57.岩壁を穿つ月印、暗紅へ続く道
初夏の夜空には雲一つなく、澄んだ星の光に応えるように、
ローデン領の灯がまばらに瞬いていた。
竹造りの家々を抜ける夜風が、青々とした葉を揺らしている。
ラインはすでに集落を離れ、山の中の隠し洞窟へ潜り込んでいた。
岩壁の前に片膝をつき、右の手のひらを押し当てる。
掌から柔らかな青い光が漏れ、指の隙間を細かな石の粉がこぼれ落ちた。
膝の前には、小さな山ができていた。
この場所には、かつて記録の精霊が映し出す映像があった。
今は力が尽き、岩壁も元の姿に戻っている。
隣の岩肌とほとんど見分けがつかず、正確な位置を覚えていなければ、
酒飲のカイの遺産が壁の向こうに隠れているとは気づけなかっただろう。
あの夜のことは、今も鮮明に覚えていた。
重傷を負った酒飲のカイは、映像の中で遺産を残すと告げ、
後から訪れる者に、ローデン一族を滅ぼすよう求めた。
そのあとに浮かび上がった暗紅色の文字が、遺産への入口を示していた。
目の前の岩壁を砕け、と。
その場で道を開きたかったが、ルイスの死によってすべてを先送りにした。
現場の始末と調査への備えに手いっぱいで、
その間は集落の中だけで過ごしていた。
オスカーが去ると、学堂長老も密かな調査を打ち切った。
ラインはそこからさらに十日余り待ち、
噂が次第に静まったのを見計らって、洞窟の探索を再開したのだった。
今夜で、岩壁を削り続けて六晩目になる。
空界の青銅色の霊海はゆっくりと水位を下げ、
精神力が絶えず掌の月印へ流れ込んでいく。
岩肌に密着した青い光が揺れ、その下が少しずつ窪んでいった。
洞内には、かすかに擦れる音だけが残った。
かつて封印化石を削ったのと、同じ手法だった。
今回は中の精霊を傷つける心配がなく、多少は力を強められる。
それでも、この方法で厚い岩壁を貫くには、途方もない時間がかかった。
足元には、暗紅色の石粉が厚く積もっていた。
ヴェルデン山でよく見られる土は青みを帯びているのに、
ここの岩や土には奇妙な赤みがあり、ごく淡い光まで放っている。
月印の青い光が弱まると、その赤い輝きがいっそうはっきりした。
辛うじて手元を照らすだけの明るさはあり、
松明を用意する手間も省けた。
岩や土がなぜこのようになったのかは、
ラインにもまだ分からなかった。
鉄の槌やつるはしを使えば、はるかに早く進むだろう。
だが、その音が岩の裂け目を伝わって外へ届くかもしれない。
ようやく調査が終わったばかりなのだ。
数晩の手間を省くために、新たな疑いを招く必要はなかった。
だから、最も時間のかかる方法を選んだ。
毎晩少しずつ削り、いつもの帰りの時刻に間に合うよう切り上げる。
焦ったところで岩壁は薄くならず、
昼間の学堂生活も、これまでどおり続けなければならなかった。
五百年の経験で、忍耐も用心もすでに習慣となっている。
かつては面倒を嫌い、無駄に見える手順を省いたこともあった。
その代償を払って初めて、今うまくいったからといって、
次もうまくいくとは限らないと知ったのだ。
「ふう……」
ラインはゆっくりと精神力の供給を止め、
地面に腰を下ろして肩をほぐした。
長く片膝をついていたせいで、両脚がじんじんと痺れている。
膝を伸ばし、その痛みと痺れが薄れるのを待った。
岩壁には、背丈の半分ほどの高さの窪みができていた。
深さはすでに十センチ近く、削った面は周囲よりもずっと平らだった。
その下に積もる石粉が、ここ数晩の仕事の跡だった。
額の汗を拭い、指の関節で岩を軽く何度か叩いて、
響きに耳を澄ます。
最初のころとは音が変わっていた。
向こう側の空洞が、ずいぶん近づいたようだった。
目を閉じ、空界の様子を探った。
霊海はすでに二割も残っておらず、
精神力の消耗は予想より早かった。
すぐには作業に戻らず、もうしばらく休んで脚の感覚を取り戻してから、
再び岩壁へ寄った。
「もう一度だ」
青い光が再び灯った。
今度は削る範囲を狭め、すでに薄くなった箇所へ精神力を集中させる。
石粉が、先ほどよりも密に降り始めた。
さらに十五分ほど経ったとき、
掌の下の手応えがふっと消えた。
ラインは即座に力を止め、右手を離した。
岩肌に小さな穴が開いていた。
縁には暗紅色の微光がにじんでいるが、
奥の様子はまだ見えない。
小さな穴を中心に、周囲の薄くなった部分を削っていく。
緩んだ石片を手で支え、一枚ずつ外して足元に置いた。
ほどなくして、穴は籠の口ほどの大きさに広がった。
中から、長く淀んでいた空気が流れ出した。
ラインは数歩退き、顔を寄せて覗こうとはしなかった。
もともと風通しの悪い洞窟に、
長く閉ざされていた通路が繋がったのだ。
空気がどれほど淀んでいたかも分からず、
ここに留まるのは得策ではない。
岩の裂け目を通って外へ退き、
小川のほとりでしばらく待ってから戻った。
洞内の臭いはいくらか薄れていた。
それでも入口近くで足を止め、
異変がないかしばらく観察してから、
あの岩壁の前へ戻った。
残りの作業は、ずっと楽だった。
月印で縁を薄く削り、緩んだ箇所を手で折り取って、
破片を一つずつ運び出す。
ようやく、身を屈めれば通れるだけの穴が開いた。
その先には、まっすぐ下へ傾斜する通路が続いていた。
入口は低く狭いが、奥へ行くにつれて幅が広がり、
天井も高くなっている。
両側を覆うのは、ここでも暗紅色の岩と土だった。
淡い光が通路に沿って続き、
手前の輪郭は見て取れるものの、
その先は傾斜と影に遮られていた。
ラインは穴の前に立ったまま、
一歩も踏み込まなかった。
遺物を見つけることと、
継承の試練に臨むことは違う。
前者は多くの場合、
精霊使いが死んだあとに残された品々だ。
見つけた者が、まだ生きている精霊や財物を持ち帰れば、
それで済む。
後者は、遺す者が生前から意図して整えたものだった。
自分の技を受け継がせるため、後進を助けるため、
あるいは死後も願いを果たそうと、
試練を設けて後継者を選ぶ。
酒飲のカイの目的は明白だった。
ローデン一族を滅ぼしてくれる、復讐者が欲しいのだ。
その人物をどう選ぼうとしたかによって、
通路の先に待つものも変わる。
正道の者が課す試練は、
通常、条件が比較的はっきりしている。
能力だけでなく気質や品行も問われるが、
たいていは、失敗しても引き返す余地があった。
外道が残した仕掛けは、
そう簡単に一括りにはできない。
頭の働きを試すのを好み、
幾重にも絡み合う謎を残す者もいる。
後継者が何年費やしても、
答えにたどり着けるとは限らない。
一方で、そんなことには頓着せず、
密室に精霊と霊石を置いておくだけで、
最初に見つけた者がすべてを得られる場合もあった。
命を賭けなければならない試練もある。
一歩でも踏み違えれば、
二度と引き返せなくなる。
もっと悪質なものも、ないわけではなかった。
継承という話自体が、初めから終わりまで嘘なのだ。
そもそも後継者など選ぶ気はなく、
宝を餌に、死んだあとまで人を害そうとしているだけだった。
ラインは、そうした例を嫌というほど見てきた。
五環の精霊使いが残した遺産と聞いたくらいで、
その入口が宝庫に通じていると信じるはずもない。
後に名を知られる外道の遺産なら、
前世の経験から数多く知っている。
だが、酒飲のカイが残したこの通路については、
誰かが発見したという話さえ、一度も聞いたことがなかった。
この先で何が待つのか、
過去の記憶は何も教えてくれなかった。
「わざわざ映像まで残し、あれほど長く待たせた。本当に後継者を選ぶつもりではあるのだろう」
斜面の奥を見つめながらも、
警戒は緩めなかった。
「だからといって、楽に持ち帰らせてくれるとは限らない」
ラインは足元から石片を拾い、通路へ投げ込んだ。
石は地面にぶつかって斜面を転がり、
跳ねる音が次第に遠ざかっていく。
最後は、目の届かない奥で聞こえなくなった。
しばらく待ったが、ほかに物音はしなかった。
少なくとも、石が転がったことで目立った変化は起きていない。
とはいえ、石ころ一つで通路の安全まで
確かめられるわけではなかった。
腕を下ろすと、
体に溜まった疲れを改めて感じた。
今夜は岩壁を開くために、精神力を使いすぎている。
先へ進みたくとも、この状態で未知の試練へ踏み込むべきではない。
新しく開いた穴の前に石粉を薄く撒き、
外へ通じる岩の裂け目の入口近くにも、
同じように粉を敷いた。
次に来たとき、粉の表面の変化から、
人や動物が通ったかどうかを判断できる。
すべて終えると、
暗紅色の通路をもう一度だけ見て、踵を返した。
小川から数百メートル離れた、
人目につかない草むらに、
来る途中で隠しておいた青竹酒があった。
ラインは酒壺を取り出して封を開き、一口飲むと、
わざと少しだけ襟元へこぼした。
服の胸元が濡れ、体に酒の匂いが染みついた。
そのまま酒壺を提げ、山道を辿って集落へ戻る。
学堂の宿舎に着いたのは、
真夜中になる少し前だった。
一晩中帰らなければ、人目を引く。
だが、夜の前半に出かけて真夜中ごろに戻るのは、
酒虫を探していたころから、
すでに繰り返してきたことだった。
いつもの青竹酒まで持っていれば、
普段と比べて不自然なところはない。
ラインは部屋の扉を閉め、
酒壺を寝台の脇に置いた。
岩壁の向こうへの道は、もう開いている。
あとは精神力を回復させ、
次に探索へ向かう時間を見つければよかった。
窓の外では、虫の声がいつまでも続いていた。
星明かりが薄れ、空が白み始めるまで、
その夜は、ほかに何事も起こらなかった。




