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14/16

732円の庭、世界の崩壊を食う

 土曜日。C-7に着いた瞬間、足が止まった。


 耳鳴り。


 先週まで穏やかだったはずの空気に、微かなノイズが混じっている。高周波の、キーンという金属音。ダンジョンの通常階では常に鳴っている音。でもC-7では消えていたはずの音。


 庭に入った。薄紫の空が、少し濁っている。いつもは透き通った薄紫が、今日はわずかに灰色がかっている。


 土に手を当てた。


 脈動がおかしい。いつもの穏やかな拍動じゃない。速い。焦っている。人間でいえば頻脈だ。


 先週見つけた「継ぎ目」——あの硬くて冷たい折り目に手を伸ばした。


 脈動が速い。先週のカチカチどころじゃない。振動している。細かく、痙攣するように。


 ミン三郎。


 根止め壁の底辺に沿って、根が一斉に動いていた。壁を越えようとしているんじゃない。壁の向こう側にある何かに、全部の根が向きを揃えて進んでいる。継ぎ目の方向。


「……何してるんだ、ミン三郎」


 返事はない。植物だ。


 でも動きが明確だった。先週まではランダムに壁を小突いていたのに、今日は全ての根が同じ方向を向いている。


 嫌な予感がした。


 †


「おかえりなさい。今週もダンジョン庭配信を始めます」


(Comments)

【◆常連A】おかえりー

【◆常連B】今日も来たぞ

【新規53】先週のアーカイブから来ました! トマトの庭!

【新規54】初見です。チビケルちゃん見に来た

【◆gardenFan_03】先生、顔色悪くない?

【◆GreenThumb】Good evening. How are things?(こんばんは。調子はどうですか?)


「えっと、今日はちょっと……庭の様子がいつもと違うので、先に報告します。空気が少し変です。今までの過ごしやすさとは打って変わって耳鳴りがします」


(Comments)

【◆gardenFan_03】耳鳴り?それって不味くないか

【◆カンナ先輩】空間振動値が上がってるんですか?

【◆毒舌キノコ】……計器はどうだ


 GreenThumbさんにもらったEM計を起動した。


 数値がおかしい。


「EM値が……安定しません。0.4と2.1の間を行ったり来たりしてます。先週は1.2で安定してたのに」


(Comments)

【◆gardenFan_03】乱高下!?

【◆カンナ先輩】それ、通常のセーフエリアでもあり得ない変動幅ですよ

【◆毒舌キノコ】……嫌な振れ方だ


 そのとき、足元がぐらっと揺れた。


 地震。じゃない。地面が揺れたんじゃなく、空間が歪んだ感覚。水面に石を投げたときの波紋が、足の裏を通り抜けた。


「わっ」


(Comments)

【◆常連A】今の何?

【◆常連B】画面揺れた?

【新規53】え、地震?

【新規55】なにこれ怖い

【◆gardenFan_03】いや、カメラは固定のはずだ。画面の歪みは空間ノイズだろ


 薄紫の空にヒビが入った。


 比喩じゃない。天井を覆う薄紫の光の層に、実際にヒビのようなノイズラインが走った。灰色のモザイクが、紫を侵食するように広がっていく。


 遠くから、壁が崩れる音がした。C-7の外。ダンジョンの通路のどこかで、空間が剥がれ落ちている。新宿御苑跡ダンジョンそのものが軋んでいる。


 カケルが飛び立った。


 チビケルがその後を追った。2羽が薄紫の空に向かって、本能のままに飛んでいく。逃げている。ダンジョンの生き物として、空間が壊れることの意味を体で知っている。


 庭に残ったのは俺と、4体の植物だけだった。


「え、何、これ」


(Comments)

【◆gardenFan_03】EM値が振り切れてる! 数値飛んでる!

【◆カンナ先輩】これ、空間の安定度が落ちてるんじゃ

【◆毒舌キノコ】つちのこ先生。落ち着いて聞け。それは「空間崩壊の前兆」だ

【◆GreenThumb】...(……)


「空間崩壊?」


(Comments)

【◆毒舌キノコ】座標が不安定になる現象だ。最悪の場合、そこにいる人間ごと、座標が『なかったこと』にされる

【◆gardenFan_03】は?逃げたほうがいいんじゃ

【◆常連A】先生逃げろ!

【新規55】やばいやばいやばい

【新規56】逃げて!!

【◆常連B】庭は!?


 佐伯さんが飛び込んできた。


 文字通り走ってきた。息が上がっている。手に計測器を抱えている。


「柏木さん!管理局のモニターが新宿御苑跡ダンジョンで異常値を観測しました!もって数分、崩壊が始まります!」


「佐伯さん、今ちょっと配信中なんですけど」


「配信どころじゃないです! 座標安定度が急落して——」


 空が軋んだ。2回目の揺れ。さっきより強い。


 画面が一瞬、真っ暗になった。


(Comments)

【◆gardenFan_03】画面止まった!

【◆常連B】映ってる?

【新規55】つちのこ先生!聞こえますか!


 映像が戻った。ノイズが走っている。画面の端がちらちら歪んで、コメント欄の文字が一瞬読めなくなった。空間の不安定さが配信そのものを揺さぶっている。


 †


 逃げるべきだったのかもしれない。


 でも、庭がある。


 上空で鳥獣型のモンスターが飛び立っている。こんなにいたのかと驚くほどの数が、薄紫の空を埋め尽くして逃げていく。カケルとチビケルも、その群れに紛れた。


 でも植物は逃げられない。根を張った場所から動けない。


 逃げたら、この庭はどうなる。


 土に両手を突っ込んだ。


(Comments)

【◆常連A】先生!?

【◆gardenFan_03】何してる!

【新規56】逃げないの!?

【◆毒舌キノコ】……逃げるんじゃないのか


 壁を厚くする?


 違う。壁で防いだところで、崩壊エネルギーは壁の向こうに溜まり続ける。押し返したって、またこっちに来る。ただの延命だ。


 じゃあ、食べさせたら?


 崩壊エネルギーを、植物に食べさせる。エネルギーを栄養に変える。以前ラベ四郎で覚えた「逆方向フロー」。あのときは、小さなラベ四郎1体が相手だった。


 指先から、根の方向に意識を流した。


 今は——


 最初に応えたのは、ミン三郎だった。


 あいつはとっくに動いていた。


 指先を根の方向に伸ばしたとき、ミン三郎の根はもっと近く、すぐ手の届く範囲にいたのに、根の先端が指の感覚の外にある。


 触れた。瞬間根止め壁を突き破って、継ぎ目に向かって一斉に突進した。35センチの壁を潜り抜け——いつの間に覚えた——継ぎ目の真上に到達している。


 根の先端が「灰色の粉」に触れた。空間の折り目から漏れ出している崩壊エネルギー。


 継ぎ目の真上に根を広げて、灰色の崩壊エネルギーを片っ端から飲み込んでいる。飲むたびに根が太くなり、先端がさらに伸び、そこからまた細い根が枝分かれしていく。暴君が、ここぞとばかりに領土を広げている。


 ——ミン三郎。お前、これを待ってたのか。


 根が継ぎ目に沿って走る。灰色の粉を吸い込んで、土のあいだから小さな緑の芽を吐き出す。食べて、変えて、伸びて、また食べて。158円のスペアミントが、空間の崩壊に対して一歩も引かないどころか、前に出ている。


(Comments)

【◆gardenFan_03】ミン三郎の根が出てきた!

【◆カンナ先輩】何が起こっているの!?


 爪の間が焼けるように冷たい。凍傷に似た痛み。崩壊エネルギーが土の中を流れていて、それが指先を通り抜けていく。真冬に祖母の庭で水をやったとき、指先が赤くなって感覚がなくなったのと同じだ。あのとき祖母が、両手で俺の指を包んで温めてくれた。


 今はどんなに痛くても止めるわけにはいかない。


 次に、バジ太郎。


 198円のバジルは、ミン三郎ほど派手じゃない。根は短い。範囲も狭い。でも、ミン三郎が吸い込んだ崩壊エネルギーの「おこぼれ」——根を伝って土に滲み出した灰色の流れを、静かに、確実に吸い上げている。


 葉の色が変わった。暗かった緑が、一段明るくなる。さらに、葉の縁から新しい葉がにじみ出るように伸びていく。さっきまでなかった小さな葉芽が、次々に開く。薄紫のダンジョンの天井を押し返すみたいな、鮮烈な緑。エネルギーを食べて、光と葉に変えている。


 ラベ四郎。


 蕾が5つ。さっきまで固かった蕾が、一気に膨らみはじめた。表面の紫が濃くなって、筋のあいだから花びらの色がにじむ。ぱん、と小さな音がした気がして、1つ、2つと花が裂けていくみたいに開いた。


 花が開くごとに、香りが跳ねた。ラベンダーの、甘くて鋭い匂い。普段なら一日かけて広がるはずの香りが、数秒で一面に満ちていく。


 匂いが広がると、空気が変わった。


 耳鳴りの高周波が、ラベ四郎の周囲だけすっと引いていく。香りの膜。さっきまで「蕾」だった株の根元から、淡い紫色の靄みたいなものが立ちのぼり、崩壊エネルギーのざわめきとぶつかって、音を食べている。128円のラベンダーが、一瞬で満開まで駆け上がって、匂いと靄で崩壊の余波を押さえ込んでいる。


(Comments)

【◆毒舌キノコ】……ラベンダーの匂いがしてこないか

【◆常連B】アロマバリア?


 そして、トマ次郎。


 248円のトマト。3個目の実が膨らんでいる。まだ緑。でも今——実の表面がわずかに赤みを帯びた。崩壊エネルギーが根を通ってトマ次郎に流れ込み、実の中で何かに変わっている。


 茎が鳴った気がした。ぱん、と。実が内側からふくらむ。さっきまで「膨らみかけ」だった輪郭が、みるみる張りを増す。表面の細かい産毛が光を弾いて、うっすらとオレンジ色が混じっていく。


 エネルギーが、甘さになっていく。


 732円。


 バジ太郎が浄化し、トマ次郎が変換し、ラベ四郎が防壁を張り、ミン三郎が前線を押し上げる。732円の植物たちが、732円なりの方法で、崩壊と殴り合っている。


 交通整理に集中する。こっちの崩壊エネルギーをミン三郎へ。あっちの余波をバジ太郎へ。トマ次郎が飽和しそうだからラベ四郎に回す。Excelの行を整える感覚で、庭の中を流れるエネルギーを捌く。水やりの順番を変えているのと同じだ。特別なことじゃない。庭の手入れだ。


 怖い。手が震えている。震えるたびに、指先を通るエネルギーの流れが乱れる。俺が怖がっている分だけ、庭も揺れている気がした。


 指先の感覚がなくなり始めていた。土の温度が分からない。さっきまで温かかったバジ太郎のエリアと、冷たかった継ぎ目の境目が、手のひらの上で溶けて区別がつかなくなっている。庭師にとって一番怖いこと——土が感じられない。


 視界の端が白く滲んだ。植物の位置が分からなくなりかける。どっちがミン三郎でどっちがバジ太郎か、目では追えない。手の感覚だけで判断している。感覚が消えかけている手で。


 配信中だ。3,600人が見ている。佐伯さんが横で計器を持ったまま固まっている。空にヒビが走っている。


 でも、植物が動いている。4体が、それぞれの持ち場で、食べている。伸びている。


 祖母の声が聞こえた気がした。聞こえてはいない。死んだ人の声は聞こえない。


 でも——手の感覚がある。


 ——重い。


 小学生のとき、祖母の庭で持ったじょうろの重さだ。


 水が土に染みていくのが嬉しくて、でも上手じゃなくて、根元を水たまりにしてしまったあの日。


 祖母は笑って、俺の泥だらけの手を温かい手で包んでくれた。「多すぎても大丈夫。土が吸ってくれるから」


 今も同じだ。


 崩壊エネルギーが多すぎる。俺の手には余り、爪の間を真冬の水道管のような冷たさが焼き切ろうとしている。


 けれど、土が——植物が——猛然とそれを吸い上げていた。


 極限の恐怖と冷気の中で、懐かしい、喉の奥から旋律がせり上がってくる。


 「んふふふん、ふふん」


 祖母の鼻歌。無意識に漏れ出したそれは、震える指先を通じて土へと叩きつけられた。


 その瞬間、庭全体の脈動が、ハルの心拍ではなく「鼻歌のリズム」に同期し、爆発的に膨れ上がる。


 佐伯さんは見ていた。


 計器を——置いた。


 手から滑り落としたんじゃない。科学者がデータを追うことを放棄し、目前の「奇跡」に、ただ圧倒されることを選んだのだ。


 ハルが鼻歌を刻むたび、空間に不可視の波紋が広がる。


 薄紫の空を裂いていた灰色のヒビが、旋律の糸で縫い合わされるように閉じていく。


 モザイク状の崩壊が、鼻歌の一拍ごとに鮮烈な薄紫へと「復元」されていく光景。


 佐伯さんは、もはや数値を追うのをやめ、計器を胸に抱きしめた。


 まるで、科学の敗北を認めるように。あるいは、この尊い一瞬を、心臓の鼓動と一緒に刻み込もうとするように。


「……ヒビが。空間が、歌に合わせて……治っていく……」


(Comments)

【◆gardenFan_03】空のノイズが消えていく!!

【◆毒舌キノコ】……おい。空を見ろ。ヒビが。旋律に合わせて、1本ずつ——

【新規57】何これ何これ何これ

【◆GreenThumb】...(……)

【新規57】奇跡?


 バジ太郎の緑が、一段どころか二段くらい明るくなっていた。葉の枚数がさっきより増えている。新しい葉が、茎の節から次々と顔を出し、ダンジョンの薄紫を押し返すみたいに広がっている。


 トマ次郎の実は、さっきまで「色づき始め」だったはずの3個目が、いつの間にかオレンジを通り越して、深い赤に近づいている。表面に走る筋がはっきりして、重さに耐えきれず少しだけ枝がしなっていた。


 ラベ四郎は、もう蕾じゃない。5つ全部が開ききって、その周囲にさらに小さな蕾が新しくつき始めている。紫の花の輪の真ん中から、香りの層が幾重にも立ちのぼって、崩壊のざわめきを包み込んでいた。


 ミン三郎の根は——止まっていた。暴れ回っていた根の先端が、継ぎ目の上で静かに張りついている。食べ尽くしたのだ。継ぎ目から漏れていた灰色の粉は、もうどこにも見えない。代わりに、継ぎ目に沿って薄い緑の筋が走っている。


 732円帝国が、ダンジョンの崩壊を食い尽くして、庭の形を塗り替えていた。


「佐伯さん、EM値」


「あ——安定し始めて……1.2……1.15……1.08……」


 下がっている。乱高下が収まっている。


 でも体が限界だった。


 視界の端が白く滲む。意識が薄れかける。両手から魔力を出しながら、鼻歌を歌いながら、4体の植物全部にエネルギーを流し続けている。体が持つわけがない。D級だ。月額手当3,000円の体だ。


 鼻歌が、止まった。


 声が出ない。喉が締まった。消耗のせいだと思った。でも——違う気がする。喉を締めたのは、消耗じゃなくて、もっと奥のほうにある何かだ。何かが怖い。空間崩壊じゃない。もっと別の何かが怖くて、喉が凍った。


 旋律が途切れた。


(Comments)

【◆gardenFan_03】鼻歌止まった

【◆常連A】先生!

【◆カンナ先輩】顔色が……!

【新規55】大丈夫なの? 誰か助けて


 そのとき、GreenThumbから空のコメントが送られてきた。


【◆GreenThumb】——


 そういえば初めてだ。配信を始めてからあの人から、コメントが、:)が、送られてこなかったことはなかった。


 空コメントなんて初めてだ。


 胸の奥がひゅっと冷えた。崩壊でもダンジョンでもなく、遠くのどこかで、

 人の線が、突然か細くなっていくような感覚。


「……GreenThumbさんも、今どこかで頑張っているんだろうか。それなら」


 喉がまだ固い。それでも、無理やり息を押し出す。声にならない声で、旋律の続きを思い浮かべる。祖母の台所の歌。


「ここで諦めるわけにはいかない……!」


 最後の力を、指先に集めた。土の中の4体へ、そして画面の向こうへ。


(Comments)

【◆gardenFan_03】何が起こってるんだ世界で

【◆毒舌キノコ】……


 EM値が——


「……1.03。1.01。……0.98」


 佐伯さんの声が震えている。


「安定。……安定しています。全エリア」


 止まった。


 全部止まった。


 空を見上げた。


 薄紫。


 ヒビはない。灰色のモザイクもない。さっきまで崩壊しかけていた空が、いつもの、透き通った薄紫に戻っている。


 耳鳴りが消えていた。


 ラベ四郎の香りだけが、静かに漂っている。


 

お読みいただきありがとうございました。

次は明日18:00投稿予定です。


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― 新着の感想 ―
上手く説明出来ないけど登場人物(植物?)の頑張りが伝わって来たようでなんだが久しぶりに小説読んで涙が出てきた。
すごい描写で惹き込まれるね。これが最初のシーンに繋がったりするのかな?楽しみ
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