70.逃走という覚悟、影からの猛毒
樹上小屋の中で、ラインの思考は激しく揺れ動いていた。
前世の五百年で培った経験と知恵により、
彼はわずかな手掛かりからビッグ・ジャックの存在を見抜いた。
では、そのビッグ・ジャックはどれほどの力を持っているのか。
ラインは一度も本人に会ったことがない。
それでも、小屋に残された痕跡だけで、ある程度の情報を推測することはできた。
(命を懸けるだけの勇気には、必ず力の裏付けがある。
ビッグ・ジャックは私の情報を集め、どれほどの戦力を持っているか知ったうえで復讐を決めた。
それなら、私を殺せるだけの自信があるはずだ)
(少なくとも、環階は一環を超えている)
この三年間、ビッグ・ジャックは地図上の三つの赤い円を転々とし、
三大集落の勢力が及びにくい狭間へ身を潜めてきた。
正体を見破られ、討伐される危険に日々さらされながら、それでもヴェルデン山から離れなかったのだ。
それはつまり、彼にはまだ山を出て、一人で外の世界を渡り歩くだけの力がないということだった。
一族の庇護を受けず、外界で生き延びるためには、最低でも三環ほどの実力が必要になる。
ラインの瞳に、冷たい光が宿る。
「ならば、ビッグ・ジャックは二環精霊使いと見ていい」
ビッグ・ジャックが失踪したのは三年前だ。その時に初めて修練の道へ入ったとすれば、
三年で二環へ進める資質は、下等から中等の間と推測できる。
空界に占める霊海の広さも、およそ四割から七割だろう。
さらに、彼は三大集落の間で三年間も正体を隠し、バキの目を避けながら密かに実家へ戻っていた。
所持する精霊の中に、潜行や気配の隠蔽に使えるものがいることも間違いない。
精霊使い同士の戦いにおいて、何より重要なのは情報である。
ラインは索敵に使える精霊を一体も持っていない。
それでも、自らの経験と知恵だけで、ビッグ・ジャックのおおよその環階と、所持している精霊の種類まで推測してみせた。
やがて、曖昧だった敵の姿が、ラインの頭の中で輪郭を持ち始める。
三年間、三大集落の狭間で生き延びてきた二環の外道精霊使い。
すべての家族を失い、胸に燃え上がる憎悪を抱えた男が、
今も山林のどこかへ潜み、ラインを自らの手で狩る瞬間を待っている。
「私が他人を殺せるのなら、他人もまた私を殺せる。当然のことだ」
ラインは、不意に小さく笑った。
この世界では、誰もが生きる権利を持っている。同時に、誰もが命を落とす可能性を背負っている。
人を殺す者は、いつか殺される側にも回る。
他人の命を奪う道を選んだ以上、自分が殺される覚悟も持たなければならない。
力が及ばず、最後にはビッグ・ジャックの手で死ぬことになったとしても、それはそれで仕方のないことだった。
この道は、ライン自身が選んだものだ。
だからこそ、彼はとうの昔に覚悟を決めている。
それが、外道としての覚悟だった。
(ビッグ・ジャックが私を殺すつもりなら、今日の中間考査ほど都合のよい機会はない)
普段、生徒たちは全員ローデンの集落内で生活している。
二環にすぎないビッグ・ジャックが内部へ忍び込み、そこでラインを殺そうとすれば、自ら死にに行くのと変わらない。
ラインがときおり集落を離れ、一人で山へ狩りに出ていることも、すでに突き止めているかもしれない。しかし、ヴェルデン山はあまりにも広い。
自分の痕跡を隠しながら、たった一人でラインの居場所を探し出すのは容易ではなかった。
一方、今日はすべての生徒が、決められた範囲へ集められている。
ビッグ・ジャックがこの機会を見逃すはずはない。
ラインは、互いの戦力差を冷静に見極めた。
ビッグ・ジャックは二環精霊使いであり、三年もの間、生と死の境をさまよい続けてきた外道でもある。明日の命さえ知れない暮らしにも、すでに慣れきっているはずだった。
今のラインが正面から戦えば、まず勝てない。
だが、まだ生き延びる道は残されている。
逃げる
ラインは即座に決断した。
生きるために逃げることは、決して恥ではない。
力で敵わないのなら、戦わずに逃げるのが当然だった。
そもそも精霊使いが、戦いの最中に都合よく環階を突破することなどあり得ない。
上位の敵を倒すことも不可能ではないが、それには特殊な精霊や強力な切り札が必要になる。
ラインは複数の精霊を持っているものの、逆矢はいまだ瀕死のまま眠り続けており、使うことができない。
酒虫、白イノシシの精霊、微光蛍、月印も、
一環という大きな差を覆し、ビッグ・ジャックを正面から倒せるほどの力は持っていなかった。
勝てないと分かっていながら命を懸けるのは、ただの無謀を「熱血」と呼び替えているだけだ。
最後に運よく勝てたとしても、それは一時的に運命が味方したにすぎない。
ラインは生涯を通じて慎重に行動してきた。
切り札を持っていても、勝算が足りなければ、できる限り戦いを避ける。
彼が好むのは、策略や情報、あらゆる手段を用いて自らの優位を広げ、
勝率を限界まで高めることだった。
最も望ましいのは、始まる前から勝敗が決まっている戦いである。
追い詰められ、ほかに道がなくなったときだけ、危険を冒して死力を尽くす。
だからラインは、弱い者から資源を奪い、自分を強くする。
かつて敵わなかった相手を超えてから、改めて戻り、借りを返す。
その頃には、かつての強敵も彼より弱い存在へ変わっている。
結局のところ、それもまた弱者を叩く戦いにすぎない。
だが、ラインはそれを恥じていなかった。
自らの勇気を証明するために強敵へ挑み、命を賭けてわずかな可能性を追う者こそ、本当の愚か者である。
奇妙なことに、そうした行いは世間から称賛されやすい。
どのような組織も、全体を維持するため、とりわけ上層部の利益を守るために、
個人の犠牲を必要としているからだ。
誰かを死地へ送り込む必要がある場所ほど、栄光、忠誠、犠牲という言葉が声高に語られる。
少し考えれば分かる。
生きていることこそ、あらゆる行動の前提だ。
生き延び、いつか自分の理想を実現するためなら、屈辱にも苦痛にも耐える。
それこそが、人間にとって最大の勇気だった。
理想のために華々しく死ぬ者は、ただの愚か者だ。
理想のために恥辱を耐え忍び、泥をすすってでも生き続ける者こそ、真に勇気ある者である。
だから、栄光も、名誉も、面子も、まとめて捨ててしまえばいい。
どの世界でも、組織はこうした価値を広く宣伝する。
構成員の犠牲を多く必要とする場所ほど、その声は大きくなる。軍隊などは、まさにその典型だった。
(問題は、どこへ逃げればビッグ・ジャックと遭遇する可能性を最も低くできるかだ)
ラインの頭の中に、獣皮地図の全景が再び浮かび上がった。
(ビッグ・ジャックは、獣皮地図が私の手へ渡ったことを知っている。
今頃は山林のどこかへ潜み、地図に記されたイノシシの生息域を順番に探しているはずだ
その辺りへ近づくことはできない。
相手の読みを外し、予想と正反対の場所へ向かってこそ、生き延びる可能性が生まれる)
そうして、少しばかり常軌を逸した退路が、ラインの頭の中で形を成していった。
……
夕暮れが山林を包み、幾重もの木の影が重なり合っていた。
生い茂る草は、吹き抜ける夜風に合わせてゆっくり揺れている。
その深い影の中に、一対の赤い目が隠れていた。
瞳に満ちた憎悪と怒りは、
川の水をすべて注ぎ込んでも洗い流せず、消し止めることもできないほど激しい。
「ライン……ようやく見つけたぞ」
ビッグ・ジャックは歯を強く噛み締め、その名を口の中で噛み砕こうとするように呟いた。
彼の視線の先では、痩せた体と青白い顔をした少年が、森の中を急いで走っている。
木々の間を縫うように、軽やかな身のこなしで駆け抜けていた。
仇は、もう目の前にいる。
それでもビッグ・ジャックはすぐには動かず、
気取られないよう視線だけを動かし、周囲の三か所を確かめた。
近くには、中間考査の監視を担当する精霊使いが三人潜んでいた。
生徒の不正を防ぎ、負傷者が出たときにすぐ救助できるよう、
考査区域には数十人の二環精霊使いが配置されている。
さらに遠くの丘では、数名の三環長老が直接待機していた。
ビッグ・ジャックはすでに長い時間、この森へ身を潜めている。
周囲の警備がどのように配置されているかも、ある程度まで把握していた。
(ラインを殺すには、まず近くの三人を始末しなければならない。私が姿を現せば、すぐに妨害される
奇襲なら、最初の一撃でラインを殺せるかもしれない。
だが、その後に駆けつけた精霊使いたちから逃げ切ることはできず、今度は私が包囲されて殺される)
ビッグ・ジャックは現在、二環中位に達している。
空界に残された精神力は五割ほどであり、先手を取れるとはいえ、同じ二環の精霊使いを三人続けて殺すのは容易ではなかった。
(ごく短い間に、一人ずつ片づける。
仲間の死に気づかれ、警戒されれば、その時点で私の居場所が露見する)
(幽影!)
ビッグ・ジャックはゆっくり目を閉じ、心の中で精霊の名を呼んだ。
次の瞬間、その体が足元の影へ溶け込んだ。
濃い闇の塊となり、複雑に重なった木々の影を伝って、音もなく流れていく。
足音も、呼吸音もない。
深い草むらでは、一人のローデン一族の二環精霊使いが身を伏せ、退屈そうにあくびをしていた。
「まったく、暇で仕方ないな。後輩たちの考査に付き合うなんて、まるで子守じゃないか」
小声で不満を漏らす男は、自分のものではない影が背後から忍び寄り、全身を包み込んだことにまるで気づいていない。
闇の中から、骨ばった二本の手がゆっくりと伸びてきた。
血の気を失ったように青白い手には、太い関節が不自然に浮かび上がっている。
十本の爪は刃物のように鋭く、その表面を覆う暗紫色の光からは、かすかな生臭さが漂っていた。
「何だ、この臭いは?」
精霊使いは鼻を動かし、訝しげに眉を寄せた。
背後を振り返ろうとしたが、もう遅い。
ビッグ・ジャックが、獲物へ襲いかかる毒蛇のように影から飛び出した。
片手で相手の口と鼻を塞ぎ、もう片方の手を背後から突き刺す。
五本の暗紫色の爪は衣服も皮膚も容易に引き裂き、そのまま精霊使いの心臓へ深々と食い込んだ。
爪に宿った猛毒は、心臓へ触れた瞬間に広がり、血流に乗って全身へ駆け巡る。
精霊使いの体が激しく強張った。反撃する間もないまま力を失い、完全に息絶える。
双方ともに二環精霊使いではあるが、ビッグ・ジャックは入念に準備し、相手は何の警戒もしていなかった。戦いは始まった瞬間に終わっていた。
(精神力を一割使った。残りは四割)
ビッグ・ジャックは空界の状態を確かめると、その場に留まらず、再び闇へ溶けていった。
木々の影を伝いながら、音もなく遠ざかっていく。
しばらくして、岩陰に潜んでいた二人目の精霊使いも、同じ毒牙にかかった。
男の瞳孔は針先ほどに縮み、硬直した体が地面へ倒れる。
猛毒が体内を荒らし回るにつれて肌は暗紫色へ変わり、鼻からは粘りつくような紫黒色の血が二筋、ゆっくりと流れ出していた。
(残りは三割)
ビッグ・ジャックは再び闇へ姿を変え、最後の監視役へ向かって進んだ。
「何者だ!」
三人目の精霊使いは、大木の太い枝へ身を潜めていた。
ビッグ・ジャックが襲いかかった瞬間、男はようやく異変を察した。
素早く振り返り、伸ばされた二本の腕を両手で掴み、その手首を強く押さえ込む。
「ちっ!」
ビッグ・ジャックは顔を歪めながら、凶悪な笑みを浮かべた。
十本の暗紫色の爪が一斉に伸び、瞬く間に五センチほどの長さへ達する。
そのまま相手の両腕へ食い込み、皮膚と筋肉を容易に貫いた。
傷口から流れ出した血は、見る間に暗紫色へ変わっていく。
「まさか……愛別離か!?」
その光景を目にした精霊使いの顔が、恐怖に引きつった。
濃い紫色の毒気が両腕を這い上がり、瞬く間に顔まで染めていく。
男は解毒や毒への抵抗に使える精霊を持っておらず、愛別離を受けた時点で助からないことを理解していた。
絶望したのは、ほんの一瞬だった。
次の瞬間、その顔に決死の覚悟が浮かぶ。
「ならば、道連れだ!」
男は大きく口を開き、舌を突き出した。
舌の表面には、淡青色の三日月が浮かんでいた。月印が宿っている場所だった。
一筋の月刃が放たれ、ビッグ・ジャックの左肩を正面から射抜いた。
刃は肩の前側から入り、そのまま背中へ突き抜ける。
鮮血が勢いよく飛び散った。
ビッグ・ジャックは低く呻き、太い枝の上で数歩よろめいた。
あと少しで、地面へ落ちるところだった。
しかし、精霊使いの両目はすでに白く濁っている。
猛毒が心臓へ達し、体から完全に力が抜けると、そのまま息絶えた。
「そのとおりだ……」
ビッグ・ジャックは月刃に貫かれた肩を押さえ、どうにか枝の上で踏みとどまった。
口元には、痛ましいほど凄絶な笑みが浮かんでいる。
「これが、愛別離だ」
愛別離は、二環精霊の中でも最強とされる猛毒を持つ。
錬成するには、生気草、寡婦クモ、小紅蠍という三体の一環精霊が必要になる。
さらに、心から愛する者の心臓を一つ。
愛別離を得るため、ビッグ・ジャックは自分が愛し、自分を愛してくれた妻を、その手で殺した。
そして、まだ温かい胸から自ら心臓を抉り出したのである。
「すべては、生きるためだ、生き延びるためには、力を選ぶしかなかった……」
ビッグ・ジャックの両目は赤く染まり、肩から流れる血が服を濡らしていく。
それでも、その視線は遠くの山林を走る少年から、一瞬たりとも離れなかった。
「これが、俺の外道としての覚悟だ!」
彼は妻への愛を捨て、その命と引き換えに、自分を守るための力を手に入れた。
その後、彼に残されていたのは、血のつながった家族への情だけだった。
だが、その最後の情すら、ラインに奪われた。
「俺は妻への愛を捨て、家族への情だけを残した……それさえ、お前は俺から奪った!」
ビッグ・ジャックは低く唸り、形を持つかと思えるほど濃い憎悪を声に滲ませた。
「ライン……お前がしてきたすべてを、死ぬその瞬間まで後悔させてやる!」




