71.取り違えた仇、捨てきれぬ愛
「死ね!」
ビッグ・ジャックは低く吠え、高い梢から一気に飛び降りた。
仇はすでに目と鼻の先にいる。
ところが次の瞬間、薄暗い山林に三つの青い月光が灯り、放たれた月刃が彼の進路を完全に塞いだ。
(なぜ、四人目の精霊使いがいる!?)
ビッグ・ジャックの胸に、嫌な予感が走る。
彼は空中で無理やり体を捻り、二つの月刃を紙一重でかわした。
しかし、最後の一つまでは避けきれず、鋭い刃が左脚へ深々と食い込む。
ビッグ・ジャックは地面へ叩きつけられ、その勢いのまま何度も転がった。
すぐに左脚へ目を落とすと、肉の裂けた深い傷から、鮮血が絶え間なく流れ出している。
「くそっ……」
歯を食いしばり、すぐさま精神力を送り込む。
「幽影!」
次の瞬間、ビッグ・ジャックの体は濃い闇へ変わった。
その速度が一気に増し、音もなく後方へ逃れようとする。
だがそのとき、一体の精霊が林の中から飛び出した。
同時に、年老いた男の声が響き渡る。
「閃光――爆ぜろ!」
轟音とともに、宙を飛んでいた精霊が弾け飛んだ。
その体は目を焼くほど激しい白光へ変わり、薄暗かった森を一瞬で真昼のように照らし出す。
「ぐああっ!」
ビッグ・ジャックの絶叫が響いた。
闇へ変わった体は強烈な光の下で逃げ場を失い、激しく歪み始める。
形を保てなくなった影は、瞬く間に人の姿へ引き戻された。
閃光精霊は一環にすぎず、一度使えば消滅する消耗型の精霊だった。
しかし、その力はビッグ・ジャックの幽影と極めて相性がよい。
|幽影が生み出した闇を強烈な光で完全に消し去れば、その後三時間は再び使うことができない。
どれほど優れた精霊にも、相性の悪い力は存在する。
幽影は潜行において並外れた力を発揮する反面、その弱点もはっきりしていた。
幽影を封じられた瞬間、ビッグ・ジャックの心は一気に冷え込んだ。
四人目の精霊使いは、先ほどの三人より遥かに経験豊富だった。
どのような精霊を使ったのか、ずっと近くに潜んでいたにもかかわらず、
ビッグ・ジャックはその存在を見抜けなかった。
しかも幽影を使えない今、退路までほぼ断たれている。
「若造、今すぐおとなしく投降しろ。そうすれば、ローデン一族も命だけは助けてくれるかもしれんぞ」
白髪と銀色の髭を蓄えた老人が、木々の間からゆっくり姿を現した。
老人もまた二環精霊使いだった。
鋭い眼差しと落ち着いた佇まいからは、静かな危険が漂っている。
「命を助けるだと?」
ビッグ・ジャックは血を流し続ける左脚へ目をやり、凶悪な笑みを浮かべた。
「ふん。先にお前を殺してやる!」
相手が時間を稼いでいるだけだと、ビッグ・ジャックは分かっていた。
このまま長引けば、周囲の精霊使いたちが異変に気づき、四方から集まってくる。
そうなれば、二度と機会は訪れない。
(精神力は残り二割。仇を討つにしても、生き延びるにしても、まずは邪魔な老人を殺すしかない!)
ビッグ・ジャックは左肩と左脚を襲う激痛を無理やり押さえ込み、老人へ飛びかかった。
老人は冷たく鼻を鳴らし、精神力を巡らせる。
その途端、白髪も、銀色の髭も、全身の体毛までもが急速に伸び始めた。
無数の毛が互いに絡み合い、わずか数呼吸のうちに、全身を覆う雪白の鎧へ変わる。
鎧の表面からは、鋭い棘が隙間なく突き出していた。
まるで巨大な白いハリネズミだ。
体中が針に覆われ、どこにも攻撃を加えられる場所がない。
それを見たビッグ・ジャックの表情が険しくなる。
愛別離は二環最強とも呼ばれる猛毒を持つが、正面から防御を打ち破る力には乏しい。
無防備な敵への奇襲でこそ、最大の効果を発揮する精霊だった。
ビッグ・ジャックが持つ精霊は、愛別離と幽影の二体だけである。
防御にも正面攻撃にも使える精霊はなく、もし防御精霊を一体でも持っていれば、
先ほど月刃で簡単に傷を負うこともなかった。
「お前を殺せないのなら、先にラインを殺す!」
ビッグ・ジャックも、愚かではない。
明日の命さえ分からない三年間の暮らしが、彼を狡猾で容赦のない男へ変えていた。
すぐさま進路を変え、老人を回り込み、その先にいる仇へ襲いかかろうとする。
「させるか!」
老人が再び精神力を送り込んだ。
全身を覆う針毛の鎧から、二束の白髪が分かれる。
それぞれが人の腕ほどの太さを持つ円錐へ固まり、
高速で回転しながら五、六メートルも伸び、ビッグ・ジャックへ迫った。
ビッグ・ジャックは即座に上体を沈める。
二本の白い錐が頭上すれすれを通り過ぎた。
あとわずかに反応が遅ければ、頭蓋をまとめて貫かれていただろう。
それでも足を止めず、仇へ向かって走り続ける。
両手の十本の爪は、すでに掌の半分ほどの長さまで伸び、黒に近い紫色へ染まっていた。
その周囲には、煙のように薄紫色の毒気がまとわりついている。
「死ねえっ!」
ビッグ・ジャックは戦いの中で正気を失い、
顔に歪んだ笑みを浮かべながら、急速に獲物との距離を詰めていった。
彼の目には、少年の顔が驚愕と恐怖に染まっているように見えた。
濃烈な殺意が思考のすべてを埋め尽くす。
爪が皮膚を貫く音も、ラインが悔しさを残したまま息絶える姿も、すでに目の前にあるかのようだった。
「させるか!」
あと一歩で届こうとした瞬間、横合いから新たな人影が飛び出し、
ビッグ・ジャックの前へ立ちはだかった。
五人目の二環精霊使いである。
それは筋骨隆々とした中年の男だった。
ビッグ・ジャックの両手を覆う紫色の毒気を見るなり、表情を厳しくする。
「愛別離か……!」
猛烈な勢いで迫るビッグ・ジャックを前にしても、中年の精霊使いは退かなかった。
両脚で地面を踏みしめ、精神力を一気に放出する。
「ストンズスキン!」
赤鉄色の精神力が体から噴き出し、煙のように全身を包み込んだ。
両腕の肌が灰白色へ変わり、筋肉も空気を吹き込まれたように膨張していく。
瞬く間に、人間の腕とは思えないほど太く重い、一対の石腕へ変わった。
二人の距離が一気に縮まる。
ビッグ・ジャックが狂気に満ちた顔で突進する一方、
中年の精霊使いは冷静さを失わず、二つの巨大な石の手で正面から掴みかかった。
「そんな鈍い腕で、俺を捕まえられると思ったか?」
ビッグ・ジャックの顔に、嘲るような笑みが浮かんだ。
中年の両腕は厚いストンズスキンに覆われており、愛別離の毒爪でも容易には貫けない。
しかし、石腕はあまりにも重く、その動きは明らかに遅かった。
わずかに進路を変えるだけで、二本の腕の間を抜けられる。
少なくとも、ビッグ・ジャックにはそう見えた。
「そうか?」
中年の精霊使いの目が、鋭く光る。
「碧風環!」
二つの碧緑色の旋風が現れ、腕輪のように石腕へ巻きついた。
遅く重かったはずの両腕が、突如として凄まじい速度で動き始める。
「なに――」
ビッグ・ジャックの嘲笑が凍りつき、強い驚愕へ変わった。
言葉を最後まで口にするより早く、重い石腕が胸を横殴りにした。
ドンッ!
ビッグ・ジャックの体は真横へ吹き飛び、
何本もの枝をへし折りながら森を抜け、最後には地面へ激しく叩きつけられた。
中年の精霊使いは、戦い慣れていた。
最初からストンズスキンと碧風環を同時に使っていれば、
ビッグ・ジャックも警戒し、迂闊に近づこうとはしなかっただろう。
あえて石腕の遅さを見せつけ、ビッグ・ジャックが自ら間合いへ入った瞬間だけ碧風環で加速する。
その一撃で、相手へ深手を負わせたのである。
地面に倒れたビッグ・ジャックは、世界が激しく回っているように感じた。
胸には息もできないほど鈍い痛みが広がり、肺まで押し潰されたかのようだった。
「ぐっ……!」
どうにか上体を起こした途端、口から大量の血を吐き出す。
(精神力は、残り五分……)
空界の状態を確認したビッグ・ジャックの口元に、痛ましい笑みが浮かんだ。
「俺は、ここで死ぬのか」
だが、少し離れた場所にいる少年を見た瞬間、その笑みは再び狂気と決意へ変わった。
「それなら、死ぬ前にお前も道連れだ!」
「うおおおおおっ!」
傷ついた体を顧みず、獣のような雄叫びを上げながら地面を蹴る。
「止めろ!」
中年の精霊使いの顔色が変わった。
彼は近接戦闘に特化しており、遠距離から攻撃できる精霊を持っていない。
ビッグ・ジャックはすでに石腕の届く範囲から飛び出しており、今から追っても間に合わなかった。
しかし、後方から白髪の老人が迫っている。
全身を覆う白髪が、指ほどの太さを持つ無数の螺旋針へ変わった。
雪白の蛇の群れのように宙を走り、五、六メートル先まで伸びて、
ビッグ・ジャックの背中へ次々と突き刺さる。
ズブッ、ズブッ!
鋭い白髪が背中から入り、胸を貫いて飛び出した。
それでもビッグ・ジャックは、痛みを感じていないかのように走り続ける。
何度も体を貫かれながら、よろめく足で前へ進んだ。
「死ねえっ!」
狂ったように吠え、両手の十本の爪をさらに伸ばす。
毒爪は瞬く間に半メートルへ達し、猛毒を塗りつけた十本の細長い刃と化した。
後方から必死に追う中年の精霊使いは、それを見て完全に顔色を失った。
間に合わない。
ビッグ・ジャックの毒爪が少年を捉えようとした、その瞬間だった。
少年の全身から、眩い青玉色の光が噴き出した。
「ヒスイズスキン!」
死が目前まで迫った恐怖に突き動かされ、少年は喉が裂けんばかりに叫んだ。
全身の皮膚が、硬く滑らかな玉石へ変わっていく。
その表面を、暗い青色の光が流れていた。
この瞬間になっても、ビッグ・ジャックはまだ気づいていない。
自分が追い続けていた少年は、ラインではなかった。
ラインとよく似た顔を持つ弟――ライルだった。
すでに理性を失ったビッグ・ジャックは、十本の毒爪を刃のように振るい、ライルへ突き刺そうとする。
愛別離は正面から防御を破る力に乏しい。
それでもヒスイズスキンは一環精霊にすぎず、二環最強の猛毒を完全に防ぐことはできなかった。
「うおおっ!」
ライルが目の前で殺されようとしている。
白髪の老人は焦りに満ちた咆哮を上げ、両目を大きく見開いた。
さらに多くの白い針が全身から噴き出し、ビッグ・ジャックの体を次々と貫いていく。
背中から入った針は胸を突き抜けると、蛇のように曲がり、首、両腕、両脚へ固く巻きついた。
無数の傷から熱い血が噴き出し、雪白だった髪を瞬く間に赤く染め上げる。
ビッグ・ジャックは白髪に締め上げられ、
まるで罠へ落ち、無数の竹槍に貫かれたイノシシのようだった。
狂気に任せた突進は急激に鈍り、一歩進むだけでも凄まじい力を必要とする。
これまでにないほど激しい眩暈が、彼の意識を襲った。
ビッグ・ジャックは、悲しげに笑った。
死が訪れたのだと、理解していた。
悔しい。
あまりにも、悔しかった。
視界が少しずつ霞み、周囲の音も遠ざかっていく。
命が尽きようとするその瞬間、記憶の最も深い場所に刻まれた光景が、再び目の前へ浮かび上がった。
「マリー……」
ビッグ・ジャックは、思わず妻の名を呼んだ。
記憶の中で、彼は一本の鋭い狩猟刀を握っていた。
その刃は、すでに妻の体を深く貫いている。
「どうして……?」
マリーは呆然と、ビッグ・ジャックを見つめていた。
美しい顔に浮かんでいたのは、苦痛ではない。
ただ驚きと、理解できないという戸惑いだけだった。
彼女は最後まで、ビッグ・ジャックの赤く充血した目を見つめ続けた。
そこに答えを探し求めているかのように。
ビッグ・ジャックは全身を震わせ、真っ赤な目から涙をこぼしていた。
「すまない……」
噛み締めた歯の間から、それだけを必死に絞り出す。
マリーはしばらく黙っていたが、やがて小さく微笑んだ。
その笑顔は、変わらず優しかった。深い愛情に満ち、夫への恨みはどこにも見えない。
「分かったわ」
彼女は右手をゆっくり持ち上げた。
死ぬ前に、もう一度だけビッグ・ジャックの頬へ触れようとしたのだろう。
だが、その手は途中までしか上がらなかった。力を失い、静かに垂れ落ちる。
愛する妻を殺し、その心臓を抉り出して、愛別離を錬成する。
あの日、ビッグ・ジャックは望み続けた力を手に入れた。
同時に、引き返すことのできない外道へ足を踏み入れた。
後悔しているか。
それからというもの、ビッグ・ジャックは幾度となく自分へ問い続けた。
後悔している。
当然だった。
死ぬよりも苦しいほど後悔し、あの日の自分を自らの手で引き裂きたいと、何度も願った。
だからこそ妻の亡骸を前に誓った。どのような代償を払ってでも、残された家族だけは必ず守ると。
それなのに――
それなのに。
「もし、すべてをやり直せるのなら……」
現実のビッグ・ジャックの顔を、大粒の涙が流れ落ちていた。
充血した両目から次々と溢れた涙が、頬の血と混ざり合っていく。
「マリー、俺は、それでも同じことをする……」
一方、ライルは目を大きく見開き、目の前の光景を呆然と見つめていた。
その全身では、今も青玉色の光が揺らめいている。
初めから最後まで、彼は深い混乱と恐怖の中にいた。
一度も見たことのない精霊使いが突然森から現れ、何もかも投げ捨てて自分へ襲いかかってきた。
その姿からは、ライルを切り刻んでも足りないとでもいうような憎悪が溢れている。
だが、ライルはその男を知らなかった。
濃密な死の気配を浴びせられ、体は凍りつき、頭の中も真っ白になっていた。
ただ生存本能に突き動かされ、ヒスイズスキンへ必死に精神力を注ぎ続ける。
ズブッ!
ついに、ビッグ・ジャックの十本の毒爪がライルを捉えた。
鋭い爪は玉石の皮膚を突き破り、一センチほど食い込んだところで完全に止まった。
ビッグ・ジャックは死んだ。
その両目からは、死してなお涙が流れ続けていた。
「終わった……のか?」
ライルは大きく息を吸いながら、焦点の合わない目で死体を見つめた。
その表情には何も浮かばず、ひどく虚ろだった。
今なお強烈な恐怖が全身を支配し、まともに考えることすらできない。
次の瞬間、激しい眩暈がライルを襲った。
「何……だ……?」
全身から力が抜け、ライルも地面へ倒れた。
愛別離。
二環最強の猛毒。
ビッグ・ジャックの爪は、ヒスイズスキンを完全には貫けなかった。
それでも玉石となった皮膚の表面を傷つけ、毒を送り込むには十分だった。
愛別離の猛毒は、すでにライルの体内へ侵入していた。




