6.下等と上等
空界は、実に不思議な存在だった。
確かにラインの体内に存在している。
だが、五臓六腑と同じ空間にあるわけではない。
無限に広いとも言えるし、無限に小さいとも言える。
空界そのものは球形をしていた。
その表面には白い光が流れ、薄い膜のように空界全体を包んでいる。
先ほどの希望の精霊たちが弾け、その光が集まってできた膜だった。
この光の膜があるからこそ、空界は形を保ち、崩れ落ちることがない。
そして空界の中に広がっているのが、霊海だった。
海面は鏡のように静かで、色は澄んだ青緑。
だが水そのものはひどく濃く、表面には青銅を思わせる光沢が浮かんでいた。
これは一環精霊使いが持つ、青銅色の精神力が凝縮したもの。
一般には「青銅海」と呼ばれている。
霊海の水位は空界の半分にも届かず、四割四分ほどしかない。
これが、下等資質の限界だった。
海を満たす一滴一滴が、すべて精神力だ。
ラインの魂が凝縮したものであり、これまで十四年のあいだに積み重ねてきた生命の力そのものでもある。
精霊使いは、この精神力を使って精霊を動かす。
つまりこの瞬間から、ラインは正式に一環精霊使いとなったのだ。
空界が開いたことで、もう希望の精霊がラインの体内へ入ってくることはない。
ラインは意識を外へ戻した。
前方から押しつけてくる圧力は、すでに分厚い壁のようになっている。
これ以上、先へ進むことはできそうになかった。
(前世は越えたか)
その結果に、ラインは淡く笑った。
「もう進めないのか?」
学堂長老が、わずかな期待を捨てきれないまま、川の向こうから声をかけてきた。
ラインは何も答えなかった。
そのまま身体の向きを変え、来た道を戻り始める。
それが何より明確な答えだった。
そこでようやく、周囲の少年たちも状況を理解した。
次の瞬間、人群が一気にざわめいた。
「えっ? ライン、二十七歩で止まったのか?」
「じゃあ……下等資質?」
「嘘だろ? あれだけ天才って言われてたのに、下等なのかよ!」
驚きの声が次々と上がった。
「兄さん……」
人混みの中で、ライルが顔を上げた。
川を戻ってくるラインを、信じられないものを見るような目で見つめている。
兄が、下等資質。
そんなことがあるはずがないと思っていた。
ライルはずっと、ラインなら上等資質に違いないと信じていた。
いや、そう思っていたのはライルだけではない。
叔父夫婦も、一族の多くの者たちも同じだった。
それなのに。
目の前に出た結果は、まったく違っていた。
「くそ……下等か」
ローデン一族の族長は、誰にも見えないところで拳を強く握った。
そして深く息を吐く。
失望を隠すことさえできなかった。
様子を見守っていた長老たちも、ある者は眉をひそめ、ある者は小声で話し始め、またある者は大きくため息をついた。
「測定が間違っている可能性はないのか?」
「あり得ん。この方法は昔から正確だ。それに我々がずっと見ていた。細工をすることさえ難しい」
「だが、それなら今までラインが見せてきた才能はどう説明する?」
「初魂の資質が高い子供ほど、幼い頃から普通とは違うところを見せることは確かに多い。頭の良さ、物覚え、理解の速さ、力、身のこなし……そういったものだ」
「だが逆は成り立たん。そうした才能があるからといって、必ず精霊使いとしての資質も高いとは限らない。結局は、覚醒の儀の結果がすべてだ」
「……期待が大きかっただけに、余計に堪えるな。ローデン一族も、代を重ねるごとに弱くなっている」
……
冷たい川の水が、ラインの靴と足を濡らしていた。
骨まで冷えそうなほど冷たい。
それでもラインは、変わらない表情で歩き続けた。
岸が近づいてくる。
学堂長老の重い表情も、はっきりと見えた。
百人を超える少年少女たちから向けられる視線も、嫌でも感じ取れる。
驚き。
動揺。
嘲笑。
喜びを隠せない者。
ようやく納得したような顔。
そして、すでに興味を失った冷たい目。
どれも、前世とまったく同じだった。
その光景を見ていると、ラインは自然とあの頃を思い出した。
前世の自分は、この結果を知った瞬間、本当に空が落ちてきたように感じた。
川を戻る途中には足を滑らせ、そのまま水の中へ倒れ込んだ。
全身ずぶ濡れになり、頭の中も真っ白になった。
それでも、誰一人として手を差し伸べてはくれなかった。
周囲から向けられる失望や冷たい目が、刃物のように心へ突き刺さった。
何を考えればいいのかも分からず、胸まで痛くなった。
雲の上から、一気に地面へ叩き落とされたようだった。
高く持ち上げられていたぶんだけ、落ちたときの痛みも大きかった。
だが、今は違う。
同じ景色をもう一度目にしても、ラインの心は驚くほど静かだった。
ふと、先ほどの伝承を思い出す。
困境に追い詰められたときは、心を希望へ預ける。
その希望なら、すでに自分の中にある。
決して大きくはない。
それでも、精霊使いになる資質すら持たない者たちよりは、ずっと恵まれている。
他人が失望したいのなら、勝手に失望すればいい。
それがどうした?
他人が自分に失望することと、自分の人生に何の関係がある。
大切なのは、自分自身が希望を捨てないことだ。
五百年を生きたラインは、一つのことをよく知っていた。
人生の価値は、他人に期待されることではない。
自分が求めるものを、自分の足で追い続けることにある。
誰かを失望させないために生きる必要もない。
誰かに好かれるために、自分の道を変える必要もない。
自分の道を行けばいい。
他人が失望しようが、嫌おうが、好きにさせておけばいい。
「……はあ」
学堂長老は深くため息をついた。
そして名簿へ目を戻す。
「次。ライル・ローデン!」
返事はなかった。
「ライル・ローデン!」
今度は大声だった。
洞窟の中に、その声が何度も響く。
「えっ? あ、はい! います!」
ライルはようやく我に返り、慌てて人混みから飛び出した。
だが、焦りすぎた。
足をもつれさせ、そのまま前へ転ぶ。
「うわっ!」
どぼん、と大きな音を立て、そのまま川へ転がり落ちた。
一瞬の沈黙。
そして。
「ははははは!」
周囲から、一斉に笑い声が上がった。
「兄弟揃って、大したことないな」
それを見た族長は鼻を鳴らした。
ラインへの失望がそのまま移ったかのように、ライルに対してまで苛立ちを覚えていた。
(最悪だ……!)
ライルは水の中でもがいた。
立ち上がろうとする。
だが川底は滑りやすく、足に力が入らない。
動けば動くほど姿勢を崩し、かえって無様になっていく。
岸から聞こえてくる笑い声が、ライルをさらに焦らせた。
そのときだった。
突然、襟元を強い力で掴まれた。
身体がぐっと持ち上がる。
ようやく顔が水面から出て、両足も地面を捉えた。
ライルは慌てて顔の水を拭った。
そして目の前を見る。
自分の襟を掴み、引き起こしていたのはラインだった。
「兄さ――げほっ、げほっ!」
声を出そうとした途端、水が喉へ入り、激しく咳き込む。
それを見て、また岸から笑い声が上がった。
「ははっ、似た者兄弟だな!」
笑い声はさらに大きくなる。
学堂長老も止めようとはしなかった。
眉を深く寄せたまま、失望を隠そうともしない。
どうすればいいのか分からず立ち尽くすライルの耳に、ふとラインの声が届いた。
「行ってこい」
ラインは静かに言った。
「これから先は、きっと面白くなるぞ」
ライルは思わず口を開いた。
ラインは岸に背を向けている。
そのため、ほかの者たちから彼の表情は見えない。
だが目の前にいるライルだけには、はっきりと見えた。
ラインは驚くほど落ち着いていた。
それどころか、口元にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいる。
何かを楽しみにしているような、意味の分からない笑みだった。
(下等資質だったのに……どうして兄さんは、こんなに平気なんだ?)
ライルの胸に、強い疑問が湧いた。
ラインはそれ以上何も言わなかった。
ライルの背中を軽く叩き、そのまま岸へ戻っていく。
ライルはしばらく呆然としていた。
それから、花畑へ向かって歩き始める。
(兄さん……あんなに落ち着いてる)
(もし俺だったら、きっと……)
俯いたまま、ぼんやりと足を進める。
だからライル自身も気づいていなかった。
今、自分がどれほど異常なところまで進んでいるのかを。
気づいたときには。
ライルはすでに、これまで誰一人として届かなかった花畑の奥に立っていた。
四十三歩。
「な……!」
学堂長老の目が大きく見開かれた。
そして次の瞬間。
「上等資質だ!!」
普段の落ち着きなどどこかへ消えたように、大声で叫んだ。
「上等!?」
「まさか、本当に上等なのか!?」
「三年ぶりだ! ローデン一族に、ようやくまた上等資質が出たぞ!」
見守っていた長老たちまで一斉に声を上げた。
誰も彼も、普段の威厳を忘れている。
「よし。ライルの先祖は、もともと我々の派閥から分かれた家系だ。この子は我々が引き取って育てよう」
カル・ローデンが即座に言い切った。
「ふざけるな!」
コア・ローデンが、椅子から飛び上がりそうな勢いで怒鳴った。
「お前のような老いぼれに何ができる! 人を育てるより潰すほうが得意なくせに! この子は私が育てる!」
「何だと!?」
二人が睨み合う。
だが、その声をさらに大きな声が遮った。
「誰も争うな!」
族長だった。
先ほどまでの失望は、跡形もなく消えている。
両目は興奮で赤くなり、まるで別人のようだった。
「この子は俺が直々に育てる! それが一番いい!」
そして周囲の長老たちを鋭く見回した。
「異論がある者は、俺ハク・ローデンに逆らうということだ。いいな?」




