60.弱さという盾、狩りで得る糧
ここ数日、暑さは日に日に増していた。
正午。
灼けつく太陽が、ヴェルデン山の上空に居座っていた。
遮るもののない陽光が、白く眩しく降り注いでいる。
商隊が去った宿屋は、再び閑散としていた。
広い食堂にも、客は数人しかいない。
ラインが入ると、顔なじみの奉公人が迎えに来た。
愛想のよい笑みを浮かべている。
「ライン様、いらっしゃいませ。窓際のお席が空いておりますので、どうぞ奥へ」
「青竹酒を一本、牛肉を大皿で一つ。それと、小料理をいくつか」
ラインは、いつもの窓際の席へ向かった。
だが、奉公人はその場に残り、困った顔をした。
「申し訳ございません。先日、商隊が来た際に青竹酒が売り切れてしまいまして、今は一本もお出しできません」
ラインは、特に驚かなかった。
「なら、米酒に替えてくれ。それから番頭に、今年は青竹酒を多めに仕込むよう伝えてくれ。
先に百本注文するから、手付金がいくら要るか、計算して知らせてくれ」
酒虫の存在は、すでに公になっている。
酒を大量に買う理由を、今さら隠す必要はなかった。
「かしこまりました。必ず番頭へお伝えします」
奉公人は何度もうなずいた。
ほどなく、酒と料理が運ばれてきた。
ラインは食事を取りながら、窓の外を眺めた。
昼食時の通りに、人影は少なかった。
照りつける日差しに、石畳が白く光っている。
青竹造りの建物にも、眩しい光の縁が浮かんでいた。
農作業を終えた農夫たちが、通りを歩いていく。
皆、裸足で、ズボンの裾を泥水で汚していた。
鋤を肩に担ぐ者もいれば、竹籠を背負う者もいる。
重い足取りで、それぞれの家へ帰るところだった。
二人の子供が、その脇を駆け抜けた。
前の子は竹細工の風車を高く掲げ、後ろの子は泣き叫びながら追っている。
どうやら、大切なおもちゃを奪われたらしい。
少し離れたところから、青い帯を締めた若い精霊使いが二人、足早に歩いてきた。
先を行く者が手を伸ばし、邪魔だとばかりに農夫の一人を突き飛ばす。
「どけ。邪魔だ」
農夫は数歩よろめいた。
慌てて頭を下げ、道を空ける。
二人は一瞥もせず、通り過ぎていった。
ラインの視線は、しばらく通りに留まっていた。
だが、意識はすでに空界へ沈んでいる。
球形の水膜が静かに流れ、蒼緑色の霊海がゆるやかに波打っていた。
酒虫は海面に浮いたり沈んだりしている。
ときおり身体を丸め、心地よさそうに転がった。
月印の傍らでは、微光蛍が淡い光を放っていた。
逆矢は変わらず眠り、気配を隠している。
新たに錬化した白イノシシの精霊は、小さな翅を広げて霊海の上を旋回していた。
白イノシシの精霊は、黒イノシシの精霊と並ぶ、一環精霊の中でも指折りの珍品だ。
市場では、酒虫より高値がつくことも多い。
どちらも肉体を少しずつ強める精霊だが、その先の合錬経路は異なっていた。
黒イノシシの精霊は、髪糸の精霊と合錬すると、二環精霊鎧毛になる。
さらに、三環の鋼鎧毛へ高めることもできた。
全身の毛を鋼の針のように硬くする、攻撃と防御を兼ね備えた精霊だ。
一方、白イノシシの精霊と相性がよいのは、ヒスイズスキンだった。
合錬すれば二環のシロタマズスキンとなり、さらに三環の天蓬へ繋がる。
天蓬は全身の皮膚を白玉のように硬くし、月刃などによる傷も軽減できた。
だが、ラインが喜んだのは、珍しい精霊を手に入れたからだけではない。
(カイが巨岩の手前に白イノシシの精霊を埋めたのは、偶然ではないはずだ)
使い続ければ、持ち主の力を増やせる。
そして、通路の先は重い巨岩で塞がれている。
まず精霊を錬化し、巨岩を動かせるだけの力を蓄える。
それが、継承の最初の試練なのだろう。
カイは、ただ宝を残したのではないらしい。
与えた褒賞が、次の関門を越える手段になっている。
奥でも同じ仕組みが続くなら、二つ目、三つ目の試練があるはずだ。
後から来た者を誘い込み、殺すだけの罠とは思えなかった。
もちろん、危険は残っている。
それでも、カイが己の継承を後世へ託そうとしていたと考えれば、仕掛けには筋が通る。
一つずつ越えられれば、一族に頼らず成長する道が開ける。
(順調に進めば、三環へ達し、ヴェルデン山を出る時期も大きく早められる)
修練は、資源から切り離せない。
一族が与えられる資源には限りがある。
それ以上を表の競争で得るには、勝ち続けなければならない。
だが、勝つたびに実力や切り札を晒すことになる。
今のラインが多少の無礼を許されているのも、まだ弱いからだ。
アノを殺しても、コア派閥はそれ以上追及しなかった。
同級生から霊石を取り立てても、その背後にいる大人たちは直接手を出さない。
委員長を拒んでも、ハクは寛容な態度を崩さなかった。
彼らが、心からラインを認めたわけではない。
下等資質の一環精霊使いに、一族の上層部を脅かす力はなかった。
不愉快で、面倒を起こす少年。
その程度の相手に自ら手を下せば、己の格を落とし、狭量だと思われるだけだ。
弱さが、今のラインを守る盾になっていた。
だが、その盾は長くはもたない。
環階が上がれば、彼らも評価を変える。
取り込もうとする者も、抑えつけようとする者も現れるだろう。
派閥に入れば、ほかの派閥の敵になる。
すべてを拒めば、今度は何を企んでいるのかと疑われる。
多くの者に恨まれていても、今はまだ、上層部の利害争いに深く巻き込まれてはいない。
力を得れば、その均衡も崩れる。
衝突を遅らせるほど、ラインには有利だった。
だからこそ、カイの継承は都合がよかった。
そこから得る資源なら、人知れず使える。
表の競争で実力を晒さず、一族の体制の外で修練を続けられる。
一族の地位と資源を受け入れれば、立場を選ばなければならない。
使う価値のある駒になって初めて、多くの資源を与えられる。
だが、どれほど重要な駒でも、捨てられる可能性は消えない。
ラインは、その仕組みを嫌というほど知っていた。
周囲が見ているのは、下等資質の少年だ。
どの派閥でも、最優先で守られる者にはなれない。
(継承があれば、人知れず力を蓄えられる。だが、霊石の取り立てはまだ続けるべきだな)
収入のためだけではなかった。
白イノシシの精霊を手に入れた直後にやめれば、突然行動を変えた理由を疑われかねない。
そして、霊石が必要なのも事実だった。
眠る逆矢を日々の勘定から外しても、養う精霊は四体いる。
月印、酒虫、微光蛍、白イノシシの精霊だ。
月印と酒虫を養うだけでも、一日に霊石一個近くかかっていた。
四体となった今は、餌代だけで二個を超える。
空界の強化に使う霊石と生活費を加えれば、一日の出費は少なくとも五個だった。
普通の三人家族なら、五か月は暮らせる額だ。
手元に数百個の霊石があっても、この速さで使い続ければ、長くはもたない。
環階が上がれば、出費はさらに増える。
特に二環以降は、一度の合錬で莫大な資源を消費することもあった。
さらに、白イノシシの精霊には、餌の確保という問題もある。
イノシシ系統の精霊は豚肉を食べる。
中でも黒と白の二種は、食欲が並外れていた。
白イノシシの精霊は、五日ごとに成豚一頭分の肉を平らげる。
ヴェルデン山は斜面が険しく、人や家畜が暮らせる土地は限られている。
豚肉も牛肉も高く、普通の家では、大切な祭りでもなければ家畜を潰さない。
集落に出回る豚肉の大半は、狩人が仕留めた野生のイノシシの肉だった。
(こうなれば、自分で狩るしかないな)
丸ごとの豚を買い続ければ、霊石がかかるうえ、目立つ。
十四歳の少年が、どれほど肉好きでも、五日ごとに一頭を食べ切るはずがない。
自分で狩れば、餌を確保しながら出費も抑えられる。
ラインは杯に残った米酒を飲み干した。
奉公人を呼び、勘定を済ませる。
それから、宿屋を出た。
二体目の精霊の錬化に専念できるよう、学堂はちょうど数日間の休みを設けていた。
まずは、その休みを使って近くの山林を探る。
野生のイノシシが出没する一帯を確かめてから、本格的な狩りを始めるつもりだった。




