99.酒虫を巡る争い、名誉という鎖
ラインやライルと同じく、アオ・ローデンもまた孤児だった。
幼い頃、両親は揃ってウルフウェーブの中で命を落とした。
それからは族長ハクが彼を手元へ引き取り、自ら育て上げている。
覚醒の儀で判明したアオの資質は中等だった。
しかし、その空界は一般的な中等資質を大きく上回り、限りなく上等へ近かったため、族人からは「偽上等」と呼ばれていた。
優れた資質と落ち着いた性格を備えたアオは、長年にわたり、ハクから次期族長候補として育てられてきた。
だが、真の上等資質を持つライルが現れたことで、族長の座を継ぐ可能性は完全に失われた。
それでも、アオは嫉妬も怨恨も抱かなかった。
むしろ一族に優れた後継者が現れたことを心から喜び、
ハクの指示どおりライルを自らのチームへ迎え入れ、細やかに面倒を見ている。
温和で度量が広く、誰に対しても分け隔てなく接するアオは、族内でも極めて高い評判を得ていた。
地球に似た人物を求めるなら、楠木正成の忠節と、藤原実資の公正さを併せ持つ人物といえるだろう。
しかし、彼の最期は悲惨なものだった。
一年後に起きる大規模なウルフウェーブで、北門の防衛線が狼群によって食い破られる。
開いた穴を塞ぎ、集落内の族人を守るため、アオは二環の身で三環精霊を強引に催動し、たった一人で獣群の前へ立ちはだかった。
最終的に北門の防衛には成功したものの、その代償として空界は完全に崩壊する。
血肉は絶えず木質化し、最後には人の輪郭を残した一本の樹木へ変わり果て、夜明けを迎える前に命を落とした。
そのためアオは、ラインの前世の記憶にも深い印象を残していた。
しかし今、ラインが静かにため息をついたのを見ても、アオは相手が自分の死を思い出しているとは夢にも思わない。
酒虫を手放すべきか、迷っているのだと考えていた。
「酒虫の限界には、君もすでに気づいているはずだ」
アオは穏やかな口調で、自ら説明を始めた。
「酒虫はあくまで一環精霊であり、精錬できるのは青銅精神力だけだ。
すでに二環へ進んだ君の空界から生まれるのは赤鉄精神力だから、酒虫はもう役に立たない。
今の君は酒場を所有している、以前より酒虫を養いやすくなったのは確かだが、自分の力を高めてくれない精霊を飼い続けて、何の意味がある?」
少し間を置き、アオは猪口を静かに卓上へ戻した。
「酒虫は君にとって役目を終えたが、他の一環精霊使いにとっては、今も極めて価値が高い。
とりわけ来春の覚醒の儀が終われば、一族には新しい学員たちが入ってくる。
だから今回は、一族を代表して君の酒虫を買い取りたい。
そうすれば君の負担を減らし、酒虫も引き続き一族のために力を発揮できる」
ラインは答えず、猪口の中で揺れる酒を静かに見つめていた。
アオはしばらく考え、すぐに別の可能性へ思い至る。
「売ろうとしないのは、酒虫をさらに煉成するつもりだからか?
私の予想が正しければ、まず二環の白繭へ煉成し、それを土台として三環の昏睡蝶へ進化させるつもりなのだろう」
この煉成経路は広く知られており、必要な材料も比較的手に入れやすい。
昏睡蝶は強い催眠効果を持つ鱗粉を放つことができ、三環精霊の中でもなかなか実用性が高かった。
ただし、中間段階に当たる白繭には、実戦能力が一切ない。
「失礼を承知で言うが、君の資質は下等だ。
今まで酒虫に助けられ、二環へ進むことには成功した。
しかし酒虫は、君が三環の壁を越える助けにはならない」
アオは言葉が刺々しくならないよう、できる限り口調を和らげていた。
「将来、本当に三環へ進めたとしても、そこまでには相当な歳月が必要になるだろう。
その間、君は戦闘能力を持たない白繭を養い続けなければならない」
アオの言葉には、妙なほど誠意が感じられた
「一時的に役に立たない精霊へ大量の資源を費やすより、すぐに戦力を高められる二環精霊を育てたほうがいい。
それに、酒虫の真価は精神力を精錬できることにある。
白繭から昏睡蝶へ進む経路を選べば、その能力は完全に失われてしまう」
精霊の煉成とは、二つの能力を単純に足し合わせることではない。
大半の精霊が持つ核心能力は一つだけである。
新たな精霊を煉成する際には、いずれか一つの能力が主幹となって強化、昇華され、それと相容れない能力は捨て去られる。
六環に達する逆矢でさえ、核心能力は一つしかない。
時間を逆転させる力だ。
シロタマズスキンも同様である。
それはヒスイズスキンの防御能力を受け継ぎ、さらに強化した一方、白イノシシの精霊が持っていた力を増幅する能力までは残していない。
たとえ他人がシロタマズスキンを手に入れても、得られるのは防御力だけであり、何もないところからイノシシの力まで得られるわけではなかった。
酒虫を白繭へ煉成し、さらに昏睡蝶へ変化させた場合も、精神力を精錬する能力は永久に失われる。
この点だけを見れば、確かに惜しい選択だった。
酒虫は精神力を一つ上の小環階へ引き上げられる。
精霊使いにとって、それは同じ量の精神力をより長く使えるだけでなく、空界を養う効率も上がり、環階の上昇を速められることを意味する。
かつて酒飲のカイが選んだのも、白繭から昏睡蝶へ至る経路だった。
昏睡蝶を煉成した彼は、催眠効果を持つ鱗粉で女性を眠らせ、たびたび悪事を働いている。
その後、秘洞で死んだカイの昏睡蝶は長い間餌を得られず、退化を繰り返した末、再び一体の酒虫へ戻っていた。
ラインが依然として答えないのを見て、アオの目がかすかに動く。
ついに、本命となる条件を提示した。
「実は、一族にはまだ公開されていない別の秘方がある。
その秘方に従えば、酒虫をまず二環の月招きの精霊へ煉成し、さらに三環の芳醇酒虫へ進化させることができる。
芳醇酒虫にも、精神力を精錬する能力が残る」
アオはわずかに身を乗り出し、真剣な眼差しでラインを見つめた。
「直接売り渡すことに抵抗があるのなら、別の形にしてもいい」
「君は酒虫を一族へ渡し、材料と煉成に伴う危険は一族が負担する。
芳醇酒虫の煉成に成功した場合、煉成した日から五年間、君にその使用権を与えよう。
煉成に失敗した場合も、酒虫の価値に応じた補償を別に用意する。どうだろう?」
表面だけを見れば、極めて好条件である。
材料も霊石も、煉成に失敗する危険さえも、すべて一族が負担する。
ラインは酒虫を渡すだけで、将来、三環精霊を五年間使える可能性を得られるのだ。
他の者であれば、すでに心を強く動かされていただろう。
しかし、ラインの胸中にあるのは冷笑だけだった。
自らの下等資質で三環へ進むことが、どれほど困難なのか。
彼は誰よりもよく知っている。
前世のラインは、三環の壁を前に百年以上も足踏みした。
偶然の機会から資質を高める精霊を手に入れ、ようやくその天険を越えることができたのだ。
五年間の使用権は、芳醇酒虫を煉成した日から数え始める。
その五年の間、ラインが二環に留まっていれば、白銀精神力しか精錬できない三環の酒虫など、何の役にも立たない。
五年という時間は長く見える。
だが、彼が歩む修行の道に置けば、朝露のように儚く短かった。
アオは一つも嘘をついていない。
語られた条件のすべてが真実だからこそ、この取引は美しく整い、人の心を動かしやすかった。
アオはラインに三環を目指す野心があると見抜き、芳醇酒虫を目の前へ差し出した。
手を伸ばせば届きそうな未来を餌に、自ら酒虫を差し出させようとしたのである。
しかし、アオは初めから一つだけ、根本的な部分を読み違えていた。
ラインには、一族が把握している秘方を使うつもりなどない。
その記憶には、今の自分にさらに適した煉成経路が存在していた。
まず酒虫を二環の四味酒虫へ煉成し、それを基礎として三環の芳醇酒虫へ進化させる経路である。
四味酒虫も芳醇酒虫も、精神力を精錬する能力を失わない。
ただし、四味酒虫の煉成は決して容易ではなかった。
まず煉成には二体の酒虫が必要だが、ラインの手元にあるのは一体だけである。
それに加えて、酸味、甘味、苦味、辛味という、四つの異なる味を持つ美酒を用意しなければならない。
辛味の酒はもっとも手に入れやすく、度数の高い烈酒で条件を満たせる。
酸味にはヤマモモ酒か葡萄酒、甘味にはもち米酒を使うことができた。
本当に難しいのは、苦味の酒である。
ラインの知る限り、秘方の条件を満たす苦酒は一つしかない。
それはヨモギから造られる緑色の酒であり、中州に住む一人の醸造師だけが造ることのできるものだった。
中州は南域から極めて遠く、その間にはいくつもの危険地域が横たわっている。
今のラインが自ら赴けないのはもちろん、商隊へ捜索を依頼したとしても、無事に買い付けられるとは限らない。
もう一体の酒虫も、霊石さえ払えば手に入るようなものではなかった。
ラインが酒虫を手放さずにいたのは、値が上がるのを待っていたからではない。
手に入れた瞬間から、四味酒虫へ至る経路を選ぶと決めていたからだ。
それ以外の方法で煉成することこそ、この貴重な精霊を本当に無駄にする行為だった。
当然ながら、アオがその事情を知るはずもない。
ラインが最後まで頷かないのを見て、アオはしばし沈黙した。
そしてついに、最後の切り札を卓上へ置く。
「もう一つ、話がある」
アオは再び温和な笑みを浮かべた。
「酒虫を一族へ渡すのなら、私が君とライルの対立を仲裁しよう。
少なくとも、家産を賭けた決闘をライルに申し込ませることはない。」
アオはラインをまっすぐに見つめた。
「一族の規則は、君も分かっているはずだ
正式な果たし状を突きつけられた場合、挑まれた側は必ず一度受けなければならない。
勝ち目がないと分かっており、闘技台へ上がった直後に降参するつもりでも、果たし状そのものを拒むことはできない」
ローデン一族は武勇を尊び、挑戦を前に逃げ出す臆病者を必要としていない。
果たし状を受けることは、衝突へ正面から向き合う勇気を持つ証となる。
受けた後に降参を選んだとしても、それは実力が足りなかったことを示すだけで、臆病とは見なされない。
この価値観は、何もないところから生まれたわけではなかった。
厳しい環境と、無数の生死を懸けた戦いを経て、少しずつ形作られた一族の伝統である。
もちろん、理由もなく他人へ挑戦できるわけではない。
両者の間に明確な対立が存在し、挑戦者の要求が族規に沿っている場合、あるいは事前に双方が賭けの条件へ同意している場合に限り、決闘は一族上層部から認められる。
「ライルが掲げる理由は、長年にわたって君たちを育てた叔父夫婦へ、老後の糧となる家産を一部残してほしいというものだ」
アオはゆっくりと語り続けた。
「一族は昔から血縁と親情を重んじている。この要求は、長老たちに認められる可能性が高い
そうなれば、家産をどのように分けるかを決めるのは、君とライルではなく、仲裁を担当する長老になる
君が勝ったとしても、長老から一部の家産を返すよう勧められるかもしれない。
負ければ、手放すものはさらに増えるだろう」
アオは灼けつくような眼差しでラインを見つめ、より重々しい声で続けた。
「だが、君が自ら酒虫を一族へ譲れば、それは一族への貢献になる。
その功績を、一族は決して忘れない。
私個人からも約束しよう、今後ライルが、家産を理由として君へ決闘を申し込むことはない」
その保証は、実に巧妙だった。
ライルは家産を理由にラインへ挑まなくなる。
しかし、別の理由さえあれば、再び兄へ決闘を申し込むことはできる。
アオもハクも、ライルが正面からラインを打ち破ることを望んでいた。
自らの手で心の陰を完全に払い、真の自信を築かせるためである。
ラインは不意に笑った。
二人が席についてから、会話の流れは常にアオが握っていた。
利害を一つずつ分析し、次々と条件を積み上げ、ラインが自ら取引を受け入れるよう仕向けてきたのである。
そして今、ラインは初めて本当の反撃へ出た。
「決闘になれば、私が必ず負けるとでも思っているのか?」
アオも微笑みを崩さず答えた。
「戦いには多くの不確定要素がある。結果を事前に断言できる者はいない。
だが、ライルはすでに月華羽衣を持っている。
君が今まで公にしてきた手段だけを見るなら、勝ち目は確かに薄い」
「そのとおりだ」
ラインの笑みは、ますます深くなった。
「私は負ける、しかも、誰の目にも惨めに映るほど、徹底的に負けてみせる」
アオの笑みが、わずかに固まった。
ラインはその目を正面から見つめ、さらに言葉を続ける。
「私はすべての族人が見守る前で降参し、両親が残した農地、家屋、酒場、九葉生気草を、残らずライルへ渡そう」
「翌日からは、ぼろをまとって道端で眠る。事情を尋ねる者に会うたび、すべて正直に答えるつもりだ」
ラインは静かな声で語った。
「別の者を父母として迎えた実の弟が、上等資質と族長から受けた厚遇を笠に着て、決闘で私を打ち負かした。
そして、実の両親が私へ残した遺産をすべて奪い、自分の養父母を養うために差し出したのだ、と
その後も私は集落をさまよい、物乞いを続ける」
「私がなぜそこまで落ちぶれたのか、すべての者が知るまでな」
「君は……!」
アオの表情が激変した。
顔に浮かべ続けていた余裕と自信が、初めて完全に消える。
彼は、ラインの本当の意図を理解していた。
これは、何一つ隠そうともしない露骨な脅迫である。
ライルは次代の族長として育てられている。
将来ローデン一族を率いるつもりなら、族人を心服させるだけの名望が必要だ。
だが、養父母のために資質と族長の後ろ盾を利用し、実の兄を虐げた。
両親の遺産を奪い、兄を路上へ追いやった。
そのような噂が広まれば、ライルの名声は壊滅的な打撃を受ける。
まして、ライルはすでにラジェット夫婦の養子となっており、族規の上でも、その遺産を継ぐ資格を失っている。
養父母を気遣うことはできる。
二人のために、ラインとの間を取り持つこともできる。
しかし、正当な継承者を自らの手で絶境へ追い込むことだけは許されない。
地球であっても、そのような行為は人々から蔑まれるだろう。
ましてここは、血縁と親情、家族への責任を何より重く見る世界である。
ライルが外道を歩むつもりなら、名声など気にする必要はない。
だが、彼が歩むのは正道だった。
族長となり、一族全体を率いる者になろうとしている。
そのような人物は自らの名誉を守らねばならず、政敵に繰り返し攻撃されるほど大きな汚点を残すこともできない。
アオは呆然とラインを見つめた。
十分な情報を集め、この少年についても深く理解したつもりでいた。
それが今になって、自分はまだ相手を見くびっていたのだと思い知らされる。
酒を注ぎ、説得を重ねることで積み上げてきた主導権は、一瞬で崩れ去った。
ラインはわずか数言で、アオが決して捨てられないものを正確に見抜いたのである。
一族の未来だ。
ここに座っているのが別の人間なら、ラインはまた異なる言葉を選んでいただろう。
だが、相手はアオだった。
この男は、愚直なまでに一族へ忠実である。
前世では自らの命さえ差し出し、族人のために北門を守り抜いた。
ラインはそこを見抜いたからこそ、ライルの名誉と一族の未来を、まとめて賭けの卓上へ載せたのである。
もっとも、アオも並の人物ではない。
一瞬の動揺から立ち直ると、すぐに冷静さを取り戻し、ラインをまっすぐ見据えた。
「君は、そんなことをしない」
その声からは、先ほどまでの温かさが消えていた。
「その遺産は、君があらゆる手を尽くして取り戻したものだ。
そして、これから修行を続けるための基盤でもある。
自ら手放せば、何を使って資源を買い、どうやって環階を高めていくつもりだ?」
ラインは少しも恐れることなく視線を受け止め、口元の笑みも崩さなかった。
「そのとおりだ、私も手放したくはない。
だから、そちらが私を追い詰めない限り、私もすべてを捨てて、ライルの名誉まで道連れにするつもりはない」
ラインは猪口を手に取り、中の酒を静かに揺らした。
「私は修行を続けるために家産を必要としている。そちらは、ライルの名誉を守る必要がある
互いに失えないものがあるのなら、それぞれ一歩ずつ退くべきだ」
ラインは酒を少し口に含み、再び口を開いた。
「酒虫は売らない。ライルの決闘は、あなたが思いとどまらせる
それが双方にとって、もっとも利益の大きな選択ではないか?」
他の者では、頑なになったライルを説得できないかもしれない。
だが、アオならできる。
そのことを、ラインは一度も疑っていなかった。
酒卓を包む空気が、完全に凍りついた。
二人は卓を挟んで向かい合ったまま、どちらも言葉を発しない。
しばらくして、アオが先に視線を逸らし、手の中にある猪口へ目を落とした。
冬の日差しは変わらず窓から差し込み、深青色の長髪を照らしている。
ただし今、その春風のように穏やかだった顔には、拭い去れない一筋の影が落ちていた。
長い沈黙の末、アオは不意に笑った。
「本当に、少しの損も受け入れる気がないんだな」
猪口の酒を一息に飲み干し、空になった器を卓上へ戻す。
「分かった、君の言うとおりにしよう…酒虫の話は、これで終わりだ。
ライルには、私から決闘を諦めるよう話す」




