45.三十三連勝、勝者の引き際
四日間降り続いた大雨が、ようやく上がった。
ヴェルデン山には再び陽光が差し、空気にも初夏の暖かさが混じり始めている。
連なる山林は鮮やかな緑から深緑へと変わり、雨水が岩の隙間をゆっくりと流れ落ちていた。
ローデン学堂の訓練場では、拳と蹴りのぶつかる音が続いていた。
ラインはノアのストレートを半身でかわすと、そのまま足の向きを変え、右脚を腹へ叩き込んだ。
ノアは低くうめき、五、六歩続けて後退した。
濡れた石床で靴底が滑り、最後には地面の白線を越えてしまう。
実戦訓練を担当する教官が、すぐに結果を告げた。
「ノア、場外!ラインの勝利――これで三十三連勝だ!」
訓練場の周囲は、しんと静まり返った。
ノアは腹を押さえながら体勢を立て直し、悔しげにラインをにらんだ。
「今回もお前の勝ちだ。だが、俺は確実に追いついている。いつか必ず、この手でお前を倒す」
ラインは彼に一度目を向けただけだった。
「今の蹴りで内臓を痛めている。そんな話をする前に、治療を受けたほうがいい」
「この程度の傷が何だ――」
ノアは最後まで言い切れなかった。
顔から急に血の気が引き、喉を鳴らした直後、口から鮮血を吐き出した。
周囲から驚きの声が上がった。
地面に散った血を見つめるノアの目に、初めてはっきりとした恐怖が浮かんでいた。
教官は急いで近づき、ノアの状態を確かめた。
それから、訓練場の端へ向けて手を上げる。
「命に別状はない。だが、数日は訓練を休ませろ。治療室へ運べ」
治療役の精霊使いが二人駆け寄り、ノアを支えて連れ出した。
去り際も、ノアはラインから目を離さなかった。
その視線には怒りと悔しさ、隠しきれない恐怖が入り混じっていた。
「ノアまで血を吐かされたぞ……」
「ラインはもう三十三人続けて倒している。誰にも止められないじゃないか…
でも教官は、全員一度は戦えと言っていたぞ」
生徒たちは訓練場の端に集まり、声を潜めて話していた。
すでに負けた者の中には、腫れた顔や痛めた腕を押さえている者もいる。
何人かは、地面へ座り込んだまま休んでいた。
重傷者こそいない。だが、ラインの連勝を見せつけられ、残った者たちは戦う勇気を失っていた。
「次!」
教官が声を張り上げても、誰も応じなかった。
普段からラインへ挑もうとするのは、ノアとメル、そしてライルくらいだ。
その三人が全員敗れた今、ほかの生徒は顔を見合わせ、こっそり後ろへ下がっていった。
教官の顔が、次第に険しくなっていく。
授業の前に、学堂長老から念を押されていた。
近頃のラインは威圧感が強すぎて、ほかの生徒が反抗さえできなくなっている。
ラインを生徒たちへの圧力として利用し、鍛えるのは構わない。
しかし、誰もが彼を倒せないと思い込むのは困る。
その恐怖が積み重なれば、失うのは挑戦する勇気だけではない。
強敵を前にして、自ら戦いを仕掛ける意志まで失ってしまう。
そこで今日の授業は、急きょ連続対戦へ変更された。
さらに、一位の褒賞も霊石二十個に増やしている。
生徒たちを次々とぶつけ、ラインの体力を削る。
そして、一度だけでも全員の前で負けさせる。
それが学堂の狙いだった。
「何を恐れている!」
教官は生徒たちの前まで歩き、雷のような声を上げた。
「ラインもお前たちと同じ十四歳だ!巨人でも怪物でもない。
同じ一族の血を引きながら、リングへ入る勇気さえないのか!」
何人かは俯いたが、それでも前へ出ようとはしなかった。
「どうせ勝てないよ」
「あいつ、どんどん手加減しなくなってる。ノアまで血を吐いたんだぞ…
次はもっとひどい目に遭うかもしれない」
「こんなの訓練じゃない。ただ殴られに行くだけだ……」
人混みの中から、小さな反論が聞こえてきた。
教官は内心で焦りを募らせる。
場外から見ている彼には、生徒たちよりもよく分かっていた。
ラインは呼吸を整え続け、表面上は疲れを見せていない。
それでも、三十三連戦して消耗しないはずがなかった。
特に最後の数試合では、最初ほど動きに余裕がない。
攻撃も回を重ねるごとに重くなっていた。
わざと生徒を傷つけているわけではない。
体力が落ちたせいで、力加減や間合いを正確に制御しきれなくなってきたのだ。
あと三、四人が挑めば、ラインも隙を見せる可能性が高い。
誰かが一度でも倒せば、生徒たちを覆う恐怖にも亀裂が入る。
しかし、次の重い一撃を受ける者はいなかった。
教官は何度か言葉を重ねたが、ほとんど効果がなかった。
もともと話術が得意ではなく、口にするのは勇気や名誉、一族の誇りばかりだ。
同じ話を何度も聞かされた少年たちは、もはや心を動かされなかった。
ラインはリングの中央で腕を組み、冷ややかにその様子を眺めていた。
教官の狙いなど、初めから見抜いている。
いつまでも挑戦者が現れず、教官はついにラインへ怒りを向けた。
「お前にも責任がある!これは生徒同士の訓練だ。
それなのに、戦うたび攻撃が重くなっている。次も相手に血を吐かせたら、お前の負けにするぞ!」
「教官、それは違う」
ラインは落ち着いた目で、教官を見返した。
「実戦訓練で手加減ばかりしていては、ただの演技になる。
実際の敵にも、手加減してくれと頼むつもりか?」
「ここは学堂だ。戦場ではない!」
教官は怒鳴った。
「同級生を傷つけたうえ、私にまで逆らうのか!」
「連続対戦を決めたのも、褒賞を増やしたのも教官だ。生徒をけしかけたのも同じだろう。いざ怪我人が出たら、責任だけ私に押しつける。ずいぶん都合のいい話だな」
教官は言葉に詰まり、すぐに怒りで顔を赤くした。
「これ以上屁理屈を言うなら、最後まで勝っても霊石二十個は渡さんぞ!」
その言葉を聞き、ラインはふいに笑った。
「たかが霊石二十個だ。本気で私が欲しがっていると思ったのか?」
そう言い残し、自らリングの外へ歩み出た。全員が呆気に取られた。
教官も、ラインが自分から退場するとは思っていなかった。
十四歳の少年なら、勝敗と自尊心を何より重く見るはずだ。
家からの援助も失ったラインは、誰よりも霊石に困っているはずだと考えていた。
一位の座と霊石二十個を餌にすれば、倒れるまで戦い続ける。
そう読んでいたが、ラインは最初から誘いに乗っていなかった。
自分から退場しても、規則には違反しない。
褒賞まで捨てた生徒を、人前で無理やり戦わせることもできなかった。
ラインが訓練場の端へ向かうと、周囲の生徒はすぐに道を空けた。
彼を中心に五歩ほどの空間が生まれ、誰も近づこうとしない。
まるで狩りを終えたばかりの獣を避けているようだった。
誰かが近くにいれば、押し殺した荒い息遣いが聞こえただろう。
(もう限界だな)
ラインの表情は普段と変わらない。だが、服の下では筋肉がわずかに震えていた。
身体は所詮、十四歳の少年のものだ。
筋力や持久力、防御力を強める精霊も持っていない。
戦闘経験だけで三十三人を連続して倒し、すでに身体の限界へ近づいていた。
しかも、ほかの生徒たちも成長している。
最初に霊石を奪ったときは、一、二度の攻防でノアたちを倒せた。
今のノアやメル、ライルが相手なら、五、六度、時にはそれ以上の攻防が必要になる。
相手が強くなるほど、疲れを隠したまま戦いを制御するのは難しくなる。
最後の蹴りでノアの内臓を傷つけたのも、体力が落ちて正確に力を抜けなかったからだ。
経験は、何もない場所から力を生み出す魔法ではない。
どれほど正しく判断しても、それを実行する身体が必要になる。
学堂が自分の威圧感を弱めようとすることも、ラインは予想していた。
アノを殺してから、霊石の支給日に反抗する生徒は減り続けている。
大半は一個の霊石を渡し、殴られずに帰る道を選んでいた。
このままでは、「ラインには勝てない」という認識が全員に定着する。
ラインにとっては好都合だが、学堂が望む結果ではない。
学堂は彼を圧力として利用し、ほかの生徒を鍛えようとしている。
だが、全員の自信まで完全に壊すことは許さない。
今日の連続対戦も、そのために仕組まれたものだった。
そしてラインも、霊石二十個のために参加したわけではない。
今の彼には、まだ五百個以上の霊石がある。
少なくとも、すぐ金に困る状態ではなかった。
本当の目的は、これまで築いた恐怖を保つことだ。
週に一度霊石を集めるとき、誰にも簡単には逆らわせない。
最初から戦いを拒めば、逃げたと思われる可能性がある。
反対に、体力が尽きるまで戦い、平凡な生徒に倒されれば、恐怖は一気に崩れるだろう。
そうなれば挑戦者は増え続け、修練を支える安定した収入も途絶えてしまう。
だからこそ、三十三人に勝ったところで退いた。本当に隙を見せる前に、自ら戦いを終わらせたのだ。
周囲の者が覚えているのは、ラインが三十三人を続けて倒したことだ。
ノアさえ血を吐くほどの一撃を受けた。
なぜ最後まで戦わなかったのか。
大半の生徒は、霊石二十個など眼中にないからだと考えるだろう。
「まだ戦っていない者は誰だ!訓練を続けるぞ!」
教官はしばらく黙り込んだあと、再び授業を進めるしかなかった。
ラインが退くと、生徒たちの胸にのしかかっていた重しまで消えた。残った者たちは、すぐに競ってリングへ入っていく。二人の少年が同時に白線を越え、どちらが先かで言い争うほどだった。
「こんなことなら、俺も後から戦えばよかった」
「ラインが自分からやめるなんて、誰に分かるんだよ」
「教官でも、あいつを引き止められないのか……」
訓練場の端から、絶えず話し声が聞こえてくる。教官の顔は、ますます険しくなった。
今回の訓練でラインの威圧感を弱めるつもりが、彼は一度も負けず、自ら引き際を選んだ。
そのうえ、自分の威信まで生徒たちの前で損なわれてしまった。
それでも、ラインは規則を破っていない。
褒賞も自ら放棄しており、これ以上責める理由は見つからなかった。
教官は最後に、人混みの向こうからラインを強くにらみつけた。
その視線に気づき、ラインはわずかに口元を上げた。
(やり方はずいぶん単純だ。だが、少しは可愛げがある)




