72.王の領域、牙の違和感
象にも匹敵する巨体のイノシシが、泥沼の中で休んでいた。
両目を閉じ、泥に腹を沈めるようにして半ば横たわっているが、
口元から伸びる二本の牙には汚れ一つなく、刃のように白く輝いていた。
黄昏の光を受けた毛皮は深い黒色で、巨大な腹部だけが灰白色をしており、呼吸のたびにゆっくり上下している。
その鼻からは、ときおり低い唸り声が漏れていた。
イノシシ王。
ラインは数百メートルもの距離を保ちながら、息を潜めて風下を進んでいた。
大きな物音を立てないよう、一歩ずつ慎重に足を運んでいく。
(今の私なら普通のイノシシを一人で狩れる。
だが、あのイノシシ王を相手にすれば、逃げることしかできない。
並の二環精霊使いでも、簡単には仕留められないだろう)
(ましてや、体内にどのような精霊が宿っているかも分からない。
何も知らずに手を出せば、足元をすくわれる可能性がある)
獣の群れを支配するほど強い個体には、一体、あるいは複数の精霊が宿っていることが多い。
イノシシ王の体内で最もよく見られるのは、やはりイノシシの精霊だった。
中でも桃色イノシシの精霊やブチイノシシの精霊が多く、ほかにもレザーズスキンのような防御型の精霊が宿る場合もある。
この世界には無数の精霊が存在し、その一部は強い野獣の体内で、宿主と共生していた。
普段は野獣の体を住処とし、宿主が襲われれば自らも危険を感じ、敵を倒すために力を貸す。
目の前のイノシシ王は、普通のイノシシとは比べものにならないほど巨大で、力も遥かに強い。
その肉体だけでもラインには手に負えず、さらに未知の精霊まで隠している。
もっとも、ラインが危険を冒してここへ来たのは、イノシシ王を狩るためではない。
目的は、ビッグ・ジャックの追跡から逃れることだった。
(ビッグ・ジャックは、獣皮地図が私の手へ渡ったことを知っている。
ならば地図に記されたイノシシの生息域を回り、私を捜すはずだ。
だからこそ、私は相手の立場で考え、その予測を逆に利用する。
ほかの場所には行かず、わざと地図に赤い×印が描かれたイノシシ王の領域へ向かう)
イノシシ王は危険だが、結局は人間ほどの知恵を持たない野獣にすぎない。
一般人だったオールド・ジャックでさえ、この辺りの状況を調べ、無事に帰ることができた。
精霊を持ち、五百年分の経験を備えたラインなら、
イノシシ王へ気づかれずに通り抜けることも難しくない。
一見すると危険極まりない道だが、実際には生き延びる可能性が隠されていた。
そのまま慎重に歩き続け、十分な距離を取ったところで、ラインはようやくイノシシ王を背後へ置いた。
彼が通った道を地図に描けば、一本の巨大な弧になる。
赤い×印の中心を避け、イノシシ王の縄張りの外周を大きく回り込む。
そこから渓谷を横切り、途中であらかじめ埋めておいたもう一つの袋を回収すると、二つの袋に分かれていたイノシシの牙を一つへまとめた。
そして、その弧の終点が、数名の長老たちが待機する丘だった。
中間考査の成績を、最終的に集計する場所である。
一時間後、全身を草屑まみれにし、粗末な布服を茨で裂かれ、両足を泥で汚した少年が、重い袋を背負って丘の近くへ姿を現した。
見るからに疲れ切ったその少年こそ、ラインだった。
(どうにか無事に戻れた
ここなら長老たちがいる。安全は確保できたが、まだ完全に警戒を解くべきではない)
胸の内で安堵の息を漏らし、ラインは斜面をゆっくり登っていった。
丘の上には簡素な日除け小屋が建てられ、その周囲に、すでに考査を終えた数十人の生徒が集まっていた。
学堂の護衛たちは、生徒が持ち帰ったイノシシの牙を一人ずつ数え、最終成績を竹紙へ記録している。
しかし、ここで待機していたはずの長老たちは、学堂長老一人を残して全員が姿を消していた。
ラインはわずかに眉を寄せた。
(空気がおかしい)
集まった生徒たちからは、考査を終えた興奮がほとんど感じられない。
多くの者が声を潜めて話し合い、その顔には今も緊張と不安が残っていた。
少し前に、何か大きな事件が起きたらしい。
ラインが日除け小屋へ近づくと、周囲の会話が聞こえてきた。
「聞いたか?さっき暗殺騒ぎがあって、二環精霊使いが何人も殺されたらしいぞ!」
「本当かよ?」
「本当だって。俺は早く戻ってきたから、長老たちがライルを運んでいくところを見たんだ。かなり急いでいたぞ」
「ライルも運が悪いな。中間考査に参加しただけで、そんな事件に巻き込まれるなんて」
「はっ、分かってないな。刺客は初めからライルを狙っていたんだよ。あいつはローデン一族で唯一の上等資質だからな」
「ライル、死ぬのかな?」
「命が助かっても、ただでは済まないだろ。空界まで傷ついていたら、資質が下がるかもしれないぞ」
それを聞いたラインの足が、ほんのわずかに止まった。
だが、考え込んだのは一瞬だけだった。すぐに、何が起きたのかを大まかに推測する。
(やはりビッグ・ジャックは、中間考査の最中に私を殺そうとしていた。
だが、私は樹上小屋を見つけた直後に進路を変え、イノシシ王の縄張りへ向かった。
相手はそれを予想できず、私とはすれ違い、代わりにライルと遭遇したのだろう)
ビッグ・ジャックの情報源は、あの若い狩人たちしかいなかった。
ラインに顔立ちの似た弟がいることまでは知らず、ライルをラインと取り違えて襲いかかったに違いない。
そして、その場にいた監視役の精霊使いたちに阻まれた。
(残る問題は、ビッグ・ジャックが死んだのかどうかだ)
ラインは眉を寄せた。
ビッグ・ジャックが逃げ切ったのか、生け捕りにされたのか、それともその場で殺されたのか。
その結果によって、これから取るべき行動は大きく変わる。
しばらく考えた末、ラインはひとまず予定どおりに動くことを選んだ。
一方、日除け小屋に残っていた学堂長老は、ひどく険しい表情をしていた。
自らが管理する中間考査で、ライルが暗殺されかけたのである。
今はまだ手掛かりが少なく、ライルが兄と顔立ちを似せていたため、身代わりのように襲われたとは考えもしない。
学堂長老が真っ先に疑うのは、ベル一族とロア一族だった。
ライルはローデンの集落にとって、三年ぶりに現れた上等資質の天才である。
残る二大集落が、その成長を黙って見守るとは考えにくい。
まだ力をつけきっていないうちに精霊使いを差し向け、芽のうちに摘み取る。
三つの勢力が長年続けてきた争いを考えれば、十分にあり得ることだった。
実際、ローデン一族も同じような手段を使ったことがある。
精霊使いを密かに送り込み、ほかの二大集落に生まれた天才を妨害し、ときには命まで奪ってきた。
(刺客はその場で殺された。あとは、ライルの容体がどれほど深刻なのか……)
学堂長老の意識は、今もライルの身へ向いていた。
そのとき、一人の護衛が近づき、考査結果を記録した竹紙を差し出した。
学堂長老は一覧を受け取ると、胸の不安を押し込み、どこか上の空のまま成績を読み上げる。
「今回の中間考査、その成績を発表する。
メル・ローデン。イノシシの牙、十六本
ノア・ローデン。イノシシの牙、十四本……」
周囲の生徒たちはようやく成績へ関心を向け、絶え間なく続いていた囁き声も少しずつ静まっていった。
今回の結果には、はっきりとした差が現れている。
末等資質の生徒は、複数人で協力しても三、四本ほどしか手に入れられなかった。
下等や中等資質の生徒は、八、九本前後に集中している。
十本を超えれば、十分に優秀な成績だった。
現時点での首位は十六本のメル。
二位は十四本のノアであり、途中で治療のため運び出されたライルも、十本の牙を持ち帰っていた。
メルは得意げな顔をしている。
今回は運に恵まれ、二頭のイノシシが争っている場面へ遭遇した。
双方が疲れ果てるまで待ち、最後に横から仕留めたことで、ほとんど苦労せず二頭分の牙を手に入れたのである。
一方のノアは、明らかに不満そうだった。
最後にはメルにまで上を行かれるとは、考えていなかったらしい。
学堂長老は、竹紙へ目を落としたまま宣言を続けた。
「それでは、今回の中間考査における第一位を――」
「少々お待ちください」
ラインが人垣の中から歩み出た。
「ライン、お前は遅刻だぞ!」
学堂長老が口を開くより先に、メルが声を上げる。
「考査が終わってから、もう一時間も過ぎている。規則どおり、お前が持ち帰った牙から四本を差し引くからな!」
しかし、ラインはメルへ目を向けようともしなかった。
背負っていた布袋を下ろして口を解くと、底の部分を掴み、全員の前で逆さにする。
何十本もの白い牙が一斉に転がり落ち、あっという間にラインの足元で小山を作った。
「なっ……」
メルは大きく口を開け、続けようとしていた言葉をすべて喉へ詰まらせた。
ノアをはじめとした生徒たちも目を見開き、信じられないものを見るように、山積みになった牙を見つめている。
「どうして、あれほどの数を……?」
学堂長老もラインへ視線を向け、疑念を隠さず尋ねた。
「ライン。これはすべて、お前が手に入れたものか?」
ラインは落ち着いた声で答えた。
「十数本は、私が自分でイノシシを狩って得たものです。残りは山中で偶然見つけた袋に入っていました。おそらく、昔どこかの狩人が隠したものなのでしょう
今回の中間考査で求められたのは、一日のうちにできるだけ多くのイノシシの牙を手に入れることでした。
複数人で協力することも認められていますが、すべての牙を自分で狩ったイノシシから取らなければならないとは、規則のどこにも書かれていません」
「ですから、まとめて持ち帰りました」
その言葉を聞いた途端、その場が一気に騒がしくなった。
「そんなものまで成績に数えていいのか?」
「運がよすぎるだろ!こんなに都合よく、大量の牙を拾えるはずがない!
「誰かが事前に考査の内容を教えて、山へ牙を隠しておいたんじゃないのか?」
学堂長老は、周囲から上がる声には耳を貸さず、ラインだけをじっと見つめた。
ラインも変わらぬ表情のまま、その視線を受け止める。
長い沈黙の末、学堂長老はようやく目をそらした。
ラインの行いに不自然な点があることは明白だった。しかし、明文化された規則には一つも違反していない。
遅刻による罰として四本を差し引いても、その数はほかの生徒を遥かに上回っている。
「今回の中間考査、第一位――ライン・ローデン」
……
族長閣の広間は、息苦しいほど重い空気に包まれていた。
族長ハクが上座に座り、その両側には十数名の長老が並んでいる。
誰もが怒りを押し殺した表情を浮かべ、室内には物音一つなかった。
「メディシン・ローテン。お前は一族で最も優れた治療精霊使いだ」
ハクは、一人の長老へ視線を向けた。
「ライルの容体はどうだ?」
メディシンは腰の曲がった老女だった。顔には枯れ木の皮のような深い皺が刻まれている。
彼女は軽く二度咳き込み、ゆっくりと答えた。
「族長様、ライルの容体はすでに安定しております。命に別状はございませんが、今も眠ったままです。
「空界にも深刻な傷はなく、資質が下がることもないでしょう。」
「そうか。資質が無事なら、それでよい」
ハクはようやく長い息を吐き、今度は左手側に座る牢獄長老へ目を向けた。
「刺客の身元は判明したか?」
牢獄長老はメディシンほどの古参ではなく、問われるとすぐに席を立ち、わずかに頭を下げた。
「初期調査は完了しております。刺客は三十五歳前後の男で、身元は今のところ不明です。
外道精霊使いであった可能性が高いと思われます。
所持していた精霊は二体。一体は一環精霊幽影、もう一体は二環精霊愛別離でした」
ハクはゆっくり頷いた。
「愛別離……二環最強の猛毒と呼ばれる精霊か。
短時間で我が一族の二環精霊使いを三人も殺せたのは、そのためだな」
「族長、この件に調べる余地などあるのですか!」
カルが勢いよく立ち上がった。その両目には、炎が噴き出しそうなほど激しい怒りが宿っている。
「裏で糸を引いているのは、ベル一族かロア一族に決まっています!」
「幽影も愛別離も、ベル一族やロア一族でよく見られる精霊ではない」
コアが冷ややかな声で言った。
「その男はもともと、よそから流れてきた外道精霊使いだったのかもしれん。
どちらかの集落へ身を寄せるため、忠誠を証明する手段としてライルの暗殺を命じられた可能性もある。
いずれにせよ、残る二大集落が無関係とは考えられない」
カルとコアは普段から折り合いが悪く、背後の派閥も絶えず争っている。
それでも外敵が現れれば、二人はすぐに対立を脇へ置き、一族の利益を守るため同じ側へ立った。
ハクも小さく頷いた。
彼もまた、今回の襲撃にはベル一族かロア一族が関わっていると考えている。
ビッグ・ジャックは三年前から行方不明となり、村人たちの間ではとっくに死んだものと思われていた。彼が外道精霊使いになったことを知る者はローデン一族の上層部にはおらず、一般人一人の生死をわざわざ調べる者もいない。
そのため、全員の疑いが残る二大集落へ向かうのは当然だった。
そのとき、学堂長老が外から広間へ入ってきた。
「族長様……」
不安に満ちた顔で声を上げた瞬間、ハクはその用件を察した。
「心配する必要はない。ライルの命に別状はなく、資質も上等のままだ」
その言葉を聞き、学堂長老の張りつめた表情がようやく緩んだ。
「ところで、ほかの生徒たちは無事なのか? 中間考査の結果はどうなった。ライルは何位だった?」
学堂長老は、考査で起きたことをありのまま報告した。
ラインが山中で「偶然」イノシシの牙を詰めた袋を拾い、それによって第一位になったと聞いた瞬間、ハクの目がかすかに動く。
広間も、再び静まり返った。
十数名の長老たちは、同時に何かへ気づいたようだった。
しかし、すぐに口を開く者は一人もいない。
緊張と怒りに満ちていた空気が、不意に別の意味を帯び始めた。




