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102:忍び寄る影

■静かに削られる心


 ピークタイムも過ぎ、バイトの終了時間が近づいた午後四時ごろ。


 心優が厨房前のカウンターに、天ぷら御膳を取りにやってきた。

 目がやたらキラキラしている。


「わぁ、この茶碗蒸し、たっくんが作ったの?」

 心優が指差したのは、天ぷら御膳に添えられた茶碗蒸し。

 何を隠そう、おれが作ったものだ。


「まあな。正確には、飯田さんに教えてもらいながら、だけど」

 飯田さんは約束通り、おれに和食の基本を少しずつ叩き込んでくれている。


 この茶碗蒸しも飯田さんの指導がガッツリ入ったが、最終的には「客に出してOK」と許可をもらえた。

 家に帰ったらもう一度作ってみよう。姉ちゃんの喜ぶ顔を見るのが楽しみだ。


 それと―― まだ心優には言っていないが、バイト代が少し貯まったので、次の土曜日に姉ちゃんと心優の家族を食事に招待するつもりだ。


 飯田さんに相談したら、社員割引の割引率を五割にしてやると言ってくれた。

 半額だなんて、飯田さんは店長より権限持ってそうだ。


 その代わり、一人だけ仲間外れは可哀そうだから心優も招待してやれと言われた。

 バイトを始めてまだ一週間も経っていないのに、心優は飯田さんにすっかり気にいられたみたいだ。

 そして土曜日までにいくつか料理を教えてくれると約束してくれた。


 ふと、茶碗蒸しに目をやると、心優が蓋にそっと手を伸ばして――


「おい、開けるなよ」

 即座に制止する。


「え~、なんで? 見たい!」

「茶碗蒸しの蓋を開けるのは、食べる人の楽しみなんだから」

「むぅ…… ケチ!」

「いいから文句言わずに、さっさと持っていけよ」

 そんな軽口を交わしていると、心優が急に真剣な顔になった。


「それはそうと、鈴ちゃん、今日はちょっと様子がおかしいんだよね。なんか元気がない感じ」

「えっ、高原さん、調子悪そうなの?」

 気が付くと、店長が心優の後ろに立っていた。


「あっ、店長!」

 心優が少し驚きつつ振り返る。


「それで、高原さんの様子は?」

 店長の顔には心配の色が浮かんでいる。

 眉が下がってるしな……


「鈴ちゃん、なんか体調悪そうなんです。さっきもボーッとしてトレイ落としちゃうし、顔色もよくなくて。今日は早めに帰ったほうがいいんじゃないかと思うんですけど……」

「そうなんだ、ちょっと高原さんの様子を見てくるよ。高原さんはうちの貴重な戦力だからね」

 そう言い残し、店長はすぐにホールへ向かった。


「心優、冷めないうちに早く持っていけ」

「うん」

 心優がホールへ向かうのと入れ替わるように、悠斗がカウンターへ戻ってきた。


「鈴ちゃんの調子はどう?」

「……ちょっと、精神的にまいってる感じ」

 悠斗の顔にも、隠しきれない心配が滲んでる。


「今、店長が様子を見に行ってるから、もし早退することになったら家まで送ってやれよ」

「でも、おれが抜けたら人手が足りなくなるし」

「そっか、今日は美帆さんは休みだしな」


 そう、美帆さんがいれば多少人が減ってもなんとか回るだろう。

 でも、いないものは仕方がない。

 いつもテキパキとホールを仕切る彼女の存在の大きさを、こういうときに痛感する。


「まぁ、まずは店長がなんていうかだけど、あの様子だと、早退させてもらえると思う」

「そうだな…… 後で鈴ちゃんと話してくる」


■狙われた帰り道《POV:鈴》


 鈴はいつもより一時間早くアルバイトを切り上げ、山手電鉄の駅へと向かっていた。


 ピークタイムが過ぎたとはいえ、店内では心優たちが忙しそうに動き回っている。

 バイト仲間の姿を横目に見ながら、鈴は胸の奥にどうしようもない後ろめたさを感じていた。

 途中で仕事を切り上げるのは、どうしても誰かに負担をかけてしまう。

 申し訳なさだけが募るばかりだった。


 しかし、体調を気遣ってくれた店長の言葉を思い出し、鈴は自分を納得させるしかなかった。

 悠斗は「一緒に帰ろう」と言ってくれたが、鈴はそれを断った。


 悠斗の仕事が終わるまで待つよりも、一刻も早く帰るべきだと感じたからだ。

 そして何より、エヴァにそう指示された。


√ その角を左へ曲がれ。

 不意に、頭の中でエヴァが囁いた。

 鈴は思わず足を止め、首を傾げる。


「でも、駅へは真っ直ぐ行かないと……」

 そう呟きながら軽く首を振る。

 エヴァが道順を知らないはずがない。

 なにか不測の事態が起きたのだ。

 気づけば、鈴の足は自然と左へ向かっていた。


√ 入れ替わるぞ。

 その言葉が届いたと同時に、視界はぼやけ意識が遠のく。

 反射的に足を止めようとするも、体は鈴の意志を離れて動き始めていた。

 角を曲がったところで、鈴は完全に自分の体のコントロールを奪われた。


「あれっ? どこに行っちゃったんだ……」

 青島刑事が周囲を見回しながら、困惑した声を漏らす。

 その顔には焦りが浮かび、額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 エヴァは電柱の影に身を潜め、わずかに顔を覗かせて尾行してきた青島刑事の様子を冷静に観察していた。


 「尾行は得意じゃないみたいだな」

 鈴は、エヴァの瞳を通して世界を覗き込んでいるような奇妙な感覚に包まれる。

 自分の体にいながら、エヴァの視界を共有している。

 慣れたはずなのに、やはり落ち着かない。


 エヴァは電柱を周り込みながら、青島刑事の視界に入らないよう慎重に動く。

『エヴァさん…… 刑事さんは、どうして私を尾行しているのですか?』


 鈴の声がエヴァの意識に入り込む。

 しかし、エヴァは冷たく切り捨てるように返した。


「さぁな、お前が気にする必要はない」

 それだけ言うと、エヴァは一瞬の隙を突いて電柱から抜け出し、大通りへと向かう。足取りが速い。

 どこか焦っているように思えた。


(そういえば、アルバイト中に少しの間、意識が入れ替わったけど…… あのときからエヴァさんの様子が変だ)


 鈴の脳裏に、トレーを落としてしまったときの光景がよみがえる。

 あの時、心優が驚いて駆け寄ってきた。


 そんなことを考えている間に、ゆるやかな上り坂を上がり国道までたどり着く。

 ここの横断歩道を渡れば、駅まであと十五分ほど。


(エヴァさん、どうしてこんなにイライラしてるんだろう……?)


 鈴はエヴァの感情をすべて読めるわけではないが、以前よりは敏感に感じ取れるようになっていた。

 信号が青に変わり、エヴァは横断歩道を渡ろうと足を速める。

 そのとき――


 ドンッ!!

 乾いた衝撃音に、鈴は息を呑んだ。


 視線の先、駅へと続く歩道に植えられた街路樹が、幹の中ほどからバキリと音を立てて折れ、ゆっくりと傾いていく。

 その下を歩いていた主婦や小学生たちの悲鳴が一斉に上がった。

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