67.一頭分の力、地図に残された赤丸
時は瞬く間に過ぎ、六月も半ばを迎えていた。
夏の夜、漆黒の空には黄金色の月が高くかかり、
山々と大地を明るく照らしていた。
夜風が吹き抜けるたびに林の葉が揺れ、地面に落ちた月影にも波紋が広がる。
蝉と蛙の声が絶え間なく響き合い、ときおり遠くから届く狼の長い遠吠えが、
山々の間にいつまでもこだました。
一本の渓流が谷間を流れ、河原には水に磨かれた白く丸い岩が一面に広がっていた。
その河原のほとりで、今まさに一つの戦いが繰り広げられている。
一頭のイノシシは全身に細長い傷を負い、そこから絶え間なく血を流していた。
四肢で地面を蹴り、再びラインへ突進すると、その後には途切れ途切れの赤い血痕が残された。
ラインは少しも慌てず、冷静にイノシシと渡り合っていた。
すでに瀕死の重傷を負っているが、死に際の獣ほど危険なものはない。
残った力を振り絞って我を忘れたように暴れ回るため、わずかでも気を抜けば、ラインの腹は牙に貫かれるだろう。
月光を映したラインの黒い瞳に、冷ややかな光が宿っていた。
目の前の戦いへ意識を向けながらも、注意の一部は周囲へ残し、予期せぬ異変を警戒している。
近頃、ラインは何度も山林へ入り、イノシシを狩っていた。
そのたびに予想外の出来事にも遭遇しており、別のイノシシが戦いへ割り込んできたこともあれば、血の匂いに誘われた狼の群れが現れたこともある。
一度など、縄張りを離れて徘徊していた虎まで引き寄せられてきた。
だが、血を失うにつれてイノシシの動きは次第に鈍くなっていった。
ラインはその瞬間を逃さず、数歩踏み込んで自らイノシシへ向かっていく。
牙をかわしながら身を屈め、肩を腹の下へ差し込むと、両腕に力を込めて重い巨体を一気に担ぎ上げた。
「はっ!」
ラインは顔を赤くしながらイノシシを頭上まで持ち上げ、そのまま腰をひねり、全力で投げ飛ばした。
イノシシは河原の大岩へ叩きつけられ、凄まじい悲鳴を上げた。
数本の肋骨が一斉に折れ、その乾いた音が激しい衝突音に混じる。
大岩から転げ落ちたイノシシの口や鼻、耳から熱い血があふれ出した。
体を何度か痙攣させた末、ようやく完全に息絶える。
周囲には再び静けさが戻り、聞こえるのは渓流のせせらぎだけとなった。
水へ流れ込んだ赤い血はたちまち薄まり、そのまま下流へ消えていった。
「今の私なら、イノシシを一頭丸ごと持ち上げられる」
ラインは荒い息を整えながら、わずかに目を輝かせた。
「今夜は、通路の奥にある巨石も試してみるか」
ここ数日、ラインは毎日白イノシシの精霊で肉体を鍛え続け、その力は着実に増していた。
以前は月刃で少しずつ傷を増やさなければ倒せなかったが、
今では瀕死のイノシシなら、己の腕力だけで頭上まで持ち上げられる。
もっとも、白イノシシの精霊による強化が際限なく続くわけではない。
この精霊が与えられる力の上限は、イノシシ一頭分である。
そこへ達してしまえば、どれだけ精霊の力を使っても、腕力がさらに増すことはない。
「持ち上げられたからといって、真正面から力比べができるわけではない。丈夫な男なら別の男を抱え上げられるが、それだけで二人の力に圧倒的な差があるとは言えないからな」
ラインは足元の死骸を見下ろし、静かに判断を下した。
「まだ伸びる余地はある」
ラインは白イノシシの精霊を死骸へ放ち、残った肉をすべて食わせた。
続いて狩猟刀で二本の牙を切り取り、もともと傷だらけだった皮をさらに細かく裂きながら、月刃による切り口も念入りに潰していく。
残った死骸は放置しても問題ない。
夏の夜には多くの獣が動き回っており、間もなく肉食獣が血の匂いを嗅ぎつけ、残骸を片づけてくれるだろう。
仮に先に誰かが見つけたとしても、大きな疑いを抱かれることはない。
狩猟刀で何度も切り直したため、皮に残る傷はすでに乱れ、月刃によるものだと見分けるのは難しくなっていた。
ラインは暗赤色の淡い光に包まれた岩間の隠し洞窟へ戻り、二本の牙を壁際へ放り投げた。
牙同士がぶつかり、澄んだ音を立てる。
その一角には、すでに十数本のイノシシの牙が積み上がっていた。
どれも最近の狩りで手に入れた成果である。
ラインは足を止めず、細い通路へ入り、再び山の奥へ進んでいった。
足音が狭く長い通路に反響し、周囲の赤い土が放つ弱い光が、前方の道を照らしている。
通路の様子は、以前と何も変わっていなかった。
かつて地蔵花の精霊が埋められていた穴はラインの手で埋め戻され、行く手を塞ぐ巨石も、少しも動かず奥に横たわっている。
ラインは巨石の前まで進み、両手を岩肌へ押し当てた。
両足で地面をしっかり踏みしめ、全身に力を込める。
「はっ!」
筋肉が一斉に張り詰め、顔も充血して赤くなった。
しかし、どれだけ力を込めても、目の前の巨石はびくともしない。
しばらくして、ラインは両手を離し、ゆっくりと息を吐いた。
「今の私では、全力を尽くしてもイノシシ一頭を辛うじて持ち上げられる程度だ。
この岩は成獣のイノシシ五、六頭分はある。動かせないのが当然だな」
それでもラインは落胆せず、考えるように目を細めた。
「酒飲のカイが残した遺産は、やはり簡単には手に入らないか」
ラインは通路を引き返し、上の隠し洞窟へ戻った。
壁際から地図の入った竹筒を取り、地面にあぐらをかいて座ると、栓を抜いて獣皮の地図と十数枚の竹紙を取り出す。
獣皮の地図を広げたラインは、描かれた内容を覚えながら、ときおり指で地面に山道や川の形をなぞった。
こうして自分の手でも描くことで、記憶をより確かなものにしていく。
地図を手に入れて以来、ラインは毎日欠かさず同じ作業を続けていた。
物を収納できる精霊を持たないため、これほど大きな獣皮の地図を持ち歩くのは難しい。
竹筒を背負ったまま戦えば動きの妨げとなり、道中で地図そのものを傷つける恐れもあった。
そこでラインは時間をかけ、地図の内容を丸ごと頭へ叩き込むことにした。
面倒ではあるが、やり遂げておく必要がある。
目先の手間を嫌って先延ばしにすれば、後になってさらに厄介な問題として返ってくる。
そのことを、ラインは前世ですでに思い知っていた。
「若い体は、記憶力までよく働く、もう地図の半分以上を覚えた。
老いた頃の体なら、一方を覚えている間に、もう一方を忘れていただろうな」
ラインは小さく笑い、別の精霊を思い浮かべた。
「文庫虫が一匹いれば、この地図を食わせるだけで内容を丸ごと保存できる。文庫虫さえ失わなければ、いつでも細部まで思い出せるのだが」
酒虫や白イノシシの精霊と同じく、文庫虫も一環の精霊の中では珍しい種類だった。
値段が高いだけでなく、常に需要が供給を上回っており、市場へ出てもすぐに買い取られてしまう。
前世のラインは酒虫も白イノシシの精霊も手に入れられなかったが、文庫虫だけは偶然手に入れたことがある。
その文庫虫はラインの成長とともに位を上げ、六十年もの間、彼の傍らにあり続けた。
「考えても仕方がない。文庫虫はもともと数が少ないのだ。欲しがったところで、何もない場所から湧いてくるわけではない」
ラインは手に入らないものへ、いつまでも執着する性分ではない。
しばらく考えた後、文庫虫のことを頭の隅へ追いやった。
二度目の人生を歩む今、ラインの状況は前世の同じ頃より遥かに恵まれている。
前世ではまだ一環初位に留まっていた一方、ライルやメル、ノアたちはすでに一環上位へ達し、ラインを大きく引き離していた。
しかし今のラインは一環中位に達し、ほかの主だった生徒も同じ中位に留まっている。
下等資質でありながら、上等や中等資質を持つ同世代に一時的とはいえ並んでいるのだから、決して容易なことではなかった。
最大の理由は、もちろん酒虫にある。
それに加え、前世で積み重ねた修練の経験によって、無駄な遠回りをせずに済んでいた。
そして、ライン自身が生み出した圧力も、わずかながら影響している。
ラインに霊石を奪われ続けた生徒たちは、年長者から指導を受け、拳法や戦い方の鍛錬へ多くの時間を費やすようになった。
実戦での力は前世より高まった一方、空界へ精神力を注ぐ時間は減っている。
そのため、今世の生徒たちは前世よりも戦いに慣れているが、環階の上昇はわずかに遅れていた。
もっとも、この影響も長くは続かない。
精霊使いの初期修練は比較的容易であり、十分な資質さえあれば、短期間でもはっきりと成長が現れる。今ではライル、ノア、メルの三人が急速に一環上位へ近づき、ラインを追い越す兆しを見せ始めていた。
三人はラインより優れた資質を持つか、背後にいる一族の権威者から絶えず資源を与えられている。
修練が進むにつれ、その差がようやく表へ現れ始めたのである。
酒虫によって辛うじて保ってきたラインの先行も、すでに失われかけていた。
もちろん、ラインが最近、狩りへ多くの時間を費やしていることも原因の一つだった。
白イノシシの精霊を養い、肉体を強化するために時間と労力を注いでいる以上、環階の向上だけへ集中することはできない。
「この調子なら、遠からず誰かが最初に一環上位へ進むだろう。首位には霊石三十個が与えられるが、今回は争うつもりはない」
ラインはすでに、そう決めていた。
白イノシシの精霊による強化を一時的に止め、すべての時間を修練へ回せば、誰より早く一環上位へ進める可能性は残っている。
しかし霊石三十個は決して少なくないものの、今の計画を変えるほどの額ではなかった。
目先の褒賞よりも、今は周囲から向けられる関心を弱める必要がある。
本当の行動を隠し続けてこそ、酒飲のカイが残した遺産をより安全に調べられる。
現段階では、それこそが最も重要なことだった。
「学堂が褒賞を設けているのは、生徒の修練を促すためだ。一族の育成制度にすぎないものへ振り回され、霊石三十個のために自分の予定を崩すのは割に合わない」
ラインは思考を打ち切り、再び獣皮の地図へ意識を戻した。
この地図には表裏があり、表には昼間の山林、裏には夜に行動する獣や危険な場所が記されている。
さまざまな色の直線と曲線が複雑に交わり、それぞれの色や形が異なる意味を持っていた。
印の大半が何を示すのかは、オールド・ジャック本人にしか分からない。
すでに彼は死んでいるが、仮に生きており、無理やり説明させたとしても、ラインはその言葉を簡単には信じなかっただろう。
ここ数日、ラインは自分の経験と竹紙の内容を照らし合わせ、地図に記された情報の大半を読み解いていた。
「赤い×印は、危険な場所か、決して近づいてはならない場所を示しているはずだ。この印は大型のイノシシの群れに囲まれている。恐らく、中心にはイノシシ王がいる」
ラインは地図の端にある赤い×印を見つめ、冷ややかに呟いた。
「今の私がイノシシ王と出会えば、まず間違いなく死ぬ」
オールド・ジャックのことを思い出し、ラインは小さく鼻を鳴らした。
竹紙には、この赤い×印が描かれていなかった。
もしラインが竹紙の内容を完全に信じ、いつかこの場所へ迷い込んでいれば、イノシシ王の牙にかかって命を落としていた可能性が高い。
オールド・ジャックは自らラインを襲うのではなく、最も重要な情報だけを意図的に隠し、イノシシ王に息子の仇を討たせようとしていた。
そうすればラインが山中で死んでも、自分へ疑いが向けられることはない。
「だが、この三つの赤い円は何を示している?」
ラインは地図上の別の印へ視線を移し、疑問を浮かべた。
三つの赤い円は、それぞれ地図の中でも特に人里から離れた場所にあり、互いに大きく離れていた。
近くに大型の獣の群れはおらず、ほかの印から判断する限り、むしろ比較的安全な場所に見える。
「赤は、この地図で最も目立つ色だ。
オールド・ジャックがわざわざ三か所へ円を描いた以上、彼にとって重要な何かがあるはずだ」
ラインは三つの赤い円を見つめ、再び思考を巡らせた。
「残念ながら遠すぎる。もう少し近ければ、実際に見に行くだけで何があるのか分かるのだが」




