68.譲歩という偽装、赤い円の樹上家屋
「つまりラインは、今回もいつもどおり生徒たちから霊石を取り立て、ライル、メル、ノアの三人にも続けて勝った。それでも三人の霊石には手をつけず、自分から見逃したというのか?」
侍衛から報告を聞き終えた学堂長老は、わずかに眉を動かした。
その顔には、隠しきれない驚きが浮かんでいる。
「はい。長老様に偽りを申し上げるようなことは、決してございません」
床に片膝をついた侍衛が、すぐに答えた。
「そうか」
学堂長老はそれ以上何も言わず、片手を振った。
「報告は分かった。下がれ」
「失礼いたします」
侍衛が一礼して部屋を出ていくと、学堂長老は椅子に座ったまま考え込んだ。
彼が今回の取り立てをわざわざ監視させたのは、ライルが手に入れた三十個の霊石を、
ラインが力ずくで奪うのではないかと危惧したためだった。
もしそうなれば、学堂が褒賞を用意した意味がなくなる。
どうせ最後にはすべての霊石がラインの手へ渡るのなら、初めから彼一人に褒賞を与えるのと変わらない。
学堂の秩序を壊すような行いを、これ以上見過ごすことはできない。
場合によっては、ラインを厳しく処分するつもりでいた。
ところが、ラインは三十個の霊石を奪わなかった。
それどころか、ノア、メル、ライルの三人をまとめて見逃している。
(ラインは数百個の霊石を持っている。三十個程度に執着しないのは、まだ理解できる。
だが、なぜ三人全員を見逃した?)
学堂長老は眉を寄せて考え続けた。やがて、その眉間から少しずつ皺が消えていく。
答えが見えた。
ノア、メル、ライルの三人は、それぞれ一族内の有力な派閥を背負っている。
その三人を同時に見逃した以上、ラインの意図は明らかだった。
三つの派閥へ、自分から歩み寄ろうとしているのだ。
同時にこれは、ラインの考えが変わり、ついに一族へ頭を下げる気になったという合図にも見えた。
(酒虫を持っているとはいえ、修練が進むほど下等資質の不利は大きくなる。
これまで何度も反抗し、胸に溜めていた不満も十分に吐き出したはずだ。
そろそろ自分の限界を感じ始めても、おかしくはない)
(族長の言ったとおりだ。ラインも結局は、まだ十四歳の少年にすぎない。
一人で一族の長年にわたる仕組みを揺るがせるはずもない。
自分の置かれた立場を理解すれば、いずれは一族の中に居場所を見つけ、自然と馴染んでいくだろう)
そこまで考えると、学堂長老はゆっくり息を吐いた。
胸に残っていた警戒も、わずかに薄れていった。
三日は瞬く間に過ぎ、中間考査の日を迎えた。
「早くしろ!イノシシを連れてきたぞ!」
一人の少年が、森の中を必死に駆けながら前方へ叫んでいた。
両脚には淡緑色の旋風が輪となって絡みつき、その力によって、少年は普通の人間を遥かに超える速さで走っている。
それでも、背後から迫るイノシシとの距離は少しずつ縮まっていた。
枝葉の隙間から差し込む陽光が二本の牙を照らし、白い刃のような輝きを放たせている。
「来たぞ!縄を張れ!」
前方に潜んでいた四人の少年が一斉に力を込め、草むらへ隠していた太い縄を引き上げた。
イノシシを誘い出した少年は、その直前で地面を蹴った。
縄を軽々と跳び越え、そのまま前方へ駆け抜ける。
だが、すぐ後ろまで迫っていたイノシシは避けられなかった。
四本の脚がまともに縄へ引っかかり、巨体が勢いよく地面へ倒れる。
そのまま土を削りながら、五、六メートルも滑っていった。
「うわっ!」
縄を引いていた四人も、その凄まじい力に耐えきれず、次々と地面へ引き倒された。
「早く立て!今のうちだ!」
先ほどの少年はすでに引き返し、仲間たちへ向かって叫んでいた。
四人は慌てて立ち上がると、それぞれの精霊を使いながら、別々の方向から倒れたイノシシを取り囲んでいった。
……
正面から突進してきたイノシシが細い木へ激突し、幹を一撃でへし折った。
枝葉を茂らせた樹冠が大きく傾き、そのまま地面へ倒れ込む。
「危なかった……」
三メートルほど離れた場所に立つメルは、額の冷や汗を拭った。
胸の奥には、今になって強い恐怖が込み上げている。
(蟋蟀の精霊を使うのが少しでも遅れていたら、左へ跳ぶことはできなかった。そうなれば、あの木と同じ目に遭っていたはずだ)
……
幾筋もの月刃が空気を切り裂き、次々とイノシシの体へ突き刺さった。
硬い毛皮が裂け、その下に細長い傷が刻まれていく。
ノアは目を輝かせ、目の前の戦いへ意識のすべてを注いでいた。
三十分後、全身から血を流していたイノシシは、ついに足をふらつかせて倒れた。
ノアも荒い息をつき、その場へ尻もちをついた。
服も手足も泥と青い草の切れ端にまみれ、頬からは絶え間なく汗が流れ落ちている。
「本物のイノシシとの戦いは、やはり訓練用の人形とはまるで違うな。一頭を倒すだけで、三十分もかかるとは……」
呼吸を整えながら、ノアは周囲の森へ視線を向けた。
「ほかの連中は、今頃どうしているだろう?」
……
人目につきにくい小高い丘に、簡素な日除け小屋が建てられていた。
屋根は真夏の日差しに焼かれながらも、その下にわずかな日陰を作っている。
中には数脚の椅子が並べられ、学堂長老が上座に座っていた。
ほかの長老たちは左右に腰を下ろし、その背後には数名の精霊使いが控えている。
周囲の森にも、巡回を任された精霊使いたちが身を潜めていた。
そのとき、前方の木々の間から、不意に騒がしい物音が聞こえてきた。
一本の矢のように人影が森を飛び出し、日除け小屋の前まで駆けてくる。
その精霊使いは勢いを殺すと、その場で片膝をついた。
「状況はどうだ?」
学堂長老が尋ねた。
「長老方にご報告いたします。現在まで、考査に参加した生徒の中に負傷者は一人も出ておりません」
「ほう、悪くない」
「考査が始まってから、すでに半日近くが過ぎている。それで負傷者が一人もいないとは、例年でも珍しいことだ
これも学堂長老の指導の賜物ですな」
報告を聞いた長老たちは、満足そうに頷きながら学堂長老を口々に称えた。
しかし、学堂長老は小さく首を横へ振った。
この結果が、自分の指導だけによるものではないと分かっていた。
ラインが同年の生徒たちから霊石を取り立て始めて以来、彼らは自分の霊石を守るため、長者たちから体術を習い続けてきた。
その積み重ねによって、この学年の生徒たちは近接戦闘の技量も、咄嗟の反応も、実戦で恐怖に耐える胆力も、過去の生徒たちを明らかに上回っている。
それこそが、今まで一人の負傷者も出ていない最大の理由だった。
学堂長老は、片膝をついた精霊使いへ再び尋ねた。
「現時点で、誰の成績が優れている?」
「はい。現在はライン、ライル、ノア、メルの四人が上位を占めています。
メルはすでに三頭、ライルとノアはそれぞれ五頭のイノシシを仕留めました。
最も多いラインは、八頭を仕留めています」
「ほう。今のところ、ラインが首位か」
(これまでの中間考査では、上等資質や中等資質の生徒が上位を占めることが多かった。
下等資質の生徒が全員を抑えているとは、確かに珍しい。
とはいえ、ラインには酒虫がある。一環上位の質にまで精錬された青銅精神力を使えるのだから、今の段階で首位に立っても不思議ではない)
「だが、この先はライル、ノア、メルの三人も追いついてくるだろう。
酒虫があっても、ラインの精神力の回復速度は、上等資質や中等資質の者には遠く及ばない」
長老たちは、それぞれの見方を低い声で交わしていた。
「もうよい。持ち場へ戻れ」
学堂長老は精霊使いへ手を振り、さらに念を押す。
「ほかの者にも伝えておけ。警護には決して隙を作るな。
特にライル、メル、ノアの三人からは目を離さず、何か起きればすぐに助けられるよう備えておけ」
「承知いたしました」
精霊使いは命令を受け、その場から立ち去った。
大半の生徒にとって、野外で本物の猛獣と戦うのは今回が初めてだった。
当然、命を落としかねない危険も伴っている。
一族も、その危険を放置しているわけではない。
数十人の二環精霊使いが森の各所へ身を潜め、考査全体を監視していた。
さらに、三環に達した長老たちまで直接ここへ赴き、いつでも不測の事態へ対処できるよう待機している。
灼熱の太陽は、天頂から少しずつ西へ傾いていった。
今では遠く連なる山並みへ近づき、燃え上がるような夕焼けを空一面に広げている。
その残光が森の隙間を照らす中、また一頭のイノシシが地面へ倒れた。
「二十三頭目」
ラインは頭の中で数を確かめると、死骸の前へしゃがみ込んだ。
慣れた手つきで狩猟刀を動かし、口元から二本の牙を切り取る。
背中には重い袋を背負っていた。
中には、今回の考査で手に入れたイノシシの牙が、すでにぎっしりと詰まっている。
だが、ラインが用意した袋はこれだけではなかった。
もう一つの袋には、以前から一人で狩ってきたイノシシの牙が入っている。
それらはもともと岩間の隠し洞窟に置いていたが、二日前の夜に密かに運び出し、別の人目につかない場所へ埋め直していた。
(私はこの辺りの地形も、イノシシの分布も知り尽くしている。
そのうえ、一環上位相当の精神力で月印を使い、微光蛍で補助することもできる。
ほかの生徒が私以上の速さでイノシシを仕留めるのは不可能だ
(背中の袋に入っている牙だけでも、首位は確実に取れる。)
「さらに、もう一つの袋まで持ち出したら、皆はどんな顔をするだろうな」
「ふふ……」
前世高校生としての魂が、思わず吹き出してしまった。
ラインは、次第に暗くなっていく空を見上げた。
そろそろ、もう一つの袋を取りに行く頃合いだった。
頭の中には、完全な地図が即座に浮かび上がる。
毎日のように記憶を繰り返した結果、獣皮の地図に描かれていた内容は、すでに細部まで頭へ刻み込まれていた。
現在地も正確に把握しており、ここから左へ曲がり、沢に沿って十五分ほど進めば、袋を埋めた場所へ着く。
ところが、歩き出そうとしたラインは、不意にその場で足を止めた。
(ここから最も近い赤い円までは、五、六百メートルしか離れていない。
せっかく近くまで来た。少し確かめに行くべきか?)
一度浮かんだ考えは、もう抑えられなかった。
考査の首位はほぼ確実であり、残された時間にも十分な余裕がある。
(獣皮の地図には、赤い円が三つ描かれていた。
三か所とも、オールド・ジャックにとって重要な場所だったはずだ。
そして、あれは地図の中で唯一、私にも意味を推測できなかった印だ)
(赤い円の中には、いったい何が隠されている?)
「確かめてみるか」
一族が大勢の精霊使いを森へ配置し、考査を監視していることはラインも承知していた。
それでも、彼らの目を避けるつもりはない。
むしろ、この発見に関しては、彼らが証人になってくれた方が都合がよかった。
ラインはその場で進む方向を変え、さらにイノシシの痕跡を探しているように装いながら、森の奥へ向かった。
十分ほど歩くと、地図に赤い円で示されていた場所へ到着した。
一本の巨木の上に、粗末な樹上家屋が作られている。
生い茂った枝葉の中へ巧妙に隠されており、あらかじめ地図に印があると知らなければ、真下を通っても気づくのは難しいだろう。
(オールド・ジャックが狩りの途中で使っていた仮小屋か?)
ラインはわずかに眉を寄せ、胸に浮かんだ疑念を抱えたまま木の幹を登っていった。
そして慎重に樹上家屋へ入り、中の光景を目にした瞬間、ラインの顔色が一変した。




