89.雷狼来襲、死地に潜む
エリナの身体は、壊れた人形のように腰から後ろへ折れ曲がっていた。
上半身は泥混じりの雪に伏している一方、下半身はそこから異様な角度に折れ、尻だけが地面についている。
両脚は高々と持ち上がり、爪先が硬直したまま夜空を指していた。
口と鼻から、鮮血がゆっくりと流れ出す。
その頃、ラインも空中から落下していた。
身体はまず一本の大樹の梢へ叩きつけられ、何本もの枝を立て続けに折る。
そのまま幾重もの枝葉を突き抜け、最後には積雪へ激しく落下した。
だが、梢へ衝突する直前、ラインは密かにヒスイズスキンを使っていた。
淡緑色の玉光が暗闇の中で一瞬だけ閃き、すぐさま生い茂る枝葉に遮られる。
梢と積雪が二重に衝撃を和らげたこともあり、背中に鈍い痛みが残っただけで、身体にはほとんど傷がなかった。
ラインは雪の上を一回転し、素早く立ち上がる。
「ライン!」
遠くの戦場が一瞬だけ静まり返り、直後、サイラスの怒りに満ちた咆哮が響いた。
「まだ持ち堪えられると言ったではないか!」
ラインは胸中で冷笑したが、突然身体を傾け、危うく再び転びそうになる。
慌てて傍らの木に手をつき、足首を挫いてまともに歩けなくなったかのように装った。
それと同時に、視線だけを密かに周囲へ巡らせる。
今はビーストウェーブの最中であり、各地の精霊使いは獣との戦闘に追われ、自分たちのことで手一杯だった。
わざわざここまで来て、ラインの行動を観察する余裕などない。
先ほど行動を起こす前にも、付近にほかのチームがいないことは入念に確かめていた。
それでも、ラインは偽装を続ける。
完全に安全だと確信できない限り、一時の油断によって他人へ疑う理由を与えるつもりはなかった。
遠方から、すぐに激しい戦闘音が再び響き始めた。
どうやらイノシシ王は蜘蛛の巣を振りほどき、赤い大蛇との戦いを再開したらしい。
ラインは木の幹に手をつき、片脚を引きずりながら戦場へ向かった。
何度もよろめき、途中で数回転倒したため、武装束はたちまち泥や草屑、残雪にまみれ、見るも無残な姿となる。
しばらくして、ようやく戦場の端へ戻った。
その頃には、三人の精霊使いがイノシシ王と激しく戦っていた。
赤い大蛇は再びイノシシ王へ巻きつき、胴体を締め上げるだけでなく、二本の後ろ脚まで絡め取っている。
まともに走れなくなったイノシシ王は、後ろ脚を闇雲に蹴りつけていた。
地面を転げ回ったかと思えば、無理やり身体を起こし、二本の前脚だけで巨体を引きずりながら、周囲へ激しく突進する。
連戦によって、その全身にはさらに多くの傷が刻まれていた。
熱い血が絶え間なく流れ出し、窪地の泥と積雪を暗赤色に染めている。
戻ってきたラインを見て、戦場の最も外側にいたソラが怒鳴った。
「ライン、この馬鹿野郎!お前がエリナを殺したんだ!」
「わ、私は、わざとやったわけでは……」
ラインは慌てた表情を浮かべ、急いで弁解した。
「本当に、もう耐えられなかったのです。イノシシ王が突然力を爆発させ、私では押さえきれませんでした!」
「耐えられないのなら、なぜさっき、あれほど自信満々に大丈夫だと言った!」
ソラは目を怒らせ、口汚く罵った。
「無理なら無理だと言え!何を勝手に強がっている!そんな真似をすれば、人が死ぬんだぞ!」
今もイノシシ王が暴れ続けていなければ、ソラはすぐさま駆け寄り、ラインの頬を何度も張り飛ばしていただろう。
「申し訳ありません。もう二度としません」
ラインはすぐに頭を下げて謝った。
「二度とだと?」
サイラスは正面からイノシシ王の突進を受け止めながら、怒鳴りつけた。
「ライン、この戦いが終わったら、じっくり責任を取ってもらうからな!」
イノシシ王はすでに死の間際まで追い込まれていたが、それゆえに完全な狂乱状態へ陥っている。
突進するたびに凄まじい力が爆発し、赤い大蛇の身体には、ようやく塞がったばかりの亀裂が再び現れ、急速に四方へ広がっていた。
「ソラ、あの馬鹿は放っておけ!」
今にも崩壊しそうな赤い大蛇を見つめ、サイラスの額から冷や汗が噴き出す。
「早く刃鱗網を出せ!」
「はい!」
ソラは直ちに大腹蛙を使った。
ゲコッ!
大きな蛙の鳴き声とともに、大腹蛙が口から巻き取られた鉄線の塊を吐き出す。
鉄線は空中で急速に広がり、巨大な金属網へ変わった。
網には無数の鋭い棘と、光り輝く刃がびっしりと並んでいる。
刃は魚の鱗のように幾重にも重なっていたため、この金属網は刃鱗網と呼ばれていた。
「ライン、反対側を掴め!」
ソラは刃鱗網の片端を握り、ラインへ叫ぶ。
「俺と一緒に突っ込んで、イノシシ王へ被せるんだ!」
「ですが、足を挫いてしまって、まともに歩けません!」
ラインは焦った表情を浮かべ、どうにか数歩進もうとする。
だが、すぐに身体を傾け、よろめきながら倒れかけた。
「この役立たずが!」
ソラは怒り狂ったものの、これ以上待っている時間はない。
仕方なく一人で刃鱗網を引きずり、勢いよくイノシシ王へ投げつけた。
巨大な金属網が空中で広がり、イノシシ王と、その身体へ巻きつく赤い大蛇を正確に覆う。
「グオオオォッ!」
イノシシ王が凄絶な悲鳴を上げた。
暴れれば暴れるほど刃鱗網は強く締まり、鋭い刃が毛皮を切り裂いて血肉へ深く食い込む。
棘も傷口へ突き刺さり、鮮血が泉のように噴き出した。
イノシシ王が激しく抵抗するほど、金属網は強く絡みつき、傷もさらに深くなっていく。
一方、赤い大蛇の身体は硬い岩石で形作られている。
刃鱗網は同じように巻きついていたが、実質的な損傷を与えることはできなかった。
「せっかくの上質な毛皮が……」
サイラスの目に、惜しむような色が浮かんだ。
「これで、どうにか動きを封じられたな」
ソラも長く息を吐き出す。
そのとき、ラインが突然大声を上げた。
「私も手伝います!」
数本の月刃が立て続けに放たれた。
ラインは刃鱗網の隙間から、外へ露出しているイノシシ王の頭や首を狙ったように見えた。
しかし月刃はイノシシ王へ届くより先に、手前を覆う金属網へ命中する。
網の張力を支えていた数本の鉄線が、立て続けに断ち切られた。
辛うじて形を保っていた刃鱗網に、たちまち大きな破れ目が生じる。
ちょうど狂ったようにもがいていたイノシシ王が、巨大な身体へ一気に力を込めた。
破れ目は瞬く間に押し広げられ、刃鱗網全体が数枚に裂けて、その身体から滑り落ちていく。
イノシシ王が、再び拘束から抜け出した!
ソラは目を大きく見開き、地面一面に散らばった鉄線と刃を呆然と見つめた。
「お、俺の……嘘だろ……」
残った女性精霊使いも、もはや取り繕う余裕を失い、思わず罵声を漏らす。
「くそったれ……!」
ラインは遠くに立ち、心から申し訳なく思っているかのような、無垢な声で言った。
「また失敗してしまったようです。皆さんと一緒に、イノシシ王を攻撃しようとしただけなのですが……」
サイラスは突進を避け、泥の上を何度も転がった。
起き上がる暇もなく、仰向けになったまま、ヒステリックな怒号を上げる。
「ライン――ッ!この大馬鹿者!自分が何をしたのか分かっているのか!お前はイノシシの味方か!」
「リーダー、信じてください!本当にわざとではありません!」
ラインは必死に弁解した。
「黙れ!」
サイラスは再び地面を転がり、踏み下ろされたイノシシ王の前脚を間一髪で避けた。
「今から一切手を出すな!すぐに端へ失せろ!」
「はい」
ラインは表面上こそ反省したように頭を下げたが、胸中では冷笑しながら、言われたとおり数十歩後ろへ退いた。
「お前たちも全員下がれ!」
サイラスは怒鳴りつけ、ついに本当の切り札を使い始めた。
勢いよく息を吸い込み、鼻から二筋の淡黄色の毒気を噴き出す。
黄色い気体は次々と鼻孔から溢れ、周囲へ急速に広がっていく。
瞬く間に濃密な毒雲へ変わり、サイラスとイノシシ王をまとめて包み込んだ。
激しく渦巻く毒雲の向こうには、人とイノシシのぼやけた影しか見えない。
ソラ、ライン、そして残る女性精霊使いは、すぐに毒雲の外まで退避した。
ラインは女性精霊使いへ顔を向ける。
「先に治療してもらえませんか?足を挫いてしまいました」
女性精霊使いは勢いよく振り返り、怒りに燃える目でラインを睨みつけた。
「私の親友は、たった今死んだのよ!それなのに、あんたは足を挫いただけでしょう!どうして、あんたが死ななかったのよ!」
ラインはひどく傷ついたような顔をした。
「私も、こんなことになるとは思っていませんでした」
しかし、その瞳の奥には、氷のように冷たい光が密かに閃いていた。
(今のうちに手を下し、全員始末するべきか?)
今は、滅多にない好機だった。
サイラスは毒雲の中でイノシシ王と戦っており、精神力を大量に消耗することは間違いない。
ソラと残った女性精霊使いも、立て続けに起きた予想外の事態によって、完全に平静を失っている。
何より、彼らは一度たりとも、ラインを警戒すべき敵だとは考えていなかった。
同族の人間がこのような状況で、自分の所属するチームへ殺意を抱くなど、誰が想像できるだろうか。
病蛇のチームが全滅すれば、ラインを縛る者も同時に消える。
しかし――
(ここはビーストウェーブの戦場だ。今のところ、ほかの精霊使いは見当たらないが、暗闇の中から誰かがこちらを見ていないとも限らない。
私が自らの手で一族の者を殺すところを目撃されれば、それこそ万事休すだ)
この世界において、同族殺しは最も許されざる重罪である。
犯人は処刑されるだけでは済まない。
一族の者たちが見守る前で七日七晩にわたる拷問を受け、異心を抱くすべての者への見せしめとされる。
ラインは死を恐れてはいなかった。
だが、病蛇のチームごときのために、これほど大きく、何の意味もない危険を冒すつもりもない。
殺すとしても、必ずビーストウェーブの力を利用しなければならない。
最初から最後まで、ライン自身の手を汚すことなく。
(残念ながら、イノシシ王はもう長く持たない。
この戦いが終われば、病蛇のチームは大きな損害を受け、生き残った者たちの精神力もほとんど残っていない。すぐに戦場を離れ、集落へ戻るはずだ。
これほど貴重な機会なのに、全員をここへ残せないとは、実に惜しい)
ラインはすでに、二度の事故を新人の経験不足による失敗に見せかけていた。
これ以上手を出せば、陥れようとした痕跡があまりにも露骨になる。
サイラスたちは愚かではない。
周囲に別の目撃者が潜んでいる可能性もある。
この一線を越えれば、危険は一気に跳ね上がる。
それから五分後、黄色い毒雲の中で、重い衝突音が響いた。
イノシシ王の巨大な身体が、ついに地面へ倒れる。
渦巻いていた黄色い毒雲も次第に薄れ、その中からサイラスの姿が現れた。
イノシシ王の死骸の傍らに立ち、肩で激しく息をしている。
顔色は紙のように白く、イノシシ王を仕留めるために奥の手まで使った結果、空界に残る赤鉄精神力も僅かしかなかった。
「全員、来て死骸を解体しろ!」
サイラスは荒い呼吸の合間に命じた。
「急げ!価値のある素材だけを持ち出し、すぐに撤退する!」
ラインたちはイノシシ王の死骸へ集まり、急いで皮と肉を切り開き、身体を解体していく。
イノシシ王の血はまだ熱く、濃厚な血の臭いが絶えず周囲へ広がっていた。
窪地の周囲には、黒々とした山林が広がっている。
遠方からは時折、獣の咆哮や、精霊使いと獣の群れが戦う爆音が響いてきた。
だが奇妙なことに、普通の獣は一頭たりとも、この窪地へ近づこうとしない。
これこそが、獣王の威だった。
獣たちの間にも、目には見えない秩序が存在する。
死してなお残るイノシシ王の濃厚な気配は、普通の獣に本能的な恐怖を抱かせるに十分だった。
ビーストウェーブが付近へ移動してきても、自然と二手に分かれ、その縄張りを避けて通る。
もちろん、さらに強大な獣の群れや、別の獣王が現れたなら、その気配に怯えることはない。
そのとき、周囲の暗闇に、ほの暗い青色の目が一つ、また一つと浮かび上がった。
同時に、別の方角から精霊使いたちの悲鳴と驚愕の声が次々と響く。
「狼だ!狼の群れが来た!」
「雷狼の群れだ!」
「くそっ、なぜ今になって雷狼の群れが現れる!
ウルフウェーブが発生する時期には、まだ早いはずだ!」
サイラスの顔色が一変した。
ウルフウェーブとは、狼によって構成されるビーストウェーブである。
高度な社会性を持つ狼たちが群れとなって集落へ押し寄せれば、それはあらゆるビーストウェーブの中でも、最も危険な災厄の一つとなる。
「撤退だ!イノシシ王など捨てろ!すぐに逃げるぞ!」
周囲の者たちの顔からも、一瞬にして血の気が引いた。
雷狼は一頭だけなら、さほど恐ろしい獣ではない。
並の二環精霊使いでも、単独で仕留めることができる。
だが、群れを作れば危険度は一変する。
全盛期のイノシシ王でさえ、大規模な雷狼の群れに遭遇すれば、自ら退くことを選ぶだろう。
そのうえ雷狼は持久力に優れ、走る速度も驚くほど速い。
長距離にわたって獲物を追い続けることを、最も得意としていた。
切羽詰まったサイラスは、もはやチームメンバーのことなど顧みなかった。
残る三人を置き去りにし、背を向けて遠くへ逃げ出す。
「リーダー、待ってください!」
ソラも恐怖に満ちた声を上げ、慌ててその後を追った。
(私には、移動速度を高める精霊がいない。雷狼から走って逃げ切るのは不可能だ)
突然の死の危機を前にして、ラインの心は逆に氷雪のような冷静さを取り戻していた。
(サイラスとソラの精神力も、ほとんど残っていない。加速系の精霊を持っていたとしても、雷狼の追跡を振り切れるとは限らない。
この山林で闇雲に逃げれば、背中を狼の群れへ晒すだけだ)
ラインは頭の中で逃走経路を次々と切り捨て、すぐに決断した。
残された女性精霊使いは、まだ呆然とその場に立ち尽くしている。
相次ぐ急変から、完全には立ち直れていないようだった。
ラインは一歩で彼女の背後へ回ると、手刀を首の後ろへ激しく叩き込んだ。
女性精霊使いは白目を剥き、身体から一気に力を失った。
ラインはその襟首を掴み、切り開かれたイノシシ王の死骸まで引きずっていく。
そして血まみれの巨大な傷口へ、何の躊躇もなく潜り込んだ。
イノシシ王の腹部には、縦に長い裂け目が刻まれている。
内部の臓器も一部が取り出され、人間一人を収められるほどの狭い空間が生まれていた。
ラインは身体を押し込むようにして腹腔へ潜り、気を失った女性精霊使いも一緒に引きずり込む。
最後に女の身体の向きを調整し、外側の傷口を塞ぐ盾として利用した。
自分の姿と気配を、可能な限り死骸の奥へ隠していく。
ほどなくして、狼の群れが窪地へ雪崩れ込んできた。
大半の雷狼は逃亡者の気配を追い、サイラスやソラ、ほかの撤退する精霊使いたちへ襲いかかっていく。
残った一部の雷狼はイノシシ王の死骸を取り囲み、狂ったように肉を食い千切り始めた。
腹腔に隠れたラインの耳には、雷狼の牙が皮と肉を裂く音が、はっきりと届いていた。
狼たちが餌を奪い合うたびに、巨大な死骸全体が激しく揺さぶられる。
(最初の小規模ビーストウェーブで、すでに雷狼の群れが現れた。これは明らかに、一族の予想を超えている。
付近の戦線からも、すぐに報告が届くはずだ。異変を知った一族の上層部は、必ず援軍を派遣する。
イノシシ王の身体は巨大だ。雷狼が死骸の奥まで食い進むには、まだ時間がかかる。援軍が到着するまで耐えれば、私は生き残れる)
サイラスとソラについては、予想外の事態でも起こらない限り、すでに助からないだろう。
二人は精神力をほとんど使い果たし、雷狼の群れを振り切れるだけの速度も残していない。
この程度の距離では、追手を撒くことなど不可能だった。
極度の混乱に陥った人間は、往々にして最も愚かな選択をしてしまう。
だが、ラインのように、死の脅威が訪れた瞬間にも冷静さを失わず、最善の対応策を即座に選び取れる者は、ごく僅かしかいない。
仮に雷狼がイノシシ王の肉の大半を食い尽くし、腹腔に隠れたラインの姿が完全に露出したとしても、その頃まで死骸の周囲に残る雷狼は多くない。
これまでの経験から推測すれば、せいぜい五頭前後だろう。
今のラインであれば、まだ戦う余地はある。
山林を逃げ回り、狼の群れ全体に追われるより、この選択のほうが生き残る可能性は遥かに高かった。
雷狼が肉を引き裂く音は絶え間なく響き、少しずつ近づいてくる。
暗闇と悪臭、そして温かな獣の血が、ラインを完全に包み込んでいた。
普通の者なら、このような場所では恐怖によって、一秒が一年にも感じられただろう。
しかしラインは、ただ静かに目を閉じた。
懐から予備の霊石を数個取り出し、掌で固く握り締める。
一秒たりとも無駄にすることなく、精神力の回復を始めた。




