88.借りた刃、先に己を噛む牙
「左前方に病蛇のチームを発見。大型の獣一頭と膠着状態にあります」
わずか半秒後、リンゲルが再び口を開き、さらに詳しい情報を伝えた。
「具体的な状況は?」
クルが眉をひそめる。
「間違いありません。サイラスが操る赤い大蛇は一体しかおらず、放つ熱も非常に特殊です」
リンゲルの口から蛇舌が絶えず伸び縮みし、夜闇に漂う熱の変化を探っていた。
「交戦している相手は……イノシシ王です!」
一同の表情がわずかに変わる。
(イノシシ王か……)
ラインの胸中に、ある考えが浮かんだ。
(これから二環精霊を錬成するには、上質なイノシシの牙が材料として必要になる
イノシシ王の牙なら、申し分ない)
実のところ、ラインは以前から、あのイノシシ王を狩るつもりでいた。
ただ、当時は実力が足りず、手を出せずにいただけである。
「私たちが知っている、あの一頭?」
水色の長髪を持つ女精霊使いが眉を上げた。
「あれ以外に、この辺りへ二頭目のイノシシ王がいるとでも思うのか?」
白髪の老人が、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「しかし、病蛇のチーム程度の実力で、あれに手を出すとはな。
少々、自分たちの胃袋を過信しすぎではないか」
普通人にすぎなかったオールド・ジャックでさえ、周辺の山林の地形を詳しく把握していた。
まして長年ヴェルデン山で活動してきた二環精霊使いたちが、山中に棲む強大な獣の分布を知らないはずがない。
このイノシシ王は、何年も前から付近一帯へ棲みついていた。
それでもローデン一族の精霊使いに討伐されなかったのは、決して彼らにその力がなかったからではない。
別の理由があったのだ。
クルは少し考え込んだ後、すぐに決断した。
「援護に向かう」
「へっ。向こうが素直に恩を受け取るとは思えんがな」
白髪の老人が冷笑する。
「援護が必要なくても、誰かさんを元のチームへ返さないといけないだろ」
メルは隣にいるラインを一瞥し、不機嫌そうに言った。
チーム全体がすぐに進路を変え、左前方へ向かって走り出す。
クルたちは日頃からサイラスの人柄を軽蔑しており、病蛇のチームとも親しいわけではなかった。
だが、彼らは同じローデン一族に属している。
外敵を前にすれば、互いに確執を抱え、長年の恨みを積み重ねていようとも、一時的にそれらを捨て、共に敵へ立ち向かう。
それこそが、家族の結束だった。
この結束があるからこそ、一つ一つの家族は危険に満ちた世界で百年、あるいは千年にわたって存続できるのである。
一同は暗闇の中で林を抜け、ほどなくして低く窪んだ地形へ辿り着いた。
病蛇のチームに所属する四名の精霊使いが、一頭のイノシシ王を取り囲み、激しい戦闘を繰り広げている。
戦場の中央では、巨象にも匹敵する巨体を持つイノシシ王が、大鉢ほどの太さを持つ赤い大蛇と絡み合っていた。
赤い大蛇の体は血肉ではなく、一つ一つの暗赤色の岩によって形作られている。
その表面からは凄まじい高熱が放たれ、今は太く重い鎖のようにイノシシ王の全身へ巻きついていた。
イノシシ王は怒りに満ちた咆哮を繰り返し、巨大な体で窪地を転げ回っている。
二本の白い牙が夜闇を切り裂き、宙に冷たい軌跡を描いた。
その全身には大小さまざまな傷が刻まれ、尻尾も途中から失われている。
皮膚と肉がめくれて鮮血の滲む傷口もあり、赤い大蛇の熱い体に触れた部分は、すでに黒く焼け焦げていた。
クルは軽率に近づこうとはせず、一同を率いて遠方から戦況を観察する。
白髪の老人は数回目を走らせただけで、すぐに事情を理解した。
「病蛇がどこから、こんな度胸を絞り出したのかと思えば……
イノシシ王は最初から負傷していたのか。あの小人め、うまく漁夫の利を拾ったものだ。」
「このイノシシ王の体内に、イノシシの精霊が宿っていると思うか?」
メルは目を輝かせ、興奮した様子で尋ねた。
ラインは何も答えず、静かに戦況を見つめている。
同じ頃、サイラスたちもクルのチームに気づいた。
後方支援を担当するソラが急いで戦場から離れ、こちらへ駆け寄ってくる。
「これはクル様」
ソラは一同の前へ立ちはだかり、無理に笑顔を作った。
「こちらはすでに問題ありません。もう間もなく片づきます
前線にはさらに多くの獣が集まっていますから、今は皆様の援護を必要としているはずです」
「問題ありません、か」
白髪の老人が冷たく鼻を鳴らし、遠慮なくその嘘を暴いた。
「あの赤い大蛇は、今にも体が割れそうではないか。
このまま戦いを続ければ、ものの数分も経たずに完全に崩壊するぞ」
「私たちが手を出せば、戦利品を分けなければならない。それが嫌なだけでしょう?」
水色の長髪を持つ女精霊使いは、さらに直接的だった。
ソラの笑顔が、たちまち凍りつく。
「イノシシ王は、今までどおりお前たちの獲物だ」
クルはそれだけ告げると、傍らの白髪の老人へ視線を向けた。
老人は露骨に嫌そうな顔をしたものの、クルの命令に逆らうことはなかった。
腰を曲げると同時に腹部を強く収縮させ、口から白く粘ついた塊を吐き出す。
白い塊は空中を飛びながら四方へ広がり、瞬く間に巨大な蜘蛛の巣へ変わった。頭から尻まで、イノシシ王の全身をすっぽりと覆い尽くす。
イノシシ王が、網の中で狂ったように暴れた。
強靭な蜘蛛の糸が次々と千切れる。
それでも残った網はイノシシ王の体へ強く貼りつき、一時的にその動きを封じ込めていた。
その隙を逃さず、サイラスは急いで精神力を催し、赤い大蛇をイノシシ王から引き離す。
巨大な体はすでに傷だらけだった。体を構成する暗赤色の岩の間には大小無数の亀裂が走り、今にも全身が崩れ落ちそうに見える。
サイラスと治療役の女精霊使いが、直ちに赤い大蛇のもとへ集まり、緊急の治療を始めた。
二人の精神力に養われ、赤い大蛇を覆う亀裂は少しずつ縮小し、その数も目に見えて減っていく。
「ライン。お前もそろそろ、自分のチームへ戻ったらどうだ?」
メルが苛立たしげに催促した。
「まさか、いつまでも僕たちのところに居座るつもりじゃないだろうな?」
ラインはゆっくりと一歩を踏み出し、クルの大きな体の後ろから姿を現した。
先ほどまでソラの視界はクルに遮られ、ラインが同行していることに気づいていなかった。
そのため、無傷のラインが現れると、たちまち妙な顔になった。
一方、赤い大蛇を治療していたサイラスも、こちらを振り返る。
ラインを見た瞬間、まず驚きを浮かべ、次いで分かりやすい喜色を顔に広げた。
「ライン、ようやく来たか!」
サイラスはすぐさま大声で命じる。
「早くイノシシ王を押さえつけろ!蜘蛛の巣は、もうすぐ破られる!
お前は力が強い。牙を掴み、しばらく動きを封じるだけでいい!
赤い大蛇の治療には、もう少し時間が必要だ!」
サイラスたちの認識では、ラインは防御系の精霊を持たず、環階も一環に留まっている。
そのような新人に、至近距離からイノシシ王を押さえ込ませる。
それがどれほど危険な行為であるかは、考えるまでもなかった。
クルはラインを一度振り返ったが、何も言わなかった。
「行くぞ」
短く告げると、自ら先頭に立って大股でその場を離れていく。
クルは一度口にしたことを違えない。
イノシシ王には大きな価値があり、体内に貴重な黒イノシシの精霊が宿っている可能性すらあった。
それでも戦利品を奪わないと約束した以上、未練を見せることなく立ち去った。
ほかのチームメンバーも、すぐにその後を追う。
クルのチームが離れていくのを見て、サイラスたちは揃って安堵の息を吐いた。
最初から最後まで、彼らは礼の一言すら口にしなかった。
「ライン、早くしろ!イノシシ王の力は強すぎる。蜘蛛の巣は、もう長く持たん!」
サイラスは続けて急かした。
「今回しっかり働くなら、勝手にチームを離れた件は不問にしてやる」
「分かりました」
ラインは実にあっさりと承諾した。
素早くイノシシ王の前へ出ると、両手を正確に伸ばし、二本の太い牙を一気に掴む。
両腕の筋肉が瞬時に張り詰め、ラインは力任せに下へ押し込んだ。
イノシシ王の巨大な頭が、強引に押し下げられる。
四本の脚は深く泥へ沈み、もがく動きも明らかに小さくなった。
「よくやった!」
サイラスは大声で褒めたが、その三角眼には密かに冷たい光が走った。
ラインは、実に都合のよい時機に現れてくれた。
今起きている小規模なビーストウェーブは、サイラスにとって天から与えられた好機に等しい。
もっとも、自らラインを殺すつもりはなかった。
ラインは自分の指揮下にいるチームメンバーである。
死亡すれば、一族は必ずチームリーダーの責任を追及し、サイラスの内務院における評価も下がるだろう。
それでは、サイラスの利益にならない。
彼はただ、ラインの叔父ラジェット・ローデンから依頼を受け、その成長を遅らせようとしているだけだった。
この重要な時期さえ乗り切れば、ラジェットから約束された多額の報酬が手に入る。
実際のところ、サイラスは陰険で吝嗇な人間ではあったが、自らラインを殺そうと考えたことはない。
一つには、精霊使いが死亡すれば、必ず一族による徹底した調査が行われる。
あまりにも危険が大きかった。
そしてもう一つ。
血は水よりも濃く、何よりも親族を優先するという考えが、ローデン一族の大半には深く刻み込まれていた。
父を殺された、妻を奪われたといった、決して解消できない血の恨みでもない限り、同じ一族の者同士が本当に殺し合うところまで発展することは少ない。
族長がかつて学堂長老へ説いたように、一つの家族を繋ぎ止めているのは、冷たい制度や規則だけではなかった。
世代を重ねる中で積み上げられた親情と、共通の価値観も存在する。
いかなる組織であろうと、長く存続するためには、制度と価値観という二つの土台が欠かせない。
(この機会にラインへ重傷を負わせ、集落へ戻ってから数か月、寝台で過ごさせる
そうなれば、二環への突破などできるはずもない!
もちろん、私が直接手を出すわけにはいかない。一族に怪しまれれば、大きな面倒を招く)
ふと、彼の脳裏に危険な考えがよぎった。
(だが、ビーストウェーブには獣がいくらでもいる。
新人を一人負傷させる程度なら、少し外力を借りるだけで、証拠など残りはしない)
サイラスは胸中で冷笑しながら、表面には変わらず心配そうな表情を浮かべていた。
「ライン、あとどれほど耐えられる?」
「まだしばらくは持ちます。リーダー、ご心配なく」
ラインの声には、十分な張りがあった。
「よし」
サイラスは赤い大蛇の治療を続けながら、振り返って叫んだ。
「エリナ、今すぐ腐ち草を植えつけろ!」
「はい!」
若い女精霊使いが足早に近づいてきた。
押さえ込まれているイノシシ王の傍らへ立ち、両手を差し出すと、左右の小指だけを立てる。
白く小さな二枚の爪には、それぞれ淡紫色の蔓を模した印が浮かんでいた。
淡赤色の赤鉄精神力が空界から湧き出し、二本の小指へまとわりつく。
そのすべてが、爪に刻まれた蔓の印へ注ぎ込まれた。
印はたちまち、生き物のように蠢き始めた。
二本の細い紫色の触手が爪から伸び出し、毒蛇のように身をくねらせながら、イノシシ王の口元まで這っていく。
触手は牙へ絡みつき、歯の隙間から奥へ奥へと潜り込み、最後にはイノシシ王の腹部へ達した。
「くくく……」
夜闇に隠れ、ラインの口元がゆっくりと持ち上がる。
そこに描かれたのは、凍てつくような笑みだった。
サイラスは一族の規則を気にかけ、親族を重んじる価値観にも縛られている。
ゆえに、同族へ軽々しく殺意を向けることはできない。
しかし、ラインは違う。
血縁、家族の伝統、共通の価値観。
彼にとって、そのすべては組織を維持するための道具にすぎなかった。
利用する必要があるなら、喜んで従う。
だが、自分の利益を妨げるなら、捨て去ることにも一切の躊躇はない。
次の瞬間、ラインがイノシシ王の牙へ加えていた力が、突如として消えた。
拘束から解き放たれたイノシシ王が、鼓膜を震わせる怒号を上げる。
長く蓄えていた力が、その瞬間に爆発した。
巨大な頭を、勢いよく跳ね上げる!
二本の牙が下から上へ突き上がった。
ラインの両手はまだ牙へ添えられており、その体も荒々しい力に乗せられ、高々と宙へ放り上げられる。
続いて、イノシシ王は狂ったように頭を振り回した。
長く鋭い牙が、横薙ぎに空気を切り裂く。
エリナはイノシシ王のすぐ傍らに立ち、腐血草を操ることだけに全神経を集中させていた。
ラインが突然、イノシシ王への拘束を解くなど、想像さえしていない。
至近距離まで迫った牙を前に、反応する時間はなかった。
牙が、凄まじい勢いで彼女の腰腹部を打ち抜いた。
「きゃあああっ!」
凄絶な悲鳴とともに、聞く者の歯が浮くような骨の砕ける音が響き渡る。
ベキィッ!
エリナの背骨が、その場でへし折れた。
細身の体が異様な角度で後ろへ折れ曲がり、壊れた麻袋のように横へ吹き飛ばされる。
牙に掬い上げられた体は空中へ舞い、短い弧を描いた後、ぬかるんだ窪地へ激しく叩きつけられた。
跳ね上がった泥水へ、鮮血が混じる。
エリナの両目は大きく見開かれ、その顔には死の直前に浮かべた恐怖と困惑が、そのまま凍りついていた。
すでに、息はなかった。




