90.血染めの服、病蛇の絶息
ラインがイノシシ王の腹の中で回復させた精神力は、結局使われることがなかった。
今回の小規模なビーストウェーブは、もともとローデン一族上層部が厳重に注視していた。
雷狼の群れが突然現れたことは予想外だったものの、あくまで局地的な異変にすぎない。
知らせが届くや、ローデン一族は即座に対応した。
三人の長老がみずからチームを率いて前線へ赴き、雷霆万鈞で瞬く間に戦況を安定させた。
わずか十分後。
イノシシ王の腹腔に潜んでいたラインの耳に、激しい戦闘音が届いた。
雷狼たちの苦しげな唸り声や悲鳴も混じっている。
援軍が来たのだ。
ラインはそれ以上待たなかった。
腹部の裂け目を塞いでいた女精霊使いを蹴り出し、ぬめる肉をかき分け、全身を血に染めた姿でイノシシ王の体内から這い出した。
警戒していたのは、外にいる雷狼ではない。
精霊使いたちの戦闘が生み出す余波だった。
誰かが攻撃の加減を誤り、月刃やほかの術がイノシシ王の死体に飛んでくれば、中に隠れているラインはわけも分からぬまま命を落としかねない。
そうなれば、誰かに文句を言う機会すら残らない。
血まみれの人間が突然イノシシの死体から這い出してきたことで、雷狼と戦っていた精霊使いたちは揃ってぎょっとした。
何人かは、一瞬だけ動きまで止めてしまった。
ラインの全身にはイノシシの血がべっとりとこびりつき、濡れた衣服が肌に張りついている。
足元には、ちぎれたイノシシ王の大腸まで絡みついていた。
むせ返るような血臭に、近くの精霊使いたちが思わず眉をひそめる。
ラインはまるで気にしなかった。
新鮮な空気を何度か胸いっぱいに吸い込み、こわばった手足を軽く動かしてから、何事もなかったかのように戦場を見渡した。
先ほどの見積もりどおり、イノシシ王の死体の周囲に残っていた雷狼は五頭。
しかも、そのすべてが老い、弱り、病み、あるいは傷ついた個体ばかりだった。
狼の巣が膨張するにつれ、群れの中では食料も生存空間も不足していく。
若く強い雷狼に十分な資源を与えるため、頭狼は定期的に老いた個体や病んだ個体、身体に障害を負った個体を群れから追放する。
追放された雷狼たちは次第に群れを作り、新たな生存圏を求めて周辺の獣群を襲い始めた。
脅かされた獣群は移動を余儀なくされ、さらにほかの野獣の縄張りを圧迫する。
その影響が幾重にも広がり、最終的に今回の小規模なビーストウェーブを生み出したのだ。
とはいえ、この雷狼たちの幸運もここまでだった。
奴らはイノシシ王の肉を大量に食らったばかりで、腹が丸々と膨れている。
動きは鈍り、戦闘力も大幅に落ちていた。
対する援軍の精霊使いたちは体力も十分で、空界の精神力もほぼ全盛の状態にある。
すでに何度も激戦を経験していたサイラスたちとは、まるで条件が違っていた。
戦いが始まるや、雷狼の群れはたちまち劣勢に陥った。
精霊使いにとって、精神力はそれほど重要なものだった。
騏驎も老いては駑馬に劣る。
空界の精神力を大きく消耗すれば、精霊を動かし続けることが難しくなり、戦闘力も急激に低下する。
肉体を強化していない精霊使いなら、精神力を完全に使い果たした途端、経験豊富な凡人の武人にすら劣ることがある。
それもまた、酒虫や黒イノシシの精霊、白イノシシの精霊が珍重される理由の一つだった。
酒虫は精神力を精錬し、同じ量の精神力からより大きな効果を引き出せる。
結果として、精霊使いが扱える精神力の総量を間接的に増やしているに等しい。
一方、黒イノシシの精霊と白イノシシの精霊が強化するのは、精霊使い自身の肉体だ。
一度得た力は、たとえ精神力を使い果たしても失われない。
さらに、一人の強化を終えたあと、その精霊を別の者へ渡して使わせることもできる。
一族全体から見れば、こうした精霊は極めて高い価値を持っていた。
戦闘は長く続かなかった。
五頭の雷狼は、次々と地面に倒れていった。
救援に来たチームも、それ以上戦場の奥へ進もうとはしなかった。
今の戦いでかなりの精神力を消耗し、戦闘力も低下している。
新たな獣群との遭遇を避けるため、彼らはその場に留まり、休息しながら後続の援軍を待つことにした。
彼らは、標準的な五人編成のチームだった。
偵察を担当する精霊使いが外周を警戒し、三人が霊石を取り出して一刻を惜しむように精神力を回復する。
最後の一人である男性の治療精霊使いは、女精霊使いの傍らにしゃがみ込み、その傷を調べ始めた。
しばらくして、治療精霊使いはゆっくりと手を離した。
「死んでいる……」
深い溜息とともに、顔に悲痛な色が浮かぶ。
どうやら、生前の彼女とは親しい間柄だったらしい。
ラインは少し離れた場所に立ち、冷ややかな目でその様子を眺めていた。
彼が気絶させた女精霊使いは、イノシシ王の腹部に開いた裂け目を塞ぐように置かれていた。
今や彼女の右胸は雷狼に食いちぎられ、片方の膝から下も失われている。
腕には巨大な噛み傷が残り、白い前腕骨が空気にさらされていた。
しかし、これらの傷や大量出血が本当の死因ではない。
彼女の命を奪ったのは、心臓麻痺だった。
雷狼は獲物へ牙を突き立てる際、強烈な電流を放つ。
その電流が傷口から彼女の体内へ流れ込み、心臓の鼓動を完全に止めたのである。
生前は美しく、肉感的だった身体も、今は冷たい泥の上に横たわっているだけだった。
かつての華やかさも、魅力も、命の輝きも、すべて消え失せている。
そこに残されたのは、欠損した醜い死体にすぎなかった。
「お前が彼女を殺したんだ!」
治療精霊使いが勢いよく顔を上げ、真っ赤になった両目でラインを睨みつけた。
「男のくせに、女を盾にして隠れるとは!お前など男の恥だ!」
ラインは気にも留めず、軽く肩をすくめた。
「実際には、彼女もイノシシ王の腹に隠れたがっていた。
ただ、あの場所には一人しか入れなかった。
最後に勝ったのは私だ。
そのことについては、運がよかったと思っている」
「貴様!」
治療精霊使いは怒鳴り声を上げ、ラインへ飛びかかった。
ラインが右足を上げ、その胸を正確に蹴り飛ばす。
治療精霊使いの身体は後方へ吹き飛び、雪の上を何度も転がった。
治療を専門とする精霊使いは、通常、正面戦闘を得意としない。
加えて、一族の規則がある以上、一時の怒りに任せて同族へ精霊を使うこともできなかった。
肉体だけで争ったところで、イノシシ一頭の力を持つラインに敵うはずがない。
「くそっ!」
治療精霊使いは雪まみれになりながら起き上がり、再び飛びかかろうとした。
しかし、周囲を警戒していた偵察精霊使いに止められる。
「私が罪を犯し、彼女を死なせたと思うのなら、一族の牢獄へ訴え出ればいい」
ラインは淡々と彼を一瞥した。
「牢獄がどのような裁きを下そうと、私は受け入れる」
そう言い残し、ラインは背を向けて歩き出した。
「くそっ!くそぉっ!」
治療精霊使いは、両目から火を噴きそうな形相でラインの背中を睨みつけた。
ほかのメンバーが必死に抱き止めていなければ、なおも追いすがっていただろう。
「まずは落ち着け!牢獄へ訴えたところで、一族がラインを処罰することはない!
お前がずっと彼女を想っていたことは、私たちも知っている
規則でラインを罰せないのなら、今日あったことを皆に広めればいい!
あいつが、いったいどんな人間なのか。すべての族人に知らせてやるんだ!」
仲間たちに何度も宥められ、治療精霊使いはようやく抵抗をやめた。
彼は女精霊使いの死体の傍らに膝をつき、顔を伏せて嗚咽を押し殺した。
ラインは聚落へ向かって歩きながら、静かに思考を巡らせていた。
(地球には、『カルネアデスの板』と呼ばれる思考実験がある)
(海難に遭った一人の人間が、一人分の重さにしか耐えられない板をつかみ、それによって辛うじて命をつなぐ
そこへ、別の遭難者も板につかまろうとする。二人が同時につかまれば板は沈み、どちらも助からない
そこで、先に板を確保していた者は自分の命を守るため、後から来た者を突き放し、溺死させる)
地球の法律や倫理において、この行為はしばしば緊急避難の枠組みで論じられる。
しかし、法体系や状況によって判断は異なり、自分の命を守るためなら必ず無罪になるというものでもない。
一方、ローデン一族の規則には、これと似た、より明確な条項が存在していた。
回避できない死の危険に直面し、ほかに生き延びる方法がない場合、自分を守るため間接的に他人へ危害を及ぼしても、必ずしも処罰されるとは限らない。
つまり、表面上の経緯だけを見るなら、ラインが唯一隠れられる場所を奪い、その結果として女精霊使いが雷狼に殺されたとしても、それだけで牢獄が彼を有罪にすることはできない。
だが――
「私が事前に彼女を気絶させたことが露見すれば、話はまるで変わってくる。
それは、やむを得ない緊急避難ではない。
同族に対する意図的な殺害だ」
そうなれば、ラインを待っているのは牢獄の調査だけではない。
一族で最も厳しい刑罰が下される。
しかし、ラインはさほど心配していなかった。
あのとき、サイラスとソラは彼に背を向け、逃げることしか考えていなかった。
付近にほかの精霊使いの姿もなかった。
少なくとも現時点では、彼が女精霊使いを気絶させたところを目撃した者はいない。
「おそらく、綻びは残していない」
ラインは頭の中でもう一度経緯を整理し、歩みを進めようとした。
その足が、ふいに止まる。
前方の山道脇に、二つの死体が倒れていた。
ソラとサイラスだった。
ソラの身体は雷狼に食い荒らされ、もはや顔すら判別できない。
胸から腹にかけて大きく裂け、欠けた内臓が泥や雪に混じっていた。
それに比べれば、サイラスの死体は比較的原形を保っている。
本源精霊だった赤い大蛇は完全に砕け、暗赤色の岩石が辺り一面に散乱していた。
まるで石造りの大蛇を粉々に打ち砕いたような光景だった。
さらにサイラスの周囲には、十数頭もの雷狼が折り重なるように倒れている。
命が尽きる寸前、サイラスは凄まじい戦闘力を発揮し、追ってきた雷狼の群れと死闘を繰り広げたらしい。
「悪くない」
ラインは無表情のまま、その光景を眺めた。
「これで、私以外の病蛇チーム四人は全員死んだ。これからは、私を縛るものが一つ減る」
胸の内にわずかな喜びが浮かんだ、そのときだった。
ラインの目が鋭く細められる。
「ん?」
地面に垂れていたサイラスの指が、かすかに痙攣した。
ごく微かな動きだったが、ラインの目を欺くことはできなかった。
「まだ生きていたか」
「しぶとい命だ」
ラインの瞳に冷たい光が宿り、殺意が急速に膨れ上がる。
そのとき、前方から慌ただしい足音が聞こえてきた。
十数名の治療精霊使いが、山道を駆けてくる。
「急げ、まずは負傷者の救助だ!」
「全員、我らの同族だ!一人でも多く救え!」
「死亡を確認した者についても、精霊と遺品を必ず回収しろ!」
ラインの眼差しが沈んだ。
どうする?
治療精霊使いたちは、すでに目前まで迫っている。
今ここでサイラスの首を折るにせよ、月印を使うにせよ、必ず不自然な痕跡が残る。
これほど多くの人間が見ている前では、証拠を処理する時間などない。
このまま、サイラスを見逃すしかないのか?
これほどの重傷だ。治療を受けても、生き延びられるとは限らない。
だが、「限らない」ということは、生き延びる可能性が残っているということでもある。
「駄目だ、サイラスを完全に排除できれば、私の進む道を妨げるものは大きく減る。
今この機会を逃せば、これほど自然な死をもう一度作り出すのは難しい」
一道の閃きが、ラインの脳裏をよぎった。
彼はサイラスの傍らまで歩き、片膝をつく。
そして、イノシシ王の血を吸い尽くしていた上衣を脱ぎ、サイラスの顔と上半身へそっと被せた。
イノシシ王の腹に長時間潜んでいたため、衣服はすっかり血を吸っていた。
重く、粘つき、濡れきった血染めの衣が、サイラスの口と鼻へぴったりと張りつく。
ただでさえ弱々しかった呼吸が、完全に塞がれた。
ラインはその傍らに跪き、静かに見守った。
その顔には、沈痛さと深い悲しみが、寸分違わぬ形で浮かんでいる。
一人の治療精霊使いが、すぐに駆け寄ってきた。
「君、僕は薬堂の精霊使いだ。まずは彼の傷を診せてくれ――」
「どけ!」
ラインは突然怒鳴り、手を伸ばして相手を雪の中へ突き倒した。
治療精霊使いは転倒したものの、怒ることはなかった。
むしろ、その顔には理解と同情が浮かんでいた。
「君、どうか気を落とさないでくれ。
寝食を共にしてきた同族が目の前で死ぬ。その苦しみが受け入れ難いことは、私にも分かる」
彼は雪の中から立ち上がり、全身を血に染めたラインを見て、さらに気遣うように続けた。
「だが、君自身もひどい怪我を負っているように見える。
亡くなった同族のためにも、まずは自分の命を守るべきだ
さあ、先に君の傷を診せてくれ」
ラインは答えなかった。
ただ無言で跪き、俯いた顔を陰の中に隠したまま、相手に身体を調べさせる。
この診察が、血染めの衣の下にいるサイラスへ最後の時間を与えた。
ところが、診察の結果は治療精霊使いを大いに驚かせた。
ラインは全身血まみれで、一見すると酷い有様だったが、身体のどこにも本物の傷が見当たらない。
治療精霊使いは一瞬戸惑ったものの、すぐに自分なりの答えを見つけた。
この血の大半は、野獣やほかの死者のものなのだろう。
彼はそれ以上追及せず、血染めの衣に覆われたサイラスへ視線を移した。
「申し訳ない。死者の身元を確認し、残された精霊を回収するのは一族の決まりだ」
治療精霊使いは、ラインへ誠実な謝意を込めた眼差しを向ける。
そして、重く濡れた上衣をゆっくりとめくった。
サイラスの両目は半ば開き、瞳からはすでに完全に光が失われていた。
治療精霊使いは指で瞼を押し開き、瞳孔を確認する。続いて首筋に手を当てた。
脈はない。
「死んでいる。すでに完全に生命反応が消えている」
治療精霊使いは小さく溜息をつき、サイラスの腹部へ手のひらを当てた。
そこにはまだわずかな温もりが残っていた。
しかし、体内の空界はゆっくりと崩壊しつつあり、その中には精霊の気配が一つも残っていない。
治療精霊使いは顔を上げ、どこか含みのある目でラインを見た。
「精霊使いが所有する精霊は、一体残らず一族に記録されている。
精霊使いの死後、遺された精霊は遺産として扱われ、一族の規則に従って正当な継承者へ渡される。
許可なく持ち去れば、族規への違反となる」
ラインは怯むことなく、その眼差しを正面から受け止めた。
「その規則なら、当然知っている…私がリーダーの精霊を持ち去ったとでも?」
実際、ラインは何一つ奪っていなかった。
逆矢の力を借りれば、サイラスの遺した精霊を極めて短時間で煉化できる。
精霊の抵抗を心配する必要もない。
だが、それらを持ち去っても、新たな危険と面倒が増えるだけだった。
すべての精霊は一族に記録されている。
公然と使うことはできず、聚落の中で売り払うことも難しい。
調査が深まれば、酒虫やヒスイズスキン、さらには逆矢の秘密まで暴かれる恐れがある。
それに、ラインの経済状況はすでに逼迫していた。
たとえ手に入れたところで、それらの精霊を養う余裕があるとは限らない。
目先の小利のために、厄介事を背負い込む。
それは賢者のすることではなかった。
ラインの反問を受け、治療精霊使いは慌てて笑みを浮かべた。
「もちろん、そういう意味ではない。ただ、決まりとして念のため伝えただけだ。
死者はもう戻らない。どうか気を落とさないでくれ。
亡くなった同族のためにも、君はこれからをしっかり生きるべきだ」
ラインはゆっくりと立ち上がった。
彼は俯き、深い悲しみを湛えた眼差しで、病蛇サイラスの死体を長い間見つめていた。
凍てつく夜風が山林を吹き抜け、耳元で低く唸る。
やがて、ラインは静かに沈黙を破った。
「そのとおりだ」
冷たく深い眼差しと、誰にも読み取れない意味を秘めた声。
「死んでいった者たちのためにも、私はもっとしっかり生きなければならない」




