44.雨に消える痕跡、山に眠る継承
激しい雨が、ヴェルデン山を覆っていた。
黒雲が山頂に垂れ込め、遠くの山々は雨の向こうにかすかな輪郭を残すだけだった。
ときおり稲妻が空を裂き、遅れて雷鳴が山間に響き渡る。
三日間の滞在を終え、商隊はローデン領を出発した。
「足元に気をつけろ!荷車を泥にはまらせるな!」
「騎獣は隊列を離れるな!」
「後ろの護衛、縄を確認しろ!荷箱を濡らすなよ!」
隊列のあちこちから、指示が飛んでいた。
集落の近くには石を敷いた道があり、まだ進むのに支障はなかった。
だが、その先には狭くぬかるんだ山道が続いている。
荷車を引く荷鳥は頭を垂れ、濡れた羽を身体に張りつかせていた。
巨大な肥甲虫は、一歩進むたびに太い脚を泥へ沈めている。
山岳大蜘蛛は脚を縮め、滑りやすい道を慎重に進んだ。
翼蛇も翼を畳み、地面を這っていた。
その中で、大蟇だけは軽快だった。
背に荷箱を載せたまま、泥水の中を跳ねていく。
荷物を守るため、精霊使いたちもそれぞれの精霊を使っていた。
肥甲虫の上には、金光虫による淡い金色の障壁が広がっていた。
降り注ぐ雨を両側へ弾いているが、維持する間は精神力を消耗し続ける。
担当する精霊使いは、一定の時間ごとに交代していた。
「もう精神力が尽きる!」
「次は俺がやる。お前は休んで回復しろ!」
同じやり取りが、隊列の各所で繰り返されていた。
髪糸の精霊で大量の髪を編み上げ、自分と騎獣を覆う外套にする者もいた。
水蜘蛛の力で全身に淡い青色の水膜を張り、雨を流し落としている者もいる。
凡人の護衛たちは、粗末な防水マントで雨をしのぐしかなかった。
荷箱や縄を確かめながら山道を走り回るうちに、服の内側まで水が染み込んでいく。
冷えと疲労が、少しずつ身体をむしばんだ。
商隊の旅には、病気も土砂崩れも、野獣の襲撃もつきまとう。
荷物を狙う勢力に襲われることさえあった。
悪天候の中では、そうした危険も増す。
旅のたびに犠牲者が出るのは、珍しくない。
違うのは、その人数だけだった。
集落の門の外では、大勢の住民が雨に濡れながら商隊を見送っていた。
「来年も、また来てね!」
子供たちは、遠ざかる隊列へいつまでも手を振っていた。
大人たちは、同じようには笑えなかった。
旅の危険を知っているだけに、来年も全員と会えるとは限らない。
商隊が遠ざかるにつれ、市場の活気も失われていった。
テントと露店が並んでいた空き地には、踏み荒らされた草が残っている。
捨てられた木枠やごみが散らばり、足跡と車輪の跡には濁った水がたまっていた。
ラインは少し離れた斜面に、一人で立っていた。
黒い防水布を張った傘を差し、山道を進む商隊を眺めている。
騎獣と荷車が連なる隊列は、灰色の雨の中で小さくなっていった。
やがて、その姿は山林の奥へ消えた。
「都合のいい雨だ」
ラインは小さくつぶやいた。
身につけているのは、ありふれた麻の服だった。
十四歳の身体は、まだ細い。
傘の下では、黒髪が山風に揺れていた。
昨夜、ルイスを殺したあと、ラインは死体を処理した。
洞窟に残った血痕も、できる限り拭い去っている。
だが、何一つ痕跡を残さずに済んだとは思っていなかった。
洞窟までの足跡や、裂け目の周囲に残った匂い。
追跡系の精霊があれば、そこから二人の足取りをたどられるおそれがある。
今は、その斜面を激しい雨が洗っていた。
足跡には泥水が流れ込み、裂け目の周囲にも大量の水が落ちている。
洞窟の中まで洗い流してはくれない。
それでも、外に残った痕跡の多くは消せるだろう。
この雨は、ラインに時間を与えてくれた。
だが、その表情は険しいままだった。
ルイスは末等資質の一環精霊使いにすぎない。
しかし、ベルナー家当主の息子であり、商隊長オスカーの弟でもある。
失踪を見過ごせる身分ではなかった。
出発時の商隊は混乱していた。
ルイスも普段から、一人で動くことが多い。
今はまだ、兄を避けて別の場所にいると思われているかもしれない。
隊列の後方にいると考える者もいるだろう。
だが、人員を確かめれば、いないことは必ず分かる。
オスカーが旅を中断し、ローデン領へ引き返す可能性もあった。
「面倒なのは、これからだな」
ラインは、商隊が消えた方角を見つめた。
実力も経験も、ルイスはオスカーに遠く及ばない。
それでも当主が二人を同じ商隊に置いたのは、ただ仕事を与えるためではなかった。
ルイスには、兄との力の差を思い知らせる。
一方でオスカーには、弱い弟を抱えたまま商隊を率いられるかを試す。
家督争いで弟を死なせるような男に、安心して家を託せるはずがない。
ルイスは、父の意図に気づいていなかった。
兄に功績を奪われ、押さえつけられているとしか考えていない。
自分が後継者を見極めるための試金石にされているとは、思いもしなかっただろう。
ラインは、その焦りを利用するつもりだった。
ルイスは強くないが、身分は高い。
父に認められるだけの成果を欲しがってもいる。
利益を与えてやれば、商隊内部の協力者として使えたはずだ。
表向きには売れない戦利品の処分を頼み、ベルナー家の内情を探る。
商隊を通じて、ヴェルデン山の三家へ働きかけることもできる。
いずれ家督争いが激しくなれば、前世の記憶を使って利益を得る機会もあった。
長く使うには、都合のよい相手だった。
だが、カイの真の遺産が現れ、予定は崩れた。
五環精霊使いの遺産は、協力者一人とは比べものにならない。
ルイスも、それを見た途端に殺意を抱いた。
もはや、利益で手なずけられる相手ではなくなっていた。
両方を残せないなら、価値の低いほうを捨てるしかない。
ラインが惜しんだのは、ルイスを通じて得られたはずの利益だった。
雨に煙る山林から目を離し、昨夜の洞窟を思い返す。
ルイスを殺したあと、止まっていた映像に変化が起きた。
カイの姿が消え、岩壁に暗赤色の文字が浮かんだのだ。
――目の前の岩壁を砕け。
――その奥の道を進めば、真の遺産へたどり着く。
文字はしばらく残り、やがて消えた。
記録の精霊も反応を失い、岩壁と見分けがつかなくなった。
その場で壁を砕き、先へ進むつもりだった。
だが、ルイスを殺したことで、先に片づけるべき問題が増えていた。
死体と血痕、二人の足取り。
失踪が発覚すれば、調査も始まる。
それらを放置して、何が待つか分からない通路へ入るわけにはいかなかった。
ラインは岩壁に手をつけず、洞窟を出た。
「しばらくは、近づけないな」
踵を返し、集落へ向かう。
ルイスの失踪が分かれば、調査は直近で関わった者から始まる。
化石カジノの揉め事も、酒屋での会話も調べられるだろう。
二人が市場を離れた時刻まで、手がかりになりかねない。
当分は学堂の保護を離れず、普段どおりに振る舞うべきだった。
酒虫の出所については、最後の化石で説明できるようにしてある。
だが、今は自分から来歴まで語る時ではない。
ルイスが消えた直後に、余計な注目を集めるべきではなかった。
騒ぎが収まるまでは、修練に集中すればいい。
酒虫があれば、蒼緑色の精神力を安定して作れる。
このまま空界の強化を続ければ、一環中位へ進む日も遠くなかった。
カイの試練に挑むのは、それからでいい。
少しでも力をつけておけば、突破できる見込みも高まる。
外道精霊使いの遺産に、危険がないはずはなかった。
カイは継承者に、ローデン一族を一人残らず殺せと求めている。
そんな男が、試練に挑む者の命を気遣うとも思えない。
雨粒が絶え間なく傘を叩いていた。
ラインは滑りやすい山道を歩きながら、冷たい笑みを浮かべた。
予定は崩れ、調査も迫っている。
山の奥には、何が待つか分からない五環の遺産が眠っていた。
危険は増えた。
だからこそ、少しは面白くなってきた。
しばらく歩いたところで、ラインは一度だけ振り返った。
商隊が消えた方角へ、静かに語りかける。
「ルイス。本当に、お前を殺すつもりはなかった」
その声に、感情の揺れはなかった。
「よく働きそうな駒だっただけに、残念だ」
いつもお読みいただきありがとうございます。
これまでかなり速いペースで更新してきましたが、さすがにストックが減ってきました(笑)
最近は作者本人の生活にも少し変化があり、執筆に使える時間が以前より少なくなってきました。
そのため、今後はしばらく一日二回更新に変更します。
更新時間は、12:10 18:10の予定です。
更新回数は少し減りますが、その分これからも安定して続けていけるよう頑張りますので、引き続きよろしくお願いいたします。
また、近いうちに新しい連載を始めるかもしれません。
今度は勘違い系の異世界転移もので、全体的には比較的ゆるく、明るめの雰囲気になる予定です。
そちらも始まりましたら、ぜひ覗いていただけると嬉しいです。




