5.人祖と三体の精霊
一瞬にして、辺りが静まり返った。
無数の視線が、一斉にラインへと向けられる。
(ますます面白くなってきたな)
ラインは心の中で笑った。
大勢の目が注がれる中、川を渡り、向こう岸へ足を踏み入れる。
その瞬間、身体に圧力がかかった。
この圧力は、花畑の奥を流れる魂の暗流から来ている。
魂の暗流は精神力を生み出す。その精神力があまりにも濃く、満ちているため、この辺りには目に見えない圧力が生まれているのだ。
だがすぐに、ラインの足元に咲く花々から、淡い光の粒がふわりと浮かび上がった。
光はゆらゆらと漂いながらラインの全身を包み、やがて一つ残らずその身体へと吸い込まれていく。
(これが、希望の精霊か)
ラインは心の中で呟いた。
学堂長老から説明はなかったが、ラインはよく知っている。
この光の粒、その一つ一つが精霊だった。
その名は、希望。
希望の精霊については、この世界でもっとも古い伝承の一つが残されている。
遥かな昔。
世界が生まれたばかりの頃、大地はまだ荒れ果て、獣たちが我が物顔で歩き回っていた。
そんな世界に、最初の人間が生まれた。
その名を、人祖という。
人祖は生肉を食らい、血をすすりながら生きていた。
暮らしはひどく厳しかった。
なかでも人祖を苦しめたのは、「困境」と呼ばれる獣の群れだった。
困境たちは人祖の肉を好み、いつも彼を食らおうと狙っていた。
だが人祖には、岩のように頑丈な身体もなければ、獣のような牙や爪もない。
そんな人祖が、どうやって困境の群れと戦えるだろう。
食べ物すら安定して手に入らず、毎日逃げ隠れするばかり。
自然の中では、もっとも弱い側にいた。
このままでは、生きていくことさえできない。
そんなある日、三体の精霊が自ら人祖のもとへやって来た。
三体の精霊は言った。
「お前の命で私たちを養うなら、この苦境を乗り越える力を貸してやろう」
人祖には、ほかに道がなかった。
だから三体の精霊の申し出を受け入れた。
まず人祖は、自らの少年時代を、三体の中でもっとも大きな精霊へ捧げた。
その精霊が人祖へ与えたものは、力だった。
力を得たことで、人祖の暮らしは少しずつ良くなっていった。
食べ物を安定して手に入れられるようになり、自分の身を守ることもできるようになった。
人祖は勇猛に戦い、数多くの困境を打ち倒した。
だが、やがて痛い目を見ることになる。
そこで初めて気づいた。
力は万能ではない。
使えば疲れ、休まなければならない。
無闇に振り回せるものではなかった。
それに、困境の群れ全体を相手にすれば、一人の力などあまりにも小さい。
人祖は深く反省した。
そして今度は、自分がもっとも盛んな時期である壮年期を、三体の中でもっとも美しい精霊へ捧げることにした。
二体目の精霊が与えたものは、知恵だった。
知恵を得た人祖は、考えることを覚えた。
失敗を振り返り、経験を積み重ねるようになった。
そして多くの場合、力だけに頼るよりも、知恵を使ったほうがうまくいくことに気づいた。
力と知恵を使い、人祖はそれまで倒せなかった多くの困境を打ち破った。
困境の肉を食らい、その血を飲みながら、しぶとく生き続けた。
だが、そんな日々も長くは続かなかった。
人祖は老いた。
どんどん老いていった。
少年時代と壮年期を、それぞれ力の精霊と知恵の精霊へ捧げてしまったからだ。
人は老いれば、筋肉は衰える。
頭の働きも鈍くなる。
「人よ。お前はもう、私たちに何を差し出せる? お前には、私たちを養うものが何も残っていない」
そう言って、力の精霊と知恵の精霊は、人祖のもとを冷たく去っていった。
力も知恵も失った人祖は、再び困境たちに見つかった。
たちまち群れに囲まれてしまう。
すでに老いた人祖には、もう走る力もない。
歯も抜け落ち、野の果実や草さえまともに噛めなかった。
人祖は力なく地面へ倒れ込んだ。
周囲には、数え切れないほどの困境がひしめいている。
胸の中を満たしたのは、絶望だけだった。
そのとき。
三体目の精霊が、人祖へ語りかけた。
「人よ、私を養え。そうすれば、お前をこの困境から救ってやろう」
人祖は涙を流しながら答えた。
「精霊よ。今の私に、いったい何が残っているというのだ? 見てのとおり、力の精霊も知恵の精霊も私を見捨てた。私に残っているのは、この老いた時間だけだ」
「少年時代や壮年期と比べれば、老年など大した価値もない。だが、それさえお前に渡せば、私の命はすぐに終わってしまう」
「今は困境に囲まれていても、まだすぐに死ぬわけではない。私はもう少し生きたい。たとえ一秒でも長く」
「だから行ってくれ。もう私は、お前を養うことができない」
だが三体目の精霊は言った。
「三体の中で、私が求めるものはもっとも小さい」
「人よ。お前はただ、その心を私に渡せばいい」
「ならば、この心をお前に渡そう」
人祖は答えた。
「だが精霊よ、お前は私に何を与えてくれる? こんな絶望の中では、たとえ力の精霊と知恵の精霊が戻ってきても、もう何も変えられないだろう」
力の精霊と比べれば、その精霊の身体はあまりにも小さかった。
ただの小さな光の粒にすぎない。
知恵の精霊と比べても、その光はあまりに弱い。
わずかな白い光しか放てず、華やかさなどどこにもなかった。
しかし。
人祖が自らの心をその精霊へ渡した瞬間、小さな精霊から限りない光が溢れ出した。
その光を見た困境たちは、恐怖に駆られて叫んだ。
「希望の精霊だ! 逃げろ! 俺たち困境がもっとも恐れるのは、希望だ!」
困境の群れは、たちまち逃げ去った。
人祖は呆然とその光を見つめた。
そしてそのとき、初めて知った。
困境に立たされたときは、その心を希望へ預ければいいのだと。
そして今。
希望の精霊たちは一筋の光となり、すでにラインの体内へ流れ込んでいた。
外から押しつけてくる圧力を受け、光はすぐにラインの腹部へ集まっていく。
へその下、およそ三寸ほどの位置。
そこに自然と一つの光の塊を作り始めた。
ラインは、身体にかかる圧力が少し軽くなったのを感じた。
そのまま歩みを進める。
一歩進むたびに、花畑から新たな希望の精霊が飛び上がった。
次々とラインの体内へ入り、光の塊へ加わっていく。
光は少しずつ大きくなり、輝きも強くなっていった。
だが、川の向こうで見守っていた学堂長老は眉をひそめた。
「……希望の精霊の数が、少ないな」
ラインに注目していた長老たちも、その様子を見て胸の奥が沈んだ。
族長も眉を寄せる。
これは、とても上等資質に見られる反応ではない。
ラインは圧力に逆らいながら、さらに前へ進んだ。
(十歩未満なら、修練の資質なし)
(十歩から二十歩で末等資質。二十歩から三十歩で下等資質。三十歩から四十歩で中等資質。四十歩から五十歩で上等資質)
(今、二十三歩)
ラインは心の中で数え続ける。
(二十四……二十五……二十六……二十七)
前世よりも、ずっと先まで進めていた。
おそらく五百年を生きた経験によって、初魂そのものが以前より鍛えられているのだろう。
二十七歩目。
その瞬間。
腹の奥、両の腎臓の間に集まっていた光の塊が限界まで膨れ上がった。
そして――弾けた。
轟音が響いたわけではない。
それはラインの体内だけで起こった変化だった。
外から見ている者には、何も分からない。
だがラインだけは、その一瞬、天地がひっくり返るような不思議な感覚に襲われた。
全身の産毛が一斉に逆立つ。
毛穴がきゅっと閉じた。
意識は、強く引き絞られた弓弦のように、一気に張り詰める。
次の瞬間。
頭の中が真っ白になった。
身体から力が抜け、まるで雲の中へ沈み込んでいくような感覚に包まれる。
張り詰めていた意識がふっと緩み、逆立っていた産毛も静かに収まった。
閉じていた毛穴が一斉に開く。
気づけば、全身に薄く汗をかいていた。
言葉にすれば長い。
だが実際には、ほんの一瞬の出来事だった。
突然始まり、突然終わった。
ラインが我を失ったのも一瞬だけだった。
すぐに意識を取り戻す。
そして静かに意識を内側へ向け、自分の身体を探った。
腹部。
へその下。
両の腎臓の間。
そこに、それまで存在しなかった領域が生まれていた。
肉眼では見ることのできない、確かな空間。
空界だ。
空界が、開いた。
これこそ――永生へ至る希望だ!!




