97.家業は定まり、野心は未だ尽きず
酒場はさほど広くなかったが、立地にはかなり恵まれていた。
集落東側の門、そのすぐそばに建っている。
東門と北門は、集落の中でもっとも人の出入りが多い二つの門だ。
午後から夕暮れにかけて、仕事や任務を終えた者たちが大勢戻ってくるため、酒場はたちまち賑わいを見せる。
「若旦那様、どうぞお掛けください」
一人の老人が腰を深く折り、恭しくラインに一礼した。
傍らにいた数人の奉公人も慌てて布巾を手に取り、卓や長椅子を何度も強く拭いた。
それから脇に並び、揃ってラインへ愛想のよい笑みを浮かべる。
ラインは首を横に振り、すぐには腰を下ろさなかった。
酒場の中をゆっくりと歩きながら、隅々まで見て回る。
「ここが、私の酒場か」
酒場は平屋建てだったが、地下には酒蔵が設けられていた。
床には大ぶりの四角い青煉瓦が敷き詰められ、店内には八脚の四角い卓が置かれている。
そのうち二脚は壁際に寄せられ、残る六脚には、それぞれ四方に長椅子が据えられていた。
入口を入って真っ先に目に入るのは、暗褐色の長い帳場台だった。
その上には筆や墨、帳簿、算盤が整然と並べられている。
帳場台の後ろには酒棚があり、大小さまざまな酒器が所狭しと置かれていた。
黒陶で焼かれた酒甕もあれば、表面に艶のある磁器の徳利もある。
ラインが店内を見て回る間、老人と奉公人たちは座ろうともせず、ぴたりと後ろについて歩いた。
誰の顔にも、隠し切れない不安が浮かんでいる。
酒場の持ち主が変わるという知らせは、あまりにも突然だった。
前の主人であるラジェット・ローデンは抜け目がなく、使用人に対してもひどく苛烈で、日頃から彼らを息もつけないほど締め上げていた。
そして目の前にいる十五歳の少年は、そのラジェットから酒場を力ずくで奪い返した人物である。
彼らの目には、当然ながらラジェット以上に恐ろしく映っていた。
ラインはふと足を止め、淡々と言った。
「経営は悪くない。ただ、店構えが少々狭いな」
老人は慌てて前へ進み出ると、深々と腰を曲げて答えた。
「若旦那様、例年、夏になりますと、店の外に日除けを張り、卓と長椅子を何脚か並べております。
ただ、今は真冬でございます。外に座りたがる客もおりませんので、ひとまず片づけている次第でございます」
ラインはわずかに目を向け、老人を見定めた。
「お前がここの番頭か?」
老人はさらに深く腰を折り、ますます恭しい声で答える。
「滅相もございません。酒場は今や若旦那様のものでございます。若旦那様がお選びになった者こそ、ここの番頭でございます」
ラインは頷き、残る奉公人たちにも目を向けた。
いずれも、それなりに気が利き、働き者に見える。
地球であれば、店長と従業員たちが結託し、若い新オーナーを欺かないか警戒する必要があっただろう。
だがこの世界では、精霊使いは高みにあり、凡人の命は雑草のように軽い。
たとえラジェット夫婦から裏で何か言い含められていたとしても、二環精霊使いに逆らう度胸まではないはずだ。
「帳簿をすべて持ってこい。それから、茶を一壺淹れてくれ」
ラインは一脚の卓につき、腰を下ろした。
「はい、若旦那様」
番頭は慌てて応じ、数人の奉公人とともに動き始めた。
ほどなくして、十六冊の帳簿がラインの前に整然と積み上げられた。
帳簿はどれも竹紙で綴じられている。
紙には淡い青緑色があり、木材から作られた普通の紙よりも脆く硬い。
しかし、湿気と雨の多い南域の気候には適しており、湿って腐りにくいという利点があった。
ラインは数冊を適当に抜き取り、素早く頁をめくっていく。
時折、口を開いて何かを尋ねた。
番頭は傍らに立ち、一つひとつ慎重に答えていく。
さほど時間が経たないうちに、その額は汗でびっしょりと濡れていた。
ラインは前世、自らの手で魔教を打ち立て、数十万もの教徒を従えていた。
それほど巨大な勢力を維持するためには、各方面との関係を処理するだけでなく、金銭や食糧、物資、帳簿にも通じていなければならない。
たかだか一軒の酒場の帳簿など、普通の者が見れば目が眩むかもしれないが、ラインにとってはすべてが一目瞭然だった。
酒場は九葉生気草に次ぐ、二番目に大きな収入源である。
これだけは、確実に掌握しておく必要があった。
もっとも、帳簿に深刻な問題はなかった。
いくつか取るに足らない誤記や漏れがある程度だ。
凡人である彼らは長年ラジェットに威圧されてきた。
帳簿に大きく手を加えるような真似は、到底できなかったのだろう。
しかし最後の一冊を開いたところで、ラインは今月分として蓄えられていた収入が、すべてラジェットに持ち去られていることに気づいた。
「若旦那様、それは前の御主人様が自ら取りに来られたのでございます。私どもには逆らえませんでした、どうかご賢察くださいませ」
番頭は弁明しながら、しきりに額の汗を拭っていた。
老いた身体はすでに小刻みに震え、顔からは血の気が引いている。
ラインは何も言わなかった。
ただ静かに帳簿を閉じて卓上へ戻し、それから番頭へ目を向けた。
番頭はたちまち、山のような重圧が胸にのしかかるのを感じた。
どさり、と音を立てて跪く。
他の奉公人たちもそれを見るや、揃ってその場に跪いた。
ラインは椅子に腰掛けたまま、静かに一同を見渡した。
奉公人たちは氷雪の中へ放り出されたかのように身体を硬くし、一人として大きく息をすることすらできなかった。
彼ら凡人にとって、酒場の仕事は安定しているうえ、安全でもある。
これほど恵まれた働き口は滅多にない。
もしラインに追い出されれば、今後、同じような仕事に就ける保証などなかった。
十分に肝を冷やさせたと見て、ラインはそれ以上の威圧をやめた。
過ぎたるは、なお及ばざるがごとし。
ラインはゆっくりと口を開いた。
「既往は咎めず、ラジェットが金を取りに来たのなら、お前たちに拒む資格がなかったことも分かっている。
ただ、帳簿を見たところ、お前たちの賃金は確かに少なすぎる。
来月から、奉公人の賃金は二割、番頭の賃金は四割上げる」
ラインは微笑みを浮かべ、彼らに目を向けた。
「真面目に働く限り、それに見合うだけのものは与えよう」
そう言い終えると、ラインは立ち上がり、そのまま酒場の外へ向かった。
跪いていた者たちはしばらく呆然としていたが、やがてようやく言葉の意味を理解した。
奉公人たちはたちまち喜びの涙を流し、頬を濡らした。
「若旦那様の大恩、決して忘れません!」
「若旦那様は寛大でお慈悲深いお方です!これからは命を懸けて働きます!」
「若旦那様は、私どもの救いの親でございます!どうぞお気をつけて!」
背後から、感激に震える声が次々に響いてくる。
額を地面へ何度も打ちつける、鈍い音も聞こえた。
恩威を併せ用いる。
どの世界であろうと、それは上に立つ者が下の者を御するための常套手段だった。
だが、その根幹を成すのは、あくまで威である。
十分な威圧があれば、わずかな恩恵も何倍、何十倍にも大きく感じられる。
反対に、力の裏づけもなく、ただ一方的に施しを与えるだけでは、お人好しという評判しか残らない。
やがて恩恵を受ける者は、他人の善意を当然のものと思い始める。
それどころか、さらなる欲まで抱くようになるだろう。
(だが、人を御する術など、所詮は小道にすぎない。
地球では成功の秘訣として持て囃されるかもしれないが、この世界で真に歩むべき大道は、自らの力を高めることにある。
いや、地球ですら、力こそがすべての根幹だった。ただ、その現れ方が異なっていただけだ)
ラインは、そのことをよく理解していた。
どのような政権であろうと、その基礎にあるものは、突き詰めれば力である。
いわゆる権力とは、力が秩序の中で形を得たものにすぎない。
そして富も、地位も、さらには美貌さえも、力から派生した付属物にすぎなかった。
酒場を出たあと、ラインは残る三棟の竹楼へ向かった。
その三棟は、すでにラジェット夫婦によって貸し出されており、ほとんどの部屋が埋まっていた。
この世界では多産が奨励されている。
ローデン一族の人口も、年を追うごとに増え続けていた。
族人が増えれば増えるほど、集落内部の居住空間は不足していく。
一族は長子相続制を採用していた。
家業の大部分を継げるのは長子だけであり、
それ以外の子供たちは、成人すれば自らの力で生活の基盤を築かなければならない。
家族の政策によって、わずかな農地や霊石を分け与えられる者もいる。
だが、長年外で働き続けても、生涯かけて蓄えた財産では、集落内の竹楼を一棟買うことすらできない場合が多かった。
一つには、精霊の餌代と日々の修行に、莫大な費用がかかるためだ。
もう一つには、集落内部の空間が限られており、家屋そのものが高価だったためである。
集落の外であれば、好きな場所に家を建てることはできる。
だが、安全はまったく保証されない。
荒野には野獣や毒蛇がうろつき、いつ民家へ侵入してくるかも分からない。
とりわけビーストウェーブが発生すれば、集落外の家屋など、どれほど頑丈に造られていようと、その大半は獣の群れに踏み潰されてしまう。
集落を拡張することが、唯一の解決策にも思える。
しかし、それも容易ではなかった。
集落の面積が広がれば、それだけ守らなければならない外周も長くなる。
ビーストウェーブが襲来した際、今のローデン一族の戦力では、あまりにも長い防衛線を維持できない。
さらに集落の内部が広がれば、警戒や捜索も困難になる。
他の集落の精霊使いが密かに潜入した場合、深刻な被害を招く恐れもあった。
歴史上、ローデン集落は何度か拡張を行っている。
しかし、そのたびに後のビーストウェーブで甚大な損害を受けた。
そうした教訓を重ねた結果、現在の集落は、防衛力が支えられる限界に近い広さとなっていた。
ラインは三棟の竹楼を一通り見て回り、家賃や借り手の状況についても尋ねた。
ラジェット夫婦は貪欲ではあったが、財産を経営する能力は確かだった。
三棟とも隅々までよく管理され、家賃も絶妙な額に設定されている。
ならば、ラインが無理に手を加える必要はない。
これまでどおり経営させればよかった。
大まかに計算したところ、三棟の竹楼が生み出す収益は酒場よりわずかに少ない程度で、両者に大きな差はなかった。
全体として、状況はラインの予想以上に良好だった。
ほんの数日前まで、彼はほとんど無一文だった。
所持していた霊石は五個にも満たず、日々の修行すら維持できない、落ちぶれた少年にすぎなかった。
それが今では、一躍、族内でも小金持ちと呼べる立場になっている。
竹楼の借り手には、年中外で任務に追われている二環の女性精霊使いも何人かいた。
ラインがここの新しい家主であり、さらに酒場と広い農地まで所有していると知ると、彼女たちの視線は露骨なほど熱を帯びた。
そこには、隠そうともしない媚びさえ混じっている。
ラインと伴侶になりさえすれば、危険な荒野を年中駆け回り、命懸けで家族任務をこなす必要はなくなる。
安定した住まいを手に入れ、衣食に困らない生活を送る。
それこそ、多くの底辺精霊使いが夢にまで見る行く末だった。
言い換えれば、ラインが望むなら、ここで歩みを止めることもできる。
ラジェットがかつて享受していたような、豊かで安穏とした生活を送れるのだ。
ほんのわずかにその意思を示すだけで、若い女性精霊使いたちが自ら身を寄せてくるだろう。
(だが、こんなものは私が欲しいものではない)
ラインは竹楼の二階に立ち、向けられる熱い視線を意に介さなかった。
手を欄干に置き、わずかに眉を寄せながら、遠くを眺める。
青い山々が連なり、大地に横たわる一人の巨人のようだった。
灰青色の蒼穹を掛け布団にして、深い眠りについている。
山河は広く、世はなお乱る。
強き者は興り、弱き者は沈む。
されど、この身が朽ちぬかぎり、
我が道を阻むものなし。
(重生して以来、私は流れの浮草のように漂い続け、真に身を置ける足場を持たなかった。
苦心の末、ようやく両親の遺産を取り戻し、自分だけの基盤を築いた。
取るに足らないものとはいえ、少なくとも、これで足場は固まった。
次は酒飲のカイの継承を完全に手に入れ、さらに力を高める。
できる限り早く三環に到達し、ここを離れ、天下を渡り歩く!)
ラインの漆黒の瞳に、二つの炎が燃え上がったかのようだった。
ヴェルデン山は、南域十万大山の一つにすぎない。
そして広大な南域でさえ、天下の片隅でしかなかった。
小さすぎる。
あまりにも、小さすぎる!
この程度の場所に、彼の膨れ上がる野心を収められるはずがない。
ラインが真に求めるものと比べれば、他人が夢にまで見て、頭から血を流しながら奪い合うこの家産さえ、取るに足らない一粒の塵でしかなかった。
「兄さん、下りてきて。話があるんだ」
竹楼の下から、不意に声が聞こえた。
ラインの思考が途切れる。
彼はわずかに視線を下げ、その表情を再び冷たいものへ戻した。
いつの間にか、ライルが階下に立ち、顔を上げて彼を見つめていた。
兄弟の視線が宙で交わる。
しばし、どちらも口を開かなかった。
階下に立つライルの全身は、別の竹楼が落とす影に包まれている。
わずかに顔を上げ、眉間に皺を寄せたその瞳には、複雑な光が揺らめいていた。
一方、楼上に立つラインは、冬の日差しを全身に浴びている。
伏せた瞼の奥で、その双眸は夜のように黒かった。
よく似た二つの顔が、同じようによく似た瞳の中へ映り込む。
弟が現れたことに、ラインは少しも驚かなかった。
家産を巡る争いにおいて、ライルはもともと、ラジェット夫婦が持つ駒の中でもっとも重みのある一枚だった。
しかし、それがどうしたというのか。
ラインは高みから影の中にいるライルを見下ろし、胸中で静かに息をついた。
(上等資質だから何だ?結局は、他人に操られる一枚の駒にすぎない……)
(実に、ちっぽけだ)




