63.亡骸の帰還、老狩人の地図
木々は山土の奥深くまで根を張り、太い幹と枝を空へ向かって伸ばしていた。
幾重もの樹冠が頭上で絡み合い、陽光は葉の隙間からわずかに漏れる。
地面には、細かな光の斑点が揺れていた。
その林に囲まれて、一軒の丸太小屋が建っていた。
小屋は太い丸太を組み上げて造られ、日陰になった壁には苔がびっしりと生えている。
完全には枯れていない木材からは、細い若枝さえ伸び始めていた。
小屋の周囲には、竹の柵が巡らされている。
前後にはそれぞれ畑が開かれ、庭の中央には石造りの井戸があった。
今、その井戸端で一人の少女が水を汲んでいた。
名はリリー。年は十六ほどだった。
身に着けているのは、質素な麻布の長衣だけ。
黒髪は後ろで無造作に束ねられ、汗に濡れた後れ毛が、白い頬へ張りついている。
澄んだ両目は、井戸の中へじっと向けられていた。
リリーは歯を食いしばり、井戸縄を少しずつ引き上げる。
やがて水で満たされた木の桶を井戸の縁まで持ち上げ、石敷きの上へ下ろした。
ごとり、と鈍い音が鳴った。
「ふう……」
リリーは頬を膨らませて長く息を吐き、手のひらで何度も顔をあおいだ。
そのとき、丸太小屋の扉が開き、オールド・ジャックが中から出てきた。
髪はすでに白くなり、顔には深さの違う皺が幾筋も刻まれている。
それでも腰と背は、今なお真っすぐに伸びていた。
疲れのにじむ両目にも、視線を動かすたびに鋭い光が閃いた。
まるで、老いてなお威を失わない山の虎だった。
「リリー、その桶重すぎる」
老人は早足で井戸へ近づいた。
声には咎める響きがあったが、少女を見る眼差しには慈しみが満ちていた。
「畑にやる水は、俺起きてから汲む言っただろう」
「とっちゃん!」
リリーは明るい笑顔を浮かべた。
「昨日は遅くまで狩りをしていたんだから、今日はもっと寝ていてよ
桶一つくらい平気よ、ほら、ちゃんと汲み上げたでしょう?」
「まったく、無理ばかりする」
老人は困ったように首を振り、片手で桶を軽々と持ち上げた。
「ほら、俺水汲む。お前畑に水やってくれ」
夏の風が山林を通り抜け、
野草と花の香りを運んでくる。
畑では、リリーが腰をかがめ、木の柄杓で苗に水を与えていた。
老人は井戸のそばに立ち、二つの桶を交互に引き上げていく。
父娘は時折、短い言葉を交わした。
庭全体が、穏やかで温かな空気に包まれていた。
だが、何度か続けて桶を引き上げると、老人はとうとう手を止めた。
井戸の縁に手をついて数度息を整え、額に浮かんだ汗を拭う。
「やはり歳だな」
彼は自嘲するように笑った。
「水何杯か汲んだだけで、腕もう重くなってきた」
リリーが振り返り、明るく笑う。
「ようやく認めたのね。
これから山へ狩りに行くのは、兄ちゃんに任せればいいわ。
とっちゃんは長い間働いたんだから、もう家で休んでもいいころよ」
「ジャックの腕、もう十分だ。
特に弓の腕、若いころの俺より上だ」
老人は一度頷いたあと、小さく息を吐いた。
「だが、あいつは外の世界憧れすぎている
この山に閉じ込められていると思い込み、出ていくことばかり考えている。
若者は、山出ればどこにでも好機転がっていると思いたがる
実際痛い目を見なければ、暮らしは思うほど楽ではないと分からん」
「とっちゃん……」
リリーは声を長く伸ばした。
兄への小言を、これ以上聞きたくないらしい。
老人は声を立てて笑った。
「あいつだけの話ではない、お前もだ。あと数年すれば、自分の将来考えなければならん
俺お前に信頼できる男を見つけ、二人家庭築くところまで見届ける
そのあと孫の面倒まで見られれば、俺の人生思い残すことはない」
リリーは頬を赤らめ、慌てて顔を伏せた。
「どうして、またそんな話をするの……」
「大事な話だからだ」
老人は笑ったまま答える。
「ジャック落ち着き、お前の嫁ぎ先決まったら、俺弓を置く。
もう二度と山入らん」
オールド・ジャックは、木々の間から見える空を仰いだ。
その声が、次第に低くなっていく。
「狩人、この歳まで無事生きるのは珍しい
若いころ一緒に山へ入った者たち、今では一人も残っていない」
「それは違うわ」
リリーは柄杓を置き、優しく言った。
「とっちゃんには、私たちがいるでしょう」
老人は一瞬目を丸くしたあと、
その顔に再び笑みを浮かべた。
「そうだな。俺には、お前たちがいる……」
バン!
激しい音が、庭の静けさを突然打ち砕いた。
竹柵の小門が外から蹴り開けられ、脇の竹柱へ強く叩きつけられた。
その衝撃で、枯れ葉が一斉に舞い落ちた。
オールド・ジャックが、勢いよく振り返った。
倒れた門をまたぎ、ラインが庭へ入ってくる。
その顔は冷ややかでわずかに上げた右の掌には、青い月光の印が浮かんでいた。
オールド・ジャックはそれが精霊の力だと一目で見抜いた。
瞳孔が鋭く縮まり、ほとんど迷うことなく跪く。
さらにリリーを庇い、自らの背後へ隠した。
「精霊使い様、こちらへどのようなご用件で?」
「お前がオールド・ジャックか?」
ラインは老人を見下ろして尋ねた。
オールド・ジャックの胸に、
強い不吉な予感が湧き上がる。
それでも、低い声で答えるしかなかった。
「はい」
「オールド・ジャック」
ラインの口調は、あくまで平静だった。
「お前の息子は、山で私に無礼を働いた。すでに私が殺した。
死体を運べ」
まるで、ありふれた出来事を告げるような声だった。
竹柵の外から、二人の若い狩人が入ってきた。
先ほど地面に跪き、命乞いをしていたジョンと、もう一人の男だった。
二人は前後に分かれ、ジャックの死体を運んでいる。
欠けた頭部には上着が被せられ、垂れ下がった腕には、まだ乾いていない血が残っていた。
オールド・ジャックは亡骸がまとっている服を見た。
その体が激しく震え、顔から一瞬で血の気が引いた。
「兄ちゃん――!」
リリーは悲痛な叫び声を上げ、父親の背後から飛び出した。
ジャックのそばへ駆け寄ると、震える手で上着の端を持ち上げる。
一目見ただけで、全身が凍りついた。
やがて兄の服を強くつかみ、頬を伝う涙を止められなくなった。
ジョンと仲間は、何も言わず脇に立っていた。
二人とも普段からリリーに好意を抱いている。
死体のそばで泣き崩れる彼女を前に、何度か唇を動かしても、慰めの言葉一つ出せなかった。
ラインは、少女の泣き声など気にも留めなかった。
「オールド・ジャック」
彼は、すぐに本来の目的を告げた。
「聞けば、お前は近隣の村で最も経験豊かな狩人らしいな。
山の罠だけでなく、どの獣がどこによく現れるかも知っている。
今から私のために地図を描け。
お前の知っていることを、すべて書き込め」
オールド・ジャックはまだ息子の死を受け止め切れていない。
呆然としたまま、ラインへ顔を上げた。
ラインは構わず続ける。
「十分に詳しい地図を描けば、これ以上は追及しない。
ジャックが精霊使いに無礼を働いた件は、そこで終わりだ」
お前の家族にも手を出さない」
「だが、地図を描けないなら話は別だ、意図的に何かを隠していた場合も同じだ……」
掌に浮かぶ青い月光が、わずかに明るさを増した。
「お前たち全員に、その報いを受けてもらう」
山麓にある村々はすべてローデン領の支配下に置かれていた。
そこに住む村人もローデン一族の奴隷として登録されている。
彼らは畑を耕し、山で狩りをして、得たものの一部を手元へ残すことも許されていた。
しかし、一族の者と同じ地位を得ることはできない。
ローデン一族の掟では、奴隷が一族の精霊使いを襲えば、重大な反抗行為と見なされる。
徹底的に罪を問われた場合、当人が殺されるだけでなく、家族まで巻き込まれかねない。
ラインはその掟を利用し、老人が一生かけて蓄えた狩りの経験をすべて差し出させようとしていた。
「あんたが……」
リリーが突然、顔を上げた。
涙に濡れた両目は、怒りで赤く染まっている。
「あんたが、兄ちゃんを殺したのね!」
少女は勢いよく立ち上がり、我を忘れてラインへ突進した。
「殺してやる!」
しかし数歩も進まないうちに一人の影が横合いから飛び出し、彼女の行く手を必死に塞いだ。
止めたのはジョンでも、もう一人の狩人でもなかった。
彼女の父親だった。
「やめろ!」
オールド・ジャックは低く怒鳴り、片手を振り上げてリリーの頬を打った。
パン!
リリーは平手に打たれ、その場へ尻もちをついた。
信じられないという目で、父親を見上げている。
老人は少女の前に立ち、打ち終えた手を今も震わせていた。
その目からは、すでに涙があふれ、皺に覆われた頬を伝っていた。
「ジャックもう死んだ!」
老人の声は、ひどくかすれていた。
「お前まで死ぬつもりか!
一日のうちに、俺から子供二人とも奪うつもりか!」
「とっちゃん……」
リリーは頬を押さえ、ようやく我に返った。
震える父の背中と、地面に横たわる兄の亡骸へ交互に目を向ける。
憎しみも、悔しさも、悲しみも、
すべて胸の中につかえていた。
それらは結局、止めどなく流れる涙にしかならなかった。
オールド・ジャックは振り返り、再びラインの前へ跪いた。
深く身を伏せ、両手を地面へ強く押しつける。
力の入った指の節は、白くなっていた。
「息子が分をわきまえず、精霊使い様に無礼を働きました」
声は涙に詰まり、
一語一語を口にするだけでも苦しそうだった。
「地図描きます、私知る罠も獣の出没場所も、何一つ隠しません
どうか、家族だけはお許しください」
ラインの表情が、わずかに和らいだ。
「地図に問題がなければ、これ以上お前たちには手を出さない。
ただし、私を欺かないことだ。
一か所でも不審なところが見つかれば、約束は破棄する。
お前たち一家全員に、代償を払ってもらう」
「承知しました」
老人は低い声で答えた。
「家の中から、紙と木炭取ってまいります」
「その必要はない」
ラインは手を上げ、老人を制した。
それからジョンたちへ顔を向ける。
「お前たちが中へ入り、紙と木炭を探してこい」
二人の狩人は体をこわばらせ、慌てて返事をした。
少しも逆らおうとはせず、すぐに丸太小屋の中へ入っていった。
「紙と木炭なら、台所の卓の上です」
オールド・ジャックが付け加えた。
ラインは彼を一瞥したが、何も言わなかった。
ほどなくして、ジョンたちが家から戻ってきた。
手には一束の薄緑色の厚紙と数本の木炭筆を持っていた。
それは、ヴェルデン山一帯でよく使われる竹紙だった。
この辺りは湿気が多く、普通の紙を置いておけばすぐに湿って柔らかくなってしまう。
一方、竹紙は丈夫で腰が強いため、山中の丸太小屋に長く置いても腐りにくかった。
オールド・ジャックは井戸端の石敷きに竹紙を広げ、跪いたまま地図を描き始めた。
最初に村と川、数本の主な山道を描いた。
さらに尾根や巨岩、谷、特徴のある木を目印に、近隣の狩人が仕掛けた罠を一つずつ記していった。
続いて、地域ごとの細かな地図を何枚も描いた。
野生のイノシシや鹿、熊、そのほかの獣がよく現れる区域や水場まで書き込んでいく。
時間はゆっくりと過ぎ、庭へ差す陽光も、次第に傾いていった。
オールド・ジャックは十数枚の竹紙いっぱいに地図を描き、ようやく木炭を置いた。
指は黒く染まり、両手も小さく震えている。
疲労のためなのか。
それとも、息子の亡骸が今もすぐそばに
横たわっているためなのかは分からなかった。
「精霊使い様、私の知ることは、すべてここに描き込みました」
彼は竹紙を両手で捧げ持ち、
恭しくラインへ差し出した。
ラインは地図を受け取り、素早く全体に目を通した。
描かれた線こそ簡素だが、
山道と地形、罠、獣の分布はどれもはっきりと記されている。
一人で山林を当てもなく探すより、はるかに役立つ地図だった。
しかし、それだけで老人を信じることはなかった。
ラインは十数枚の地図を二組に分け、
ジョンと、もう一人の狩人へそれぞれ手渡した。
「お前たちも、この山で狩りをしている。
この地図が何を示しているかは分かるだろう」
ラインは淡々と告げた。
「隅々まで調べろ、誤りを一つ見つけるたびに、霊石を一個与える。
意図的に隠された情報についても同じだ」
ジョンたちは反射的に、老人へ目を向けた。
オールド・ジャックの顔から、
再び血の気が引いていく。
この瞬間になって初めて、老人は理解した。
ラインは最初から、
たった一言の約束で老人を信じるつもりなどなかったのだ。




