。
もっと見ていたかった。
何のためについてくるのか、聞いてみたかった。
しかし、弥一があれほど嫌がるなら、無理に関わることもない。
二人はそのまま家へ帰った。
夕飯を食べたあと、宗吉は買ってきたものを片づけ、帳面へ銭の出入りを書いた。
それから床に入った。
弥一はすぐに寝息を立て始めた。
宗吉は眠れなかった。
後追い小僧のことを考えていたわけではない。
買い出しで歩いたせいか、身体は疲れている。
それなのに、妙に目が冴えていた。
寝返りを打つ。
隣では弥一が寝ている。
もう一度、目を閉じる。
そのとき。
戸の向こうに、何かいる。
宗吉は目を開けた。
音がしたわけではなかった。
ただ、人が立っている気配がした。
この町へ来てからも、そういう感覚を覚えることは何度かあった。
見える前に分かることがある。
宗吉は身体を起こした。
弥一を見る。
眠っている。
宗吉は静かに立った。
戸まで行く。
少しだけ迷った。
夕方の弥一の言葉を思い出す。
――わざわざこっちから関わることないでしょう。
その通りなのかもしれない。
だが、向こうから家まで来たのなら話は別ではないか、と宗吉は思った。
戸を開けた。
夜気が入ってきた。
少し離れたところに、子供がいた。
夕方の小僧だった。
笠をかぶり、暗い道の中に小さな身体だけが立っていた。
「やっぱり、お前か」
宗吉は小声で言った。
小僧は動かない。
「こんなところまで来たのか」
返事はない。
宗吉は戸口から出なかった。
小僧との間には、少し距離があった。
「何か用か?」
そう尋ねた。
しばらく、何も起こらなかった。
宗吉は待った。
風が通った。
笠の縁が、ほんのわずかに揺れた。
そして、小僧が初めて口を開いた。
「きをつけて」
幼い声だった。
大きくもない。
脅すような響きもなかった。
宗吉は黙った。
続きがあるような気がした。
小僧も黙っている。
宗吉は待った。
やがて、もう一度声がした。
「ねこが」
一度、途切れた。
「ねずみをたべる」
宗吉は眉を寄せた。
「猫?」
小僧は答えない。
「鼠を?」
何の話か分からなかった。
この近くに、猫でもいるのだろうか。
鼠を食う。
それ自体なら、別に不思議ではない。
猫は鼠を捕るものだ。
ならば、なぜわざわざ気をつけろと言うのか。
「それ、どういう――」
宗吉が尋ねるより先に、小僧が背を向けた。
歩き出す。
ぺた。
小さな足音がした。
「おい」
宗吉は呼んだ。
小僧は止まらない。
ぺた。
ぺた。
暗い道を遠ざかる。
宗吉は戸口に立ったまま見送った。
やがて笠も見えなくなった。
宗吉はしばらくそこにいた。
「何だったんだ?」
呟く。
猫が鼠を食べる。
考えても分からない。
ただの当たり前の話にしか思えなかった。
戸を閉じた。
床へ戻る。
弥一はまだ眠っていた。
宗吉は横になった。
しばらく考えたあと、ようやく眠った。
翌朝、弥一が起きてくると、宗吉は飯を食べながら昨夜の話をした。
「そういや、昨日のやつ、来たぞ」
弥一の手が止まった。
「何が?」
「後追い小僧」
弥一の顔が宗吉へ向いた。
「どこに」
「ここ」
宗吉は戸のほうを顎で示した。
「夜中、外に立ってた」
弥一は何も言わなかった。
「気配がしたから開けてみたら、あいつだった」
「……開けたんです?」
「うん」
弥一の眉が寄った。
「なぜ話しかけたんですか」
宗吉は少し呆れた。
「何でって、あいつがここまで来たんだよ」
「だからって」
「用があったんだろ」
弥一は黙った。
「実際、喋ったぞ」
宗吉が言う。
弥一の目から、寝起きの気配が消えた。
「何て?」
「気をつけろって」
「……何に」
「それが分かんねえんだよ」
宗吉は箸を置いた。
「猫が鼠を食べる、って」
弥一の動きが止まった。
見落としてもおかしくないほど、短い間だった。
「猫が、鼠を?」
「うん」
弥一は宗吉を見た。
それから、戸のほうを見る。
「それだけです?」
「それだけ」
「ほかには」
「何も。言ったら帰った」
弥一は黙った。
夕方から、弥一は後追い小僧を避けたがっていた。
危ないものなのだろう。
家まで来たと知って、警戒しているのかもしれない。
だが、それだけではないようにも見えた。
しばらくして、弥一が言った。
「……そうですか」
それだけだった。
「何だよ」
宗吉は聞いた。
「知ってることがあるのか?」
「いや」
弥一は飯へ目を落とした。
「別に」
宗吉はなおも弥一を見た。
問い詰めても、話す気はなさそうだった。
今までにも何度か見た顔である。
宗吉はそれ以上聞くのをやめた。
けれど、今回は忘れる気にはなれなかった。
後追い小僧が自分たちの家まで来たと知った途端、弥一は妙に口を閉ざした。
そのことのほうが、小僧の残した言葉よりも気にかかった。




