79.熱血の弟、冷血の兄
「あの兄弟、やっぱり仲がよくないみたいね」
ベニが小声でつぶやいた。
「ラインも残酷すぎるだろう。実の弟にまで、あんな仕打ちをするなんて」
周囲にいた多くの者が眉をひそめ、明らかな不快感を示した。
「ラインは本当に凶暴な奴だ!一年間も俺たちから霊石を巻き上げ続けて、今度は実の弟まであんな姿にしやがった!」
学員たちは歯を食いしばり、憎々しげにラインを睨みつける。
ラインが見せた冷酷さによって、彼らの間には共通の敵へ立ち向かうような一体感が生まれていた。
「ライル、立て!」
誰かが最初に声を上げた。
「立ち上がって、ラインを倒せ!」
「ラインを倒せ!」
「ラインを倒せ!」
それをきっかけに、次々と少年たちが声を張り上げ始めた。
「ラインは、やっぱり嫌な奴ね」
リリアは鼻を鳴らし、どこか愉快そうに笑った。
「ライル、頑張れ!立ち上がって、あの悪魔を倒して!」
「ライル、俺たちはお前の味方だ!」
「立て!」
「頑張れ!」
擂台の四方から押し寄せる声が、折り重なるようにライルの耳へ届いた。
ハッ、ハッ、ハッ……。
ライルは擂台に這いつくばったまま、口を開いて荒い呼吸を繰り返していた。
人々の声が群衆を越えて届き、目に見えない一つの力となって、その体へ流れ込んでくる。
朦朧とした意識の中、過去の光景が次々と脳裏に蘇った。
……
聚落の大通り。
歩いてくる兄弟を見つけた人々が、二人を指さしながら話していた。
「あれがラインだろう?頭のいい子らしいな。将来はきっと大物になるぞ」
「後ろを歩いている子は誰だ?」
「ラインの弟らしい。名前は何だったかな……」
……
叔父と叔母は満面の笑みを浮かべ、ラインを取り囲んでいた。
「ライン、今は聚落中があなたの話で持ちきりよ!本当に立派だ。さすがは私たちの自慢の子だな。叔父さんも叔母さんも、お前を誇りに思っているぞ」
ラインは平静な表情のまま、軽く頷いただけだった。
それでも二人の笑顔は、さらに輝きを増していく。
しばらくしてから、ようやく存在を思い出したかのように、部屋の隅に立つライルへ振り返った。
「ライルも、もっと兄さんを見習いなさい。将来、兄さんの半分でも立派になってくれれば、私たちも心配せずに済むんだがな」
……
月明かりに照らされた、静かな庭。
族長ハクは、穏やかな表情でライルの前に立っていた。
「ライル、お前は自信を持たなければならない。
自分自身と向き合い、自らの才能を信じるのだ」
「でも、族長様……」
ハクは手を伸ばし、ライルの肩を優しく叩いた。
「心を覆う影は、他人にはなかなか取り除けない、
そこから本当の意味で抜け出すには、最後は自分自身の力に頼るしかないのだ。
私はずっと、その日が訪れるのを待っている」
……
年末考核を翌日に控えた夜。
ミラは温かな火の傍に立ち、想いのこもった瞳でライルを見つめていた。
「ライル様なら、必ず一位になれます、私は最初から、ずっとそう信じています。
明日は頑張ってくださいね」
……
考核当日の朝。
叔父と叔母は家の前に立ち、出発するライルを見送っていた。
「ライル、年末考核が終われば、お前も正式に学堂を卒業するんだな。今日まで成長する姿を見守ることができて、私たちは本当に嬉しいわ」
「行ってこい。上等資質の素晴らしさを、皆に見せてやるんだ!」
……
そして、あの日。
夕日が沈みかけた学堂の薄暗い片隅で、一人の女子学員が声を押し殺して泣いていた。
「一度にもらえる補助は霊石三個しかないのに、毎回ラインに一個取られて、私の手元には二個しか残らないの。このままじゃ、月印を養うことさえできなくなる……」
ライルは胸を痛め、自分の霊石を差し出した。
「この霊石を貸すよ。ひとまず使って」
女子学員は目に涙を浮かべたまま、霊石を受け取った。
「ライル、本当に優しいのね。
お願い。必ずお兄さんを倒して、もう学堂で好き勝手できないようにして」
ライルは何も答えなかった。
いつの間にか、大勢の同窓たちが彼の前へ集まっていた。
「ライルは上等資質なんだ。絶対に勝てる!」
「ラインはひどすぎる。ずっと俺たちを苦しめてきた。もう、お前だけが俺たちの希望なんだ!」
「今日からは、みんなでライルを応援しよう!」
「俺たちの代わりに、絶対ラインを倒してくれ!」
「みんな……」
ライルは周囲を見渡した。
自分を見つめる瞳の一つ一つに、強い期待が宿っている。
その光景を前にして、胸がいっぱいになり、言葉が出なかった。
……
みんな。
みんなが、僕に期待している。
同窓たちも、叔父さんと叔母さんも、ミラも、族長様も。
みんなが僕を見ている。
僕を待って、支えてくれている。
それなのに、どうして負けられる?
どうして、こんな場所で倒れていられる?
倒れてたまるものか!!!
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン!
心臓の鼓動が巨大な太鼓となり、胸の奥で何度も轟いた。
ライルの瞳に、再び鮮烈な光が宿る。
僕は、ここで倒れるわけにはいかない!
立ち上がるんだ!
あの影を打ち砕き、暗闇を突き破る!
ライルは両拳を固く握った。
その瞬間、体を襲っていた痛みが遠ざかっていくように感じられた。
胸の奥には、一頭の獅子が眠っている。
今、その獅子が目を開いた。
大きく口を開き、天地を震わせる咆哮を上げる。
灼熱の血潮が、全身を駆け巡った。
立て!
立ち上がれ!
影を打ち砕け!
暗闇を突き破れ!
「うああああああっ!」
ライルは猛然と顔を上げ、咆哮した。
次の瞬間、透き通った翠緑色の光が体内から溢れ出し、瞬く間に全身を包み込む。
「あれは何だ?」
群衆の叫びが、ふいに止まった。
「ヒスイズスキンだ!」
誰かが真っ先に、その精霊を見抜いた。
次の瞬間――。
うおおおおおおっ!
訓練場全体が、それまで以上に激しい歓声で揺れた。
「ライル、頑張れ!俺たちはみんな、お前を応援しているぞ!」
「立て!」
「立ち上がれ!」
乱れていた声は、やがて一つの叫びへと収束していく。
「みんな……みんなの声は、ちゃんと僕に届いた!」
ライルは左拳を擂台へ押しつけ、歯を食いしばりながら必死に体を持ち上げた。
頭を踏みつけていたラインの力も、先ほどまでのように絶対に動かせないものではなくなったように感じられる。
左腕は激しく震え、膝が少しずつ地面から離れていく。
ライルの体はゆっくりと、しかし確実に起き上がり始めた。
周囲の歓声が、さらに大きくなる。
「見ているだけで血が滾るな!」
「ここから逆転するぞ!」
観戦に訪れた精霊使いたちまで熱気に呑まれ、興奮した表情を浮かべ始めていた。
(そうだ、そのままだ、ライル!)
天幕の下では、族長ハクが灼けるような眼差しを向け、胸の内で何度も彼を励ましていた。
(立ち上がれ。過去を捨て、心を覆う影を打ち砕くのだ!
再び立ち上がったとき、お前は生まれ変わる。今までとは違う、新たなライルになる!)
「ヒスイズスキンか…」
ラインはわずかに目を伏せると、ライルの頭を押さえていた右足を引いた。
そして何もせず、弟が少しずつ立ち上がっていく姿を静かに見つめる。
透き通った翠緑色の光がライルの顔を照らし、その肌を翡翠のような色へ染めていた。
ライルはヒスイズスキンを切り札として扱い、人前では一度も軽々しく使用しなかった。
そのため、この精霊の存在を知っているのは、族長と一部の長老だけだった。
「ライルが立った!」
決壊した濁流のような歓声が、訓練場全体を呑み込んだ。
「本当に立ち上がったぞ!」
族長ハクは瞳を輝かせ、思わず椅子から立ち上がっていた。
この瞬間、彼の目には、一人の上等資質の天才が心の枷を打ち破り、真の飛躍を遂げたかのように映っていた。
同時に、ローデン一族の明るい未来まで見えたような気がした。
「僕は立ち上がったよ、兄さん!」
ライルは再び背筋を伸ばし、燃え盛る戦意を瞳に宿した。
全身を包む透き通った翠緑色の光は、まるで眩い翡翠の鎧である。
「ここからは、僕が兄さんを倒す!」
「へえ、あの守りは大したものね」
ベニは眉を上げ、感心したように口笛を吹いた。
「月刃でもヒスイズスキンを正面から貫くのは難しい。これで勝負の行方は、また分からなくなったわ」
「そのとおりだ」
アオも微笑を浮かべ、軽く頷いた。
「たとえラインが微光蛍で月刃を強化しても、ヒスイの光に命中させるだけでは、ライルの精神力消耗を早めるのが限界だろう。精神力の削り合いになれば、ラインに勝ち目はない。
この一戦を乗り越えてこそ、ライルは本当の意味で立ち上がったと言える」
「ヒスイズスキンを持っているのに、今まで使うことすら忘れていたのね」
リリアは腕を組み、輝く瞳で擂台を見つめた。
「ラインの突撃で、完全に頭が真っ白になっていたのでしょう。
でも、ここからは勝利がライルへ傾き始めるわ」
その瞬間、時間さえ止まったかのようだった。
擂台の上では、兄弟が再び正面から向かい合っている。
二人の距離は手を伸ばせば届くほど近い。
それにもかかわらず、間には決して越えられない深淵が横たわっているように見えた。
ライルの顔には揺るぎない決意があり、その全身には熱い血潮が滾っている。
対するラインの表情は、変わらず冷淡だった。
「弟よ」
ラインは静かにライルを見つめ、口元に氷のような笑みを浮かべた。
「私を倒すには、まだ遥かに足りない」
そう言いながら、ラインは右拳を高く掲げた。
右腕を大きく後方へ引き、全身を徐々に引き絞られていく強弓のようにしならせる。
「兄さんの負けだ!」
ラインが拳を振るおうとする姿を見て、ライルはむしろ滑稽にさえ感じた。
精神力が尽きない限り、ヒスイズスキンはヒスイの光による防御を維持し続けられる。
微光蛍で強化された月刃でさえ正面から破るのは難しいというのに、血肉でできた拳に何ができるというのか。
ラインがブチイノシシの精霊や蛮力カミキリの精霊を持ち、短時間だけ力を大幅に高められるのなら、まだ話は分かる。
それでも、衝突による反動は攻撃した側にも返ってくる。
防御精霊で自分の体を守れなければ、砕けるのはヒスイの光だけではなく、拳も同じだった。
ラインは何も説明しない。
代わりに、その拳で最も直接的な答えを示した。
次の瞬間、右拳が空気を引き裂いた。
低く重い風切り音を伴い、ライルの頬へ容赦なく叩き込まれる。
ドン!
凄まじい音が響いた。
ライルの頬を覆っていた翠緑色のヒスイの光が砕け散り、鏡片のような無数の光となって宙を舞う。
光の破片は瞬く間に消え、代わりに真紅の血が飛び散った。
「何っ!?」
絶対の防御だと信じていたヒスイの光が、たった一発の拳で砕かれる。
ライルは完全に不意を突かれた。
凄まじい衝撃に頭の中が真っ白になり、首の骨が折れかねないほど顔を横へ弾かれる。
体も制御を失い、たたらを踏みながら横へよろめいた。
ラインは間髪を入れず、その後を追う。
深く一歩を踏み込み、左拳を腰の後ろまで引いた。
次いで下方から斜め上へ、ライルの反対側の頬を狙って振り抜く。
一度砕けたヒスイの光がようやく再生した、その瞬間。
二発目の拳が到達した。
翠緑色の光が、再び爆ぜる。
ライルの頭が大きく後ろへ跳ね上がった。
飛び散った鮮血と砕けた玉色の光が、残陽の下で凄惨な弧を描く。
闘技台から、重く鈍い音が三度響いた。
まるで、心臓を直接打ち据えるかのような音だった。
ライルは三歩続けて大きく後退した。
両耳の奥で、無数の雷が同時に弾けたかのような轟音が鳴り響く。
先ほどの十倍にも感じられる強烈な眩暈が、瞬く間に意識を呑み込んだ。
「そんな……馬鹿な……」
視界が完全な闇に閉ざされ、ライルは仰向けに倒れていく。
その体が、擂台の上へ重く叩きつけられた。
全身を包んでいた翠緑色のヒスイの光は急速に薄れ、そのまま消え去った。
ライルは完全に意識を失い、二度と立ち上がらなかった。
つい先ほどまで訓練場を揺らしていた声援と歓声が、この瞬間、一斉に途絶えた。
学員たちの顔には、前の瞬間まで浮かべていた喜びと興奮が貼りついたままだった。
驚愕へ変わる時間さえ与えられなかったのである。
訓練場全体が、死んだような静寂に包まれる。
擂台の上で、ラインはゆっくりと両拳を下ろした。
自分もヒスイズスキンを持っているという秘密を守るため、ラインは最初から最後まで、拳をヒスイの光で覆わなかった。
ただイノシシ一頭の力だけを用い、ライルの防御を力ずくで打ち砕いたのだ。
衝突によって生じた反動も、すべて生身の拳で受け止めている。
今や、ラインの両拳は見るも無残な有様だった。
皮膚は大きく裂け、血肉は潰れ、その奥から白い指骨さえ覗いている。
真紅の血が一滴、また一滴と指先を伝い、擂台の表面へ落ちていった。
冷たい冬の風が訓練場を吹き抜け、先ほどまで沸き立っていた熱血のすべてを凍りつかせる。
ラインの黒い髪先が、風の中でかすかに揺れた。
両拳が半ば潰れかけているにもかかわらず、ラインは擂台の中央に真っすぐ立っていた。
まるで傷を負っているのが、自分ではないかのように。
漆黒の瞳は、どこまでも冷たく、静かだった。
その視線が、周囲の群衆をゆっくりとなぞっていく。
誰一人として、声を発する者はいない。
天幕の下では、族長ハクが立ち上がった姿勢のまま固まり、愕然とラインを見つめていた。
ラインはすべての視線を正面から受け止めた。
そして、取るに足らないことを告げるような軽い口調で言った。
「悪いな、期待を裏切ってしまった」




