80.優勝の褒賞、厄介な問題
闘技台の上では、ライルが意識を失ったまま倒れている。
ラインはその傍らに立ち、顔には何の感情も浮かべていなかった。
束の間の静寂のあと、演武場は爆発したような喧騒に包まれた。
「どうして、こんなことに……」
ある者は頭を抱え、信じられないとばかりに目を見開いた。
「たった拳だぞ……拳でヒスイズスキンの防御を打ち砕いたのか?」
「無茶苦茶だ!素手で防御のヒスイの光を砕くなんて、痛みを感じないのか?」
若い女性精霊使いたちが、一斉に息を呑んだ。
「防御型の精霊も使わず、生身の拳でヒスイズスキンを殴るなんて……あれでは自傷行為と変わらないわ!」
数々の戦いを経験してきた男性精霊使いたちでさえ、ラインの血まみれの両拳を見て、思わず顔を引きつらせていた。
他人に対して残酷になることは、それほど難しくない。
本当に難しいのは、自分自身に対しても同じだけ容赦しないことだ。
ラインは素手でヒスイズスキンの防御を打ち砕いた。
実の弟に対してだけではなく、自分自身に対しても徹底的に冷酷だったのである。
「私が見てこよう」
ついに学堂長老も座っていられなくなった。
短く告げると、身を躍らせて闘技台へ飛び乗る。
まずライルの傍らに膝をつき、しばらく容体を確かめた。
命に別状はなく、頭部へ立て続けに強打を受けたことで意識を失っているだけだと分かり、張り詰めていた表情がわずかに緩んだ。
(ヒスイズスキンに守られていたというのに、素手でここまで打ちのめされたのか……)
学堂長老は内心で驚きながら顔を上げ、鋭い眼差しをラインへ向けた。
「ライン、手を出せ。私が治療してやろう」
そう言って立ち上がると、返事も待たずにラインの前腕を掴んだ。
両手の傷は、見るからに深刻だった。
拳の皮膚と肉は無残に裂け、その下から白い指骨が露出している。
猛烈な反動を立て続けに受けたため、数本の骨には細かな亀裂まで走っていた。
一目見ただけでも、どれほどの激痛かは容易に想像できる。
それでもラインの表情は穏やかなままで、眉一つ動かさなかった。
見慣れているはずの学堂長老でさえ、その姿にはわずかに心を揺さぶられた。
「少し耐えろ。治療中は痒みだけでなく、痛みも走る」
複雑な声音で忠告すると、学堂長老は右手の五指を開いた。
掌から幽青色の月光が溢れ、次第に輝きを増していく。
やがて右手全体が透き通るほど明るくなり、血管や骨まで光の中にくっきりと浮かび上がった。
一見すると、その手は澄み切った青い水晶へ変わったかのようだった。
学堂長老は、ラインの傷ついた拳へ静かに掌を重ねた。
冷たい玉石が、裂けた血肉に触れる。
その瞬間、傷口から骨を抉るような激痛が走った。
ラインは奥歯を噛み締めたものの、一言も声を漏らさない。
柔らかな月光が傷口へ浸透していく。
指骨の亀裂が瞬く間に塞がり、引き裂かれた筋肉と皮膚も目に見える速さで再生し始めた。
激痛が過ぎ去ったかと思えば、今度は骨髄の奥から湧き上がるような猛烈な痒みに襲われる。
ラインの呼吸は急に荒くなり、何度か大きく息を吐いた。
それでも、その場から一歩も動かなかった。
学堂長老は静かな表情を保っている。
しかし治療する一方で、意識の一部を密かに分け、ラインの腕を伝って体内へ侵入させていた。
そのまま辿り着いた先は、彼の空界である。
空界の中では、墨緑色をした青銅の精神力が幾重もの波紋を広げていた。
その海を、真っ白で丸々と太った酒虫が気持ちよさそうに泳いでいる。
空界を囲む壁は、すでに継ぎ目のない純白の晶壁へ変わっていた。
ラインが一環頂位へ到達している、何より明確な証拠である。
学堂長老はすぐには意識を引き上げず、続けてラインの全身を調べた。
しかし最後まで確認できたのは、右の掌に残る月印と微光蛍の紋様だけだった。
それ以外に、精霊の痕跡は一つもない。
(本当に何もいないのか?
まさかラインは、自分自身の力だけでヒスイズスキンの防御を殴り砕いたというのか?
あれほどの怪力は、並の成人を遥かに凌いでいる
まだ十四歳の少年が、どうしてこれほど強靭な肉体を持っている?)
学堂長老の目に、微かな疑念が浮かんだ。
「治療していただき、ありがとうございます。長老様」
ラインは学堂長老の手から拳を引き抜き、ゆっくりと指を動かした。
傷口は塞がったものの、痛みまでは完全に消えていない。
曲げ伸ばしする両手にはほとんど力が入らず、当分の間は激しい衝撃に耐えられそうになかった。
地球であれば、これほどの負傷は治るまでに数か月を要する。
重い後遺症が残っても不思議ではない。
しかし治療精霊の力があれば、七、八日も休めば両手は完全に回復する。
これもまた、この世界に存在する神秘の一つだった。
もっとも、ラインの胸に感謝の念はほとんどない。
確かに傷は重かったが、この場にいるほかの治療精霊使いでも十分に処置できる。
学堂長老が自ら治療した本当の目的は、身体に触れる機会を利用し、ラインの空界と全身を調べることにあった。
その程度のことは、ラインも初めから予想している。
年末考査へ臨む前に、白イノシシの精霊とヒスイズスキンは第二密室へ置いてきていた。
逆矢については、そもそも六環の精霊である。
自ら気配を隠せば、四環の族長ハクが直接調べたとしても、発見できるとは限らない。
何も見つけられなかった学堂長老は、わずかに眉を寄せた。
疑問は数多く残っていたが、衆人環視の中で追及を続けるわけにもいかない。
「ライン、今回は見事だった。これからも励むように」
ラインの肩を軽く叩くと、学堂長老は演武場全体へ向き直り、声を張り上げた。
「本年度の年末考査、第一位――ライン・ローデン!」
学堂長老が闘技台へ上がってからというもの、観衆は固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
正式な結果が告げられると、演武場には再び大きなどよめきが巻き起こった。
「まさか、最後に勝ったのがラインだなんて!
下等資質なのに、二環初位でヒスイズスキンまで持つライルを倒したんだぞ。何か不正をしたんじゃないのか?」
「それはないだろう。学堂長老は治療を装って、さっき自ら調べていたはずだ。何も見つからなかったのなら、少なくとも不正はしていない」
「それでも、あの力は異常だ…十四歳の少年が成人を遥かに上回る怪力を持っているなんて、疑わしくないのか?」
「何も不思議ではないだろう?世の中には、生まれつき並外れた者がいる。
怪力を持って生まれる者もいれば、幼い頃から人並み外れた知恵を持つ者もいる
ラインの力など、あの方に比べればまだ可愛いものだ」
そう言った精霊使いは、人混みの中に立つクルへ視線を送った。
高くそびえる鉄塔のような巨体を見て、周囲の者たちはすぐに納得した。
「確かにな。クル様も幼い頃から、成人男子を上回る力を持っていたそうだ。
まさか、ラインも同じ類いなのか?」
「おそらく間違いない。ラインは幼い頃から名句を詠み、その言葉が聚落中に広まったほどの神童だった」
「当時は誰もが上等資質だと思っていたのに、蓋を開けてみれば下等資質だった。天は優れた資質を与えなかった代わりに、知恵と力で埋め合わせたのかもしれないな」
「だが、所詮は下等資質だ…中等資質なら第二のクル様になれたかもしれないが、今のままでは大したことはない」
別の者は肩をすくめ、興味なさそうに言った。
「精霊使いの修行は、結局のところ資質がものをいう。
いずれ黒イノシシの精霊でも手に入れれば、誰だってライン以上の力を得られるさ
こんな優位など、今だけのものだ。長くは続かない」
闘技台を下りたラインは、周囲の話を余さず耳に収め、胸の内で冷笑した。
酒虫については、すでにその入手経路を説明できる筋書きを整えてある。
しかし、ヒスイズスキンは違う。
存在が露見すれば、どこで手に入れたのか説明することができない。
もっともらしい口実を用意するまでは隠し通し、人前で使うわけにはいかなかった。
生まれつきの怪力。
幼い頃からの早熟な才知。
周囲が辿り着いた二つの解釈は、まさにラインが望んでいたものだった。
これだけで、今日見せた異常の大半には説明がつく。
仮に一族の上層部がなおも疑いを抱いたとしても、その疑念はライン自身ではなく、実在しない謎の後ろ盾へ向けられるだろう。
(半年前、あのイノシシの牙を利用し、危険を冒して築いた第二の防壁が、ようやく働き始めたか)
ラインの瞳は、底の見えない二つの寒潭のように暗く沈んでいた。
棚の下では、族長ハクがいまだ椅子に戻らず、その場に立ち尽くしている。
眉間には深い皺が刻まれていた。
今日の結果は、彼の予想から大きく外れていた。
ラインが第一位を取ったこと自体は、それほど気に留めるほどではない。
一年度の年末考査で首席になった程度では、四環の精霊使いを驚かせるには足りなかった。
ハクが本当に案じているのは、ライルのことだった。
間違いなく、今日の敗北はライルにあまりにも大きな打撃を与えた。
初めからラインに一方的に叩きのめされたのであれば、まだ負けを受け入れやすかっただろう。
しかしライルは、皆の声援を受けて再び立ち上がった。
自信と希望が最高潮に達したその瞬間、ラインの拳によってヒスイズスキンの防御を粉砕され、再び地へ沈められたのである。
希望の頂から一気に突き落とされる苦しみは、初めから希望を持たない者の比ではない。
今日刻まれた心の傷は、今後の成長にまで影響を及ぼす可能性があった。
(私の指導と手配によって、ライルは誰よりも早く一環上位へ進み、最初に一環頂位へ達し、ついには二環への突破まで果たした。
勝利を積み重ねることで、ようやく自信を持たせることができたというのに……
今日の一戦で、その自信はラインに粉々に打ち砕かれてしまっただろう)
(はあ……これまでの苦心が、ほとんど水の泡になってしまった)
ハクは胸の内で、深いため息をついた。
同時に、ラインへ対する微かな苛立ちも芽生えていた。
今日、ラインがライルに敗れていれば、すべてが完璧に収まったはずなのだ。
ライルは心の陰を完全に打ち破り、年末考査第一位という栄誉を胸に学堂を去る。
その後の成長も、きっと順調なものになっただろう。
それなのに、最後に勝ったのはラインだった。
ハクには、その事実がどうにも忌々しく思えた。
複雑な眼差しをラインへ向けているのは、族長だけではない。
居並ぶ長老たちも、それぞれ胸の内で思考を巡らせていた。
(ラインの力は、あまりにも強い。クルと同じ、生まれつきの怪力ということか?
もともとラインは異質な少年だった。十歳にもならぬうちから詩を詠んでいたのだから、成長とともに常人離れした力まで現れたところで、不自然とは言い切れない)
(だが、別の可能性もある!
あの力は生まれつきのものではなく、誰かの手によって与えられたのではないか?
ラインの背後にいる謎の後ろ盾が、肉体を強化する精霊か、何らかの手段を用意したのかもしれない。
ならば、その黒幕とはいったい誰だ?)
長老たちの胸中では、無数の疑念が渦巻いていた。
それでも表面上は誰も動揺を見せず、目を伏せる者もいれば、黙って座り続ける者もいる
ただ目の端だけで、周囲の反応を密かに窺っていた。
しばらくの沈黙を経て、ハクはふいに眉間の皺を解いた。
その顔には再び、温和な笑みが浮かんでいる。
「ライン」
声が演武場全体へ響き渡った。
ラインは足を止め、族長へ振り返る。
「下等資質の身でありながら、本年度の年末考査で第一位を勝ち取った
これは、これまでの学堂にはなかった成果だ」
ハクはゆっくりと言葉を続けた。
「学堂の規則に従い、第一位には百五十個の霊石と、精霊を優先して選ぶ権利が与えられる。
それに加え、族長である私から、もう一つ褒賞を与えよう」
ハクはそこで一度言葉を切り、演武場に集まった精霊使いたちを見渡した。
「ここにいるチームの中から、好きなところを一つ選ぶがよい
どのチームや組を望もうと、お前が今この場で名を挙げれば、そのチームは必ずお前を受け入れなければならない」
その言葉が響くと、学員たちだけでなく、二環の精霊使いたちまでもが羨望の眼差しをラインへ向けた。
チームごとの実力には、天と地ほどの差がある。
平凡なチームへ加われば、収益の乏しい家族任務しか回ってこない。
しかし優れた組へ入ることができれば、経験豊富な先輩から指導を受けられるだけではない。
より多くの資源や機会にも触れられ、将来の見通しはまるで違ってくる。
学堂を出たばかりの新人にとって、この褒賞は百五十個の霊石よりも価値があると言ってよかった。
「これは今しがた私が決めた褒賞だが、ここにいる長老たちも異存はあるまい」
ハクの笑みは、さらに穏やかなものになった。
その視線が、隣に座る長老たちの顔をゆっくりと撫でていく。
カルとコアをはじめとする長老たちは、沈んだ表情を浮かべていた。
わずかに眉を寄せる者もいたが、誰一人として反対の声は上げない。
ラインは目を細めた。
同時に、その胸の奥が静かに沈んでいく。
厄介なことになった。




