96.家産を手に、人生に春来たる
ラインは内務院へ入ると、黄金ミードの入った牛革製の水袋を受付台へ置いた。
応対した中年の精霊使いが栓を抜き、中身を念入りに調べる。
しばらくすると、その顔に驚きの色が浮かんだ。
「分家任務を達成したのか?」
「どう見えますか?」
ラインが聞き返すと、中年の精霊使いは眉をひそめ、厳しい表情になった。
「少年、私が尋ねたことには素直に答えろ。曖昧な返答を続ければ、内務院からの評価にも影響するぞ」
男は紙と筆を取り出し、改めて尋ねた。
「この任務は、お前一人で達成したのか?正直に答えたほうがいい。内務院は後日、現地へ人を派遣して調査する」
「もちろん、一人で達成しました」
ラインは平然と答えた。
「分かった。そう記録しておこう」
中年の精霊使いは顔を伏せ、口元に気づかれにくい冷笑を浮かべた。
二環へ進んだばかりの新人が、単独で黄金蜂の巣からミードを持ち出せるはずがない。
任務の経緯を偽って報告することは、単に任務に失敗するよりも遥かに重い問題となる。
一族が調査を始めれば、ラインは必ず面倒事へ巻き込まれるだろう。
ところが、ラインは続けて口を開いた。
「ただし、少し特殊な事情がありました。
あの日は偵察だけをするつもりだったのですが、偶然にも山熊が蜂の巣を荒らしているところへ出くわしたのです。
黄金蜂が山熊へ群がっている隙に、私はこのミードを持ち出しました」
「何だと?」
中年の精霊使いの筆先が止まり、勢いよく顔を上げた。
ラインは肩をすくめ、淡い笑みを浮かべる。
「そうでもなければ、私一人でこの任務を達成できると思いますか?
そう考えると、わざわざこの任務を選んでくださったあなたにも、感謝しなければなりませんね」
中年の精霊使いはその場で固まり、何とも言い表しがたい表情を浮かべた。
しばらくしてから乾いた笑いを二度漏らし、再び顔を伏せて記録を続ける。
ラインは黙ってその様子を眺めていた。
この分家任務が異常なほど難しかったのは、目の前の男による「配慮」であることを、ラインはよく理解している。
しかし、黄金ミードを提出する以上、当然ながら相応の準備も済ませていた。
内務院が現地へ人を派遣して調べたとしても、ラインの説明と一致する痕跡しか見つからない。
任務はすでに達成され、証拠にも問題はない。
この男が任務の割り当てを担当した張本人であっても、これ以上ラインを妨害することはできなかった。
それこそが、体制の中に身を置く者の不自由さである。
立場は権力をもたらすと同時に、自らの行動を縛る枷にもなる。
しばらくすると、中年の精霊使いは筆を置いた。
「任務の達成を確認した。これより、お前には家産を相続する資格が認められる。
ただし、両親が遺した財産は、今も叔父夫婦が代理で管理している。
内務院が回収するので、三日後にもう一度来て、引き渡しの手続きを行え」
ラインは頷いたが、すぐには立ち去らなかった。
その視線を、男が書き終えた任務記録へ向ける。
「一族の規定では、任務記録を作成したあと、その場で任務達成者本人に内容を確認させることになっています。私にも見せてください」
中年の精霊使いの表情が僅かに変わる。
ラインが内務院の手続きに、これほど精通しているとは思っていなかったのだろう。
男は小さく鼻を鳴らしたものの、結局は記録を差し出した。
ラインは紙を受け取り、一文字ずつ最後まで目を通した。
数百文字に及ぶ記録に、特に問題はない。
最後に記された評価は――「良」。
ラインは記録を返し、目の前の男とラジェットの関係について、さらに明確な判断を下した。
この男はラジェットから利益を受け取り、規則の許す範囲でラインを苦しめることには同意した。
だが、原則を捨てて記録まで偽造するほど、ラジェットと深い関係にあるわけではない。
所詮は、金を受け取った分だけ、相手の厄介事を引き受けたにすぎなかった。
ラインはそれ以上何も言わず、内務院を後にした。
建物から出ると、ラジェットの姿はすでに消えている。
ラインは心の中で冷笑した。
ラジェットが長年かけて築き上げた人脈は、決して狭くない。
しかし、その影響力も内務院全体の働きへ干渉できるほど強大ではなかった。
彼だけではない。
たとえ族長ハクであっても、この件を強引に握り潰そうとすれば、長老たちからの圧力を受け、相応の政治的な代償を払わなければならない。
地球には、「義理と人情の板挟み」という言葉がある。
一方には職責と規則があり、もう一方には人情と利益がある。
組織に身を置く限り、誰もがその二つの間に挟まれることになる。
中年の精霊使いは、ラジェットとの付き合いや受け取った霊石を理由に、難しい任務を選ぶことはできた。
しかし、ラインが任務を達成し、正式な手続きが始まった以上、僅かな私利のために自らの地位と将来まで賭けることはできない。
一度体制の中へ入れば、地位の高低にかかわらず、すべての者が盤上の駒となる。
互いに牽制し合い、自分の意思だけでは動けなくなる。
個人の力が組織全体へ対抗できるほど強くない限り、組織の力だけを利用しながら、何の束縛も受けない自由まで得ようとするなど、愚かな夢にすぎない。
そして今、ラインが利用しているものこそ、ローデン一族という体制だった。
家産を取り戻すことは、もはや覆しようのない事実となっていた。
……
ラジェットの屋敷。
「ラジェットさんよ、この件については、もう私にもどうすることもできません」
中年の精霊使いは客間に立ち、困り果てた様子で溜息をついた。
ラジェットは上座に腰を下ろし、暗く沈んだ顔で何も答えない。
「本当に、もう手はないのですか?」
叔母が堪えきれず尋ねた。
その顔には、焦りと悔しさが満ちている。
中年の精霊使いはゆっくりと首を横に振った。
「すでに内務院の正式な手続きが始まっています。
実権を握る二人の長老のどちらか、あるいは族長が直々に介入しない限り、誰にも止められません」
そう言いながら一枚の目録を取り出し、ラジェットの前へ差し出した。
「ここには、ラインの両親が遺した財産の明細がすべて記されています。
ラジェットさんよ、どうか一つも欠かさず返却してください。私を困らせないでくださいよ」
目録は、びっしりと文字で埋め尽くされていた。
家屋や田畑のような大きな財産から、机や椅子、生活用具に至るまで、すべてが記録されている。
そのほかにも、ラインの両親が死亡したあと、一族によって回収された精霊が含まれていた。
精霊使いが戦死し、その精霊を一族が無事に回収できた場合、精霊は遺産として登録され、正当な相続人へ引き渡される。
これもまた、亡くなった一族の者の子孫を保護するために設けられた制度の一つだった。
叔母は目録へ一度目を走らせただけで、取り乱したように叫び声を上げた。
「駄目です!そんなことは許されません!
これは全部、私たちのものです!あなたも何か言ってください。早く方法を考えて!
この家産を失ったら、私たちには何が残るというのですか?
家の使用人だって、半分以上手放さなければならなくなります!」
ラジェットは勢いよく立ち上がり、叔母の頬を平手で打ち、そのまま床へ倒した。
「何を喚いている!」
彼は激怒し、顔の筋肉を引きつらせる。
「一族の規則にはっきりと定められているのだ!
お前が返したくないと言えば、それで返さずに済むとでも思っているのか?
無知にもほどがある!この愚か者め!」
叔母は頬を押さえ、完全に呆然としていた。
床へ座り込んだまま、虚ろな目で夫を見上げる。
「ふん」
ラジェットは目録を乱暴に奪い取り、歯を食いしばりながら、最初から最後まで目を通した。
両目は血走り、呼吸は牛のように荒い。
額には何本もの青筋が浮かび上がっていた。
「返す!ここに記されたものは、すべて返す。一つ残らず引き渡してやる!」
そこまで言うと、その顔が突如として凶悪に歪んだ。
「だが……ライン、内務院を止められないからといって、私がお前をどうにもできないわけではない。
家産さえ取り戻せば、すべてが終わると思うなよ!」
……
三日後、ラインは内務院から出てきた。
その手には、家屋証文や土地証文、身売り証文の束が握られている。
「これほど豊かな遺産だったとはな」
ある程度は予想していたラインも、家産の全容を実際に目にしたときには、少なからず驚かされた。
およそ一町の田畑、八人の使用人、三棟の竹楼、そして一軒の酒場。
ラジェットがあらゆる手を尽くして、ラインの相続を妨害しようとしたのも無理はない。
三棟の竹楼から得られる毎月の家賃だけでも、現在のラインの修行を十分に支えられる。
酒場に至ってはさらに価値が高く、ローデン集落全体を見ても、酒場は四軒しか存在しなかった。
地球に置き換えれば、複数の賃貸物件と、安定して利益を上げる一軒の店、さらにそこで働く使用人たちを手に入れたようなものだ。
何もしなくても、衣食に困ることはない。
(私の血筋では、三代前に実権を握る長老が一人出たという。これらの家産も、その頃に大部分が築かれたのだろう)
ラインは納得した。
これだけの資産があれば、七体の精霊を養うどころか、その数がさらに倍に増えたとしても、十分に賄える。
だが、ラインが真に注目していたのは、田畑や家屋ではなかった。
一体の精霊である。
今、ラインの懐には、小さく愛らしい一株の草精霊が静かに収められていた。
その根は人参のひげ根のように細く、鮮やかな緑色をしている。
半透明の茎は滑らかで透き通っており、まるで翡翠を削って作られたかのようだった。
九枚の丸い碧緑色の葉が互いに重なり合い、茎を取り囲むように広がって、一つの完全な円盤を形作っている。
二環精霊――九葉生気草。
この精霊自体も治療能力を持っている。
ただし、それだけならば、普通の治療精霊より格段に価値が高いわけではなかった。
九葉生気草が真に貴重とされる理由は、その九枚の葉にある。
葉を一枚ちぎるたび、それは独立した一環の消耗型精霊――生気草へ変化する。
生気草は煉化しやすく、飼育費用も安いうえ、傷を瞬時に治療できる。
二環精霊使いが最もよく用いる、命を守る手段の一つだった。
もちろん、欠点がないわけではない。
一枚の生気草を使用したあと、一時間以内に別の生気草を同じ人物へ使っても、それ以上の治療効果は得られない。
しかし、その程度の欠点で価値が損なわれることはなかった。
一つのチームに所属する治療精霊使いは、通常一人だけである。
複数の者が同時に負傷すれば、治療役が全員の治療に手を回せるとは限らない。
まして、治療役自身が真っ先に戦死することもあれば、混乱の中でチームからはぐれることもある。
そのため、長期間にわたり外で活動する精霊使いたちは、不測の事態に備え、一、二枚の生気草を常に携帯していることが多かった。
ラインが九葉生気草を煉化すれば、その葉を繰り返し摘み取れる。
葉を取ったあと、母株へ精神力を注ぎ込めば、新たな葉を育てることができるからだ。
つまり、この九葉生気草は、生気草を安定して生み出し続ける供給源だった。
持ち運ぶことのできる金鉱。
これこそが、今回手に入れた遺産の中で、最も価値ある財産だった。
(ラジェットが二環頂位にすぎないにもかかわらず、一族の者たちから「影長老」と呼ばれていた理由が、ようやく分かった。
第一線を退いて何年も経ちながら、外で活動する精霊使いたちへの大きな影響力を保っていられたのも、これがあったからか)
ラインは、ようやくその仕組みを理解した。
外で任務を遂行する精霊使いで、傷を負わない者などいるはずがない。
生気草は命を救うことができ、その需要が絶えることはない。
九葉生気草を持っていたラジェットは、生気草を繰り返し生み出し、ほかの精霊使いたちへ売り続けることができた。
長い年月をかけて繰り返された一つ一つの取引が、やがて巨大な人脈へ織り上げられたのだ。
精霊使いたちはラジェットの生気草を必要とし、ラジェットもまた、それを利用して自らの影響力を維持していた。
(一族が血縁と親族間の倫理を、ほとんど鉄則と言えるほど重んじているからこそ、ラジェット夫婦も私とライルを直接殺そうとはしなかった)
ラインの眼差しが、深く冷え込む。
一族の規則による束縛もなく、一族の者の死に対する厳密な調査もなかったなら、これほど莫大な利益を前にしたラジェット夫婦は、とっくにラインとライルを何らかの「事故」に遭わせていたかもしれない。
ただし、家産を手に入れたからといって、すべてが終わったわけではなかった。
ラジェット夫婦が、素直に諦めるはずがない。
(だが、今の私はすでに成長し、二環へ進んでいる。
あの二人が私へ手を出すなら、一族の規則を気にしながら、手足を縛られた状態で小細工を弄するしかない)
「ふん。この先どのような手を使ってくるにせよ、好きにすればいい」
ラインは集落の通りを歩きながら、瞳に鋭い光を宿した。
冬の風が正面から吹きつけ、骨の髄まで凍らせるような寒気を運んでくる。
本当の春が訪れるまでには、まだ長い時間が必要だった。
だが、ラインは知っている。
自らの人生には、すでに春が訪れていた。




