56.水面に揺れる月、夜空に掲げる誓い
雲間に満月が浮かび、ヴェルデン山を月光が満たしていた。
オスカーは蟇を山道に沿って進ませていた。
慣れた道を外れれば、危険な獣の巣に踏み込むおそれがある。
四環の精霊使いといえど、何も恐れず進めるわけではない。
一行はその広い背に座り、跳躍のたびに激しく揺さぶられていた。
耳元を風が吹き抜けても、口を開く者はいなかった。
ローデン領の灯が背後に消えたころ、ようやく側近の一人が声を落として尋ねた。
「オスカー様。お戻りになったら、ルイス様の失踪についてお父上にどうご説明なさるのですか?
別の者に責任を負わせては……」
オスカーは首を振った。
「人祖の物語を覚えているか?」
側近はきょとんとした。
なぜ今、そんな話を持ち出すのか分からなかった。
「人祖は規と矩の力で無数の精霊を捕らえ、力を得たが、知恵を失った。
最後に網に残ったのは、態度の精霊、信頼の精霊、そして疑念の精霊の三体だった」
オスカーは前方を見据えたまま、話を続けた。
「人祖が解放を拒むと、三体は賭けを持ちかけた。
網を開けば、三体は一斉に別々の方向へ逃げる。そのうち捕まえた一体だけが人祖に従う、という賭けだ。
最後に何を捕まえたか、知っているか?」
「態度の精霊ですか」
「そうだ。態度だ」
オスカーの口元に、ようやく笑みが浮かんだ。
「父上は私を信じるかもしれないし、疑うかもしれない。それでも、私の態度だけは必ず目にする」
彼は、自分がしてきたことを一つずつ挙げていった。
ルイスの失踪を知るや商隊を調べ、手がかりをつかむとローデン領へ引き返した。
評議室では席にも着かず、相手の族長や長老たちを前に追及を続けた。
ラインの証言を確かめるため、貴重な四環精霊の愚直竹まで使い切った。
「戻ったら、さらに大金を積んでレオン・シュタールに調査を依頼する。
兄として、できることはすべてやった。これは紛れもない事実だ」
「ですが……」
「身代わりなど要らない」
側近を遮る声には、すでに落ち着きが戻っていた。
「そもそも、私がやったことではない。
取り繕うために犯人をでっち上げれば、かえって弱みを作ることになる。
私が身代わりを用意できるのなら、エミルもそれを暴く者を用意できる。
そうなれば、もともと無関係だったことについても、潔白を主張したところで信じてもらえなくなる」
側近はしばしためらい、改めて尋ねた。
「本当に、エミル様の仕業だとお考えなのですか?」
オスカーの笑みが消えた。
「あれほど周到に仕組めて、しかも得をする者など、あいつのほかに誰がいる?」
ゆっくりと両手を握り締め、声を低めた。
「これまでは、兄弟だからと遠慮もしてきた。
だが、向こうが先にここまでやったのだ。今後も私が情けをかけると思うなよ」
蟇は再び跳躍し、一行を乗せて森の奥へ消えていった。
遠く離れた斜面で、ラインは静かにその方角を見ていた。
彼らの会話は聞こえない。
月明かりに浮かぶ巨体が何度か上下し、やがて木々の梢にすっかり隠れるのが見えただけだった。
数日前にも、彼はここで傘を差し、商隊を見送っていた。
あのときは豪雨が山々を覆い、泥水が斜面を流れ下っていた。
今は雨雲もなく、青矛竹と針葉樹の森が山腹に広がっている。
曲がりくねった道が、その木立の間に見え隠れしていた。
「今夜は、どうにか切り抜けたな」
ラインの心は穏やかだった。
ルイスを殺した夜から、分かっていた。
現場の痕跡を消すのは、始まりにすぎない。
調べに来る者と渡り合う力がない以上、真相が露見すれば、ローデン一族は彼を差し出しかねなかった。
商隊との和解を、その身一つで買うために。
身を守るには、別の説明を人々に受け入れさせる必要があった。
嘘の中には十分な事実を織り込み、聞き手がすでに信じていることとも、つじつまを合わせなければならない。
今回の調査には、二つの立場が絡んでいた。
オスカーは父に申し開きをする必要があり、ローデン一族は名誉と交易を守らなければならない。
双方とも、無視できない事情を抱えていた。
ハクも、学堂長老も、オスカーも、そしてライン自身も、置かれた立場によって動きを縛られている。
利用できるのは、それぞれの制約がぶつかり合うところだった。
侍衛が宿舎へ踏み込んだとき、ラインは一環中位へ進んだことを利用し、騒ぎを学堂全体へ持ち込んだ。
人々はその激しい反撃を目にしながらも、修練の成果を認めざるを得なかった。
下等資質の生徒が、なぜ上等や中等の資質を持つ同級生より先に、一環中位へ進めたのか。
酒虫のことを自分から明かさない限り、その疑問は広がり続ける。
理由を説明するためにも、言うことを聞かない生徒を再び掌握するためにも、学堂長老はラインの行動を調べるはずだった。
その後も霊石を脅し取り続けたことで、上層部が抱く印象はさらに強まった。
早熟だが、衝動を抑えられない少年。
資質の判定で誇りを砕かれ、親族との仲も悪い。
だから一族を恨み、同級生を痛めつけて鬱憤を晴らしている。
その説明ならば、反抗の理由が分かる。
長老たちも、少年の心を見抜いた気になれる。
彼らにとってラインは、目先の利益をつかむ知恵こそあれ、大事を成すための忍耐も、深い思慮も持たない子供だった。
今夜の評議室でも、ラインはその印象に沿って演じ続けた。
否定し、ためらい、証人に嘘を暴かれてうろたえ、酒虫の存在が明るみに出ると憤る。
人々はその姿を見て、珍しい精霊を手放したくない一心で秘密を隠していたのだと信じた。
酒屋での出来事を語ったのは、商隊に属する者自身だった。
その証言は、ラインが自ら酒虫を見せるよりも説得力があった。
六個目の化石を持ち帰ったのも事実であり、他人が確かめられるのはそこまでだった。
犯人探しのほうは、少し示唆を与えるだけでよかった。
ラインが弁解を重ねるよりも、聞き手自身が思いついた答えのほうが受け入れやすい。
ベルナー一族の跡目争いは、途切れた手がかりを繋ぐのに、いかにもふさわしい説明だった。
オスカーがなおも彼を身代わりにしようとしたときには、すでに問題の意味が変わっていた。
ラインを守ることが、ローデン一族の利益を守ることになったのだ。
それまで彼を疑っていた学堂長老が、自ら進んで庇った。
行動を調べた記録は、ラインの潔白を主張する根拠へと姿を変えた。
その記録だけで、誰にも見られていないときの行動まで証明できるわけではない。
それでも、オスカーの追及を退ける理由には十分だった。
続く足跡の精霊による検証でも、不審な点は見つからなかった。
愚直竹だけは、確かに予想外だった。
それでも、四環の精霊が逆矢の気配に抗えるはずもない。
力を封じられて嘘を見抜けず、色が変わらなかったことが、皮肉にも人々が最も信頼する証拠になった。
そこまで考え、ラインは小さく笑った。
酒虫の出所には説明がつき、疑いは事件と無関係なエミルへ向けられた。
そして自分は、無事に評議室を出ることができた。
「ハクが学堂長老だけを残したのは、私のことを話すためだろう」
ラインは振り返り、集落の灯を見やった。
「学堂の騒ぎがここまで大きくなれば、あの男も方針を調整するはずだ。
何より気にかけているのは、ライルなのだから」
ハクは、あの上等資質の少年を重視している。
一時の感情で、その育成計画を狂わせることはしないだろう。
仮に族長が介入しなくとも、後継者が関わる以上、コア派とカル派もいつまでも黙っているとは限らない。
上層部の密談は聞こえない。
それでも、彼らがまず何を優先するのか、ラインには分かっていた。
オスカーのほうも、今ごろはエミルを最有力の容疑者と見ているだろう。
「これで二人の争いは、さらに激しくなるはずだ。あの精霊対戦大会も、早まるだろうか?」
結論は急がなかった。
自分が手を加えたことで、事態はすでに記憶にある展開からずれている。
過去の経験は進むべき方向を示してくれるが、この先も何もかも同じように起きる保証はない。
それに、レオン・シュタールがいる。
その名を思い浮かべると、ラインの笑みは薄れた。
難事件の捜査に長け、正義を掲げる人物。
侮ってよい相手ではなかった。
ただ、記憶にある彼は多忙だった。
オスカーが大金を積んだところで、すぐに動いてくれるとは限らない。
「二、三年。あるいは、もっと先か」
記憶をもとにした見積もりにすぎなかった。
本当にそれだけの時間を稼げるなら、二環、さらには三環へ進む機会も得られるだろう。
そのころには、使える手も今よりはるかに増えているはずだ。
今夜手に入れたのは、修練を続けられるだけの猶予だった。
斜面を渡る夜風が、湿った草木の匂いを運んできた。
ラインは深く息を吸い込み、もう一度、満月を仰いだ。
「天の原 はるかにひとり ながむれば 袂に月の 出でにけるかな」
歌は静かに、風の中へ溶けていった。
ふと、地球に伝わる寓話が脳裏によみがえった。
井戸に映った月を見て、月が水に落ちたと思い込んだ猿たち。
互いの体につかまり、次々に繋がって井戸の底へ下りていく。
先頭の猿がようやく水面に手を触れると、波紋が広がり、すぐそこに見えていた月は砕け散ってしまった。
人もまた、水に映った月を本物だと思い込む。
今夜、評議室にいた者たちは、それぞれに説明を見つけた。
そして、すべてを見通したと信じた。
ある者は未熟な少年を見、ある者は後継者の陰謀を見た。
どの判断にも、その人自身の立場と欲望が映り込んでいた。
ラインは空を見上げた。
瞳の中に、小さな月光が宿る。
彼自身もまた、その駆け引きの中にいる。
追い求めずにはいられないものを、その胸に抱いていた。
「この生では、私が本物の月になる」
その声は、かすかだった。
「山々を越え、雲海を渡り、幾世の盛衰を照らす。果てしない夜の上を、ただ独り歩み続けるのだ」
斜面には、十四歳の少年が独り立っていた。
高く懸かった満月は、どこまでも続く山林を照らし、その足元の青みがかった岩に細い影を落としていた。




