78.消えぬ影、踏みにじられる自信
「最後の試合――
ライル・ローデン対、ライン・ローデン!」
擂台を担当する精霊使いが、高らかに二人の名を告げた。
「おっ、これは面白くなったな」
「まさか最後が、兄弟同士の対決になるとは」
人々は再び活気づき、それまで退屈そうにしていた精霊使いたちも、一斉に擂台へ視線を向けた。
(ライル……)
天幕の下では、族長ハクの口元からわずかに笑みが消えていた。
(お前の心を覆う最大の影は、今も兄のラインだ
倒すのだ。お前には二環の赤鉄精神力があり、ヒスイズスキンもある
攻守ともに揃っている以上、圧倒的に有利なのはお前だ)
肘掛けを握る手に、徐々に力がこもっていった。
(自らの手でその影を打ち砕け
そうすれば、お前は真の意味で生まれ変われる!)
年末考核は、ついに最後の決勝戦を迎えた。
兄弟は同じ擂台へ上がり、数メートルの距離を挟んで向かい合う。
残陽は、血のように赤かった。
斜めから差し込む黄昏の光が、擂台全体に華麗な深紅の絨毯を敷いたかのように広がっている。
夕日に照らされた二つの顔は、驚くほどよく似ていた。しかし、そこに浮かぶ表情はまるで違う。
弟の瞳には戦意が燃え、兄の眼差しは底知れぬほど深い。
「兄さん……」
ライルは両拳を固く握り、ラインを真っすぐ見据えた。
「降参してよ、僕はすでに二環へ進み、空界には八割を超える赤鉄精神力がある。
それに対して、兄さんの青銅精神力は四割四分しかない。兄さんに勝ち目はないよ」
ラインは、ただ静かに弟を見返した。
「ずいぶん私のことを調べているようだな。
だが、そんな戯言は必要ない。
精神力の量だけで勝敗が決まるのなら、わざわざ戦う意味などないだろう」
ライルはわずかに目を見開いた。
次の瞬間、その瞳の奥で燃えていた戦意が、一気に勢いを増した。
本心を言えば、ライルはラインに降参してほしくなどなかった。
どれほど仲が悪くても、ラインが実の兄であることに変わりはない。
先に一度は降伏を勧めておかなければ、あまりにも情がないように見えると思っただけだった。
「兄さんがそこまで言うなら、僕も手加減しない!」
言い終えるより早く、ライルは勢いよくラインへ駆け出した。
「また、あの戦い方か!」
治療を終えたばかりのノアは、その光景を見て悔しげに歯を食いしばる。
今日味わった屈辱は決して忘れない。
戻った後は今まで以上に修練を重ね、いつか必ず十倍にしてライルへ返すと、すでに心へ誓っていた。
「ラインも終わりだな」
メルは腕を組み、幸災楽禍の笑みを浮かべた。
「あいつは俺の蟋蟀の精霊を持っていない。距離を取ろうとしても、ライルから逃げ切れるはずがない」
擂台を駆けるライルは、瞬く間に二人の間合いを縮めていく。
同時に、その掌には幽青色の月光が集まり始めた。
対するラインは鉄のように冷たく、表情を一切変えない。
迫り来るライルを静かに見つめ、後退も攻撃もせず、右の掌に水面のような幽青色の月光をゆっくりと揺らめかせていた。
次の瞬間、ラインが地面を強く蹴った。
ドン!
擂台の表面から鈍い音が響く。
ラインは立て続けに数歩踏み込み、後ろへ退くどころか、正面からライルへ向かって突進した。
「何っ!?」
ライルは、ラインが自ら近づいてくるとは予想していなかった。
一瞬の動揺から反射的に右手を振り、月刃を放つ。
幽青色の月刃が、真正面から迫る。
ラインは走る速度を落とさないまま、上体だけを鋭く横へひねった。
月刃はその体をかすめるように通過し、背後の空中で消散する。
その顔には、雄叫びを上げる者の獰猛さも、戦いを楽しむ興奮も狂気もない。
あるのは、どこまでも冷たい無表情だけだった。
しかし、その沈黙がかえって息苦しいほどの冷酷な威圧感を生み出している。
ライルは無意識のうちに、何歩も後退した。
修練によって彼が対応できるようになった限界の距離は、六メートルだった。
しかし今、ラインとの距離はすでに五メートルを下回っている。
先ほどはノアを後退させたライルが、今度は自ら退かされていた。
ライルは後退しながら何度も右手を返し、立て続けに月刃を放つ。
どうにかラインを押し戻そうとした。
だが、ラインの足取りには一瞬の停滞もない。
ライルの動きに合わせて体の向きを素早く変え、飛来する月刃をことごとく紙一重でかわしていく。
「ラインの度胸は、ライル以上じゃない!」
ベニは思わず驚きの声を上げた。
「あんな戦い方、まるで自分の生死を顧みていないみたい……」
アオも、珍しく表情を変えていた。
「また戦闘狂か」
リリアは歯を食いしばり、無意識に少し離れた場所にいるクルへ目を向ける。
クルは相変わらず無表情だったが、その瞳の奥では光が絶えず揺れていた。
擂台上の戦いに、完全に引き込まれている。
周囲を満たしていた喧騒は、いつしか消えていた。
誰もが擂台上の兄弟から目を離せない。
次々と飛来する月刃がラインのすぐそばを通過し、その幽青色の光が何度も冷淡な顔を照らす。
どの回避も危うく見えるのに、ラインの動きには信じ難いほどの余裕があった。
至近距離から放たれる月刃を前にしても、まるですべての軌道を最初から見抜いているかのようだった。
擂台の外では、族長と数名の長老たちが次第に険しい表情を見せ始めた。
メルとノアも口を開けたまま、ラインが月刃をかわし続ける光景を呆然と見つめている。
(どうやっているんだ?)
同じ疑問が、無数の学員の胸に浮かんでいた。
五百年にわたる戦闘経験を持つラインと、四環精霊使いから一年ほど教わったにすぎない少年。
そもそも、比べること自体が間違っている。
ラインの目に映るライルは、底まで透き通った浅い小川のようなものだった。
水がどちらへ流れ、どのように岩を避け、次にどこで向きを変えるのか。そのすべてが、一目で分かる。
月刃の発射は、決して何の前触れもなく行われるわけではない。
月印の催動には精神力が必要であり、月刃を撃つには必ず手首を返さなければならない。
肩のわずかな揺れ、肘の角度、手首をひねる方向、さらには足を踏み下ろした瞬間の重心の偏りまで、攻撃の意図を事前にさらけ出している。
普通の学員には、そんな細部まで捉えられない。
仮に偶然気づけたとしても、激しい戦闘の中で即座に分析し、行動へ移すことは不可能だった。
しかしラインにとっては、ライルのあらゆる動きが大量の情報を発している。
攻撃、後退、回避。
一瞬だけ浮かぶ表情と重心の変化から、次にライルが何を考えるのかさえ、おおよそ予測できた。
一方、ライルの頭の中は、すでに混乱に支配されていた。
十年以上もの間、ラインは彼の心を覆い続ける影だった。
最近のライルは次々と環階を突破し、族長や長老から認められ、ノアとメルも立て続けに破った。
自分はもう、あの影から抜け出したのだと思っていた。
今度こそ、自らの手で完全に打ち砕けると信じていた。
しかし、その影は消えるどころか、ラインが一歩近づくたびに急速に膨れ上がっていく。
やがて果てのない闇となり、ライルを再び深淵へ引きずり込んだ。
動揺と恐怖が、彼の思考を塞いでいた。
息もできないほどの重圧の中、ヒスイズスキンを持っていることさえ忘れ、ただ後退し、月刃を撃ち続ける。
ラインを近づけさせまいとすることしか、考えられなくなっていた。
これこそが、経験の差。
そして、両者が積み上げてきたものの違いだった。
ラインにとって、五百年をかけて培った経験と心性は、逆矢以上に価値がある。
それこそが、誰にも奪えない真の切り札だった。
族長も、長老も、家族も、友人も、そして精霊さえ、利用することはできる。
だが、生きるための根幹を委ねてはならない。
ラインが信じるのは、常に自分だけだった。
この世界で永遠に頼ることができる存在など、結局のところ自分以外にはいない。
仲間や戦友など、ラインから見れば、弱者が己の無力を覆い隠し、誰かに救ってもらうために作り出した言い訳にすぎなかった。
やがて、二人の間にあった距離が完全に消えた。
ラインは懐へ潜り込み、死角から短い拳を突き上げる。
狙い澄ました一撃が、ライルの腹部へ深々と突き刺さった。
ライルの体が、海老のように折れ曲がる。
腹部を襲った激痛に、その場で吐きそうになった。
慌てて両腕を上げて頭部を守ると、腰を落としながら大きく一歩後ろへ退く。
窮地に追い込まれたことで、日頃から鍛えてきた基礎がようやく力を発揮した。
しかし次の瞬間、ライルはラインが視界から消えていることに気づく。
(どこへ行った!?)
両目を見開き、腕の隙間からラインの姿を探す。
(後ろだ!)
そう思った瞬間、ライルの脇腹に重い一撃が叩き込まれた。
重心が一気に崩れ、頭から擂台へ倒れ込む。
それでも、ライルは族長から厳しい訓練を受けてきた。
無理に踏みとどまろうとはせず、倒れる勢いを利用して前方へ転がりながら、右手を後ろへ振って月刃を放つ。
族長ハクから直々に教わった、窮地における反撃の技だった。
並の相手なら、ライルの背後を追うことに意識を奪われ、この月刃への反応が遅れる。
そのまま直撃を受けなくても、回避するために後退し、再び距離を開けられるはずだった。
だが、相手はラインである。
仮に族長ハク本人がこの場に立っていたとしても、純粋な戦闘経験だけを比べれば、ラインには遠く及ばない。
ラインは、最初から直線的に追っていなかった。
ライルが転がるのと同時に速度を緩めることなく進路を変え、弧を描くように側面へ回り込んでいた。
放たれた月刃は、何もない空間をむなしく切り裂く。
しかし、ライルは自分が距離を開けることに成功したと思い込んでいた。
素早く地面から起き上がり、構えを立て直そうとした瞬間、耳元で鋭い風切り音が鳴る。
(殴られる!)
電光石火の刹那、頭に浮かんだのはそれだけだった。
次の瞬間、ラインの拳がライルの耳元へ叩き込まれた。
視界が一瞬で暗転する。
激しい眩暈に襲われたライルは完全に平衡感覚を失い、擂台へ重く倒れ込んだ。
うつ伏せに倒れたまま、二呼吸ほど経ってから、ようやく意識を取り戻す。
ぼやけた視界が徐々に鮮明になり、最初に映ったのは、自分の目の前に立つラインの両足だった。
その瞬間、ライルは自分がどれほど無様な姿をさらしているのか理解した。
自分は地面に這いつくばり、打ち倒された野良犬のようにうずくまっている。
対するラインは背筋を伸ばして目の前に立ち、こちらを冷たく見下ろしていた。
「くそっ!」
強烈な屈辱と怒りが、一気に胸へ込み上げる。
ライルは擂台へ両手をつき、立ち上がろうとした。
しかし、大勢が見守る中、ラインはすでに右足を上げていた。
一切の容赦なく、その足が振り下ろされる。
ライルの頭は擂台へ叩き戻された。石球を地面へ打ちつけたかのような、重い音が響く。
「くそっ!」
ライルは怒鳴り声を上げ、再び体を起こそうとした。
ラインは冷たく見下ろすと、もう一度足を振り下ろす。
ライルの額が擂台へ激突した。
頭皮が裂け、流れ出した鮮血がたちまち顔を伝っていく。
「くそっ……くそおおっ!」
歯が砕けそうなほど強く噛みしめる。
胸の怒りが全身を焼き尽くすかのように燃え上がり、ライルは再び無理やり頭を持ち上げた。
ラインの右足が、三度目の落下を始める。
今度はライルの頭を踏みつけたまま、すぐには離さなかった。
イノシシ一頭の力が上からのしかかり、ライルの頬を擂台の表面へ強く押しつける。
その顔は圧力によって歪み始めていた。
ライルは激しく息を荒らげ、両手で何度も地面を引っかいたが、どうしても抜け出せない。
頭を押さえつける足は、まるで巨大な岩のようだった。
どれほど暴れても、わずかにも動かすことができない。
(そうだ!)
追い詰められたライルの脳裏に、一筋の光が走った。
(僕には、まだ月印がある!)
右の掌から、強烈な月光がほとばしる。
しかし、その変化をラインが見逃すはずもなかった。
鮮血がほとばしった。
ラインの掌から放たれた月刃が、正確にライルの右手を捉えた。
「ああああっ!」
ライルが凄絶な悲鳴を上げる。
掌から噴き上がった激痛に、体が感電したかのように激しく痙攣した。
右手は月刃によって貫かれる寸前まで深く切り裂かれ、傷口からは白い骨が覗いている。
掌に宿る月印も同時に深手を負い、その気配は急速に弱まっていった。
瞬く間に、瀕死の状態へ陥っていた。




