36.五月の商隊、記憶に眠る翠玉蝶
五月は、春から夏へ移り変わる頃だった、春の涼しさは、まだわずかに残っている。
だが、日差しには初夏の暖かさが混じり始めていた。
ヴェルデン山では草木が生い茂っている、斜面のあちこちでは、野花が咲き始めていた。
青茅竹も変わらず真っすぐ林に立っている。
細長い葉が風に揺れ、互いに擦れ合っていた。
空気には青草と湿った土、それに花粉の匂いが混じっている。
山腹には、幾重にも重なる畑が広がっていた、若い麦が風に揺れ、緑の波を作っている。
そこで働くのは、ローデンの姓を持たない住民たちだ。
水路を掃除する者もいれば、腰をかがめて雑草を抜く者もいた。
ローデン一族は土地と精霊を支配しており、自ら農作業をする者はほとんどいない。
チリン、チリン――
山の麓から、荷獣の鈴が澄んだ音を響かせた。
畑で働いていた人々は手を止め、音が聞こえた方角へ顔を向ける。
色鮮やかな商隊が、山道の向こうから姿を現した。
先頭の荷獣はすでに曲がり角を抜けている。
だが、後ろの隊列はまだ森の中に隠れていた。
遠目には、長い蛇がゆっくり進んでくるように見える。
「商隊だ!」
「もう五月だぞ。ようやく来たんだな」
大人たちは安堵の息をついた。
近くの子供たちは手にした泥を放り出し、興奮しながら山の麓へ駆けていく。
彼らにとって、年に一度しか来ない商隊はどんな祭りよりも楽しみなものだった。
南域には、山々がどこまでも連なっている。
ヴェルデン山も、その中の小さな一角にすぎない。
人々は一族ごとに集落を築き、
山中の水源や鉱脈、猟場を支配していた。
山と山を結ぶ道は険しい、道中には猛獣や危険な精霊も生息している。
普通の人間が、こうした山々を一人で越えるのは難しい。
精霊使いでも、単独で遠出するには最低でも三環に達している必要があった。
多くの集落では塩や薬草、金属製品を自給できない。
精霊の餌まで、すべて揃えるのはさらに難しい。
そのため、地域間の交易は大型商隊に頼っていた。
商隊には、大勢の精霊使いと武装護衛が集まっている。
荷運び用の精霊も数多く連れていた。
交代で見張りを行い、獣の群れや悪天候にも全員で対処する。
それほどの規模があって初めて大量の荷物を別の山まで安全に運べるのだ。
商隊が到着したという知らせは、
長く静かだったヴェルデン山を一気に騒がせた。
「例年なら四月には来るはずなのに、今年は丸ひと月も遅れたな」
知らせを聞いた宿屋の主人はようやく胸をなで下ろした。
宿屋は普段、客が少ない。
商隊が滞在する時期に稼がなければ一年分の十分な利益を得ることはできなかった。
何か月も空いたままの客室もこれでようやく埋まるだろう。
主人が蓄えていた青竹酒も遠方から来た商人たちへ売ることができる。
近くの酒場や商店も、急いで準備を始めていた。
狩人は獣皮を持ち出し、採集者は集めておいた薬草を整理している。
住民たちは皆、この数日を利用して普段は買えない品を手に入れようとしていた。
商隊がゆっくりとローデンの集落へ入ってくる。
その先頭を進んでいたのは宝山蟇だった。
体高は、およそ二メートル半、全身は鮮やかな橙色をしている。
広い背中には硬い突起が並びまるで城門に打ち込まれた鋲のようだった。
大量の木箱が太い縄で背中に固定され、ほとんど小山のように積み上がっている。
専用の鞍には、体格のよい中年男が座っていた。
丸みを帯びた顔には小さなくぼみがいくつも残っている。
男は笑うたびに両目を細め沿道の住民たちへ何度も手を振っていた。
彼の名は、オスカー・ベルナー。
四環の精霊使いであり、この商隊を率いるリーダーでもあった。
宝山蟇が跳ねるたび、
オスカーの姿は二階の窓と同じ高さまで持ち上がる。
着地したあとも、その背中は普通の家の一階部分より高かった。
それだけで、広い通りが急に狭く見える。
宝山蟇の後ろには全長十五メートルほどの黒い巨大虫が続いていた。
両目は色ガラスのように輝き、分厚い甲殻にも大量の荷物が固定されている。
精霊使いたちは木箱の間に座り、武装護衛はその両側を歩いていた。
護衛の多くは軽装の鎧を身につけ、腰には短剣やクロスボウを下げている。
ローデンの領内へ入ってからも彼らは完全には警戒を解いていなかった。
この地まで無事にたどり着いたこと自体が彼らの実力を示している。
隊列には、鮮やかな羽を持つ巨鳥や、
山岳大蜘蛛、翼蛇なども混じっていた。
だが、最も数が多いのは荷を背負った大蟇だった。
大蟇は牛や馬ほどの大きさがあり荷物だけでなく旅人も背中に乗せている。
巨鳥は、軽くて高価な品を運ぶのに向いていた。
山岳大蜘蛛は、険しい斜面でも進むことができる。
大蟇は足こそ遅いが、体力があり飼育もしやすい。
そのため、商隊の荷物の大半を運んでいた。
子供たちは隊列を追いかけ、興奮した声を上げている。
通りに面した家々の窓も、次々と開いていった。
慎重に様子を眺める者もいれば、
商隊へ向かって大きく手を振る者もいた。
「オスカー、今年はずいぶん遅かったな。長旅、ご苦労だった」
族長ハクは通りの入口まで自ら迎えに出ていた。
オスカーは四環の精霊使いだ。
三環の长老だけを迎えに出せば軽く扱われたと思われかねない。
そのため、ハク自身が出迎える必要があった。
「今年は、道中がずいぶん荒れていましてね」
オスカーは右手を胸に当て、ハクへ向かって一礼した。
「途中で血影蝙蝠の群れに遭い、護衛も何人か失いました」
「絶壁山では濃霧に遭い、晴れるまで動けなかったのです。」
「そのせいで、到着が今日まで遅れました」
ローデン一族には商隊が運んでくる物資が必要だった。
商隊にとっても安全に取引できる場所は欠かせない。
双方とも、この協力関係を重く見ている。
「無事に着いたなら、それでいい」
ハクは道を空け、集落の奥へ手を向けた。
「歓迎の宴を用意してある。まずは、旅の疲れを癒やしてくれ」
「では、お言葉に甘えるとしましょう」
オスカーは笑顔で招待を受け入れた。
商隊は朝にヴェルデン山へ到着し正午にはローデンの領内へ入った。
夕方になる頃には、集落の外に大規模な臨時マーケットが作られていた。
色とりどりのテントが広い土地を埋め、
その間には小さな露店が並んでいる。
各地から運ばれた香辛料や道具、布地や精霊の餌が次々と店頭に並べられた。
夜になると、無数の明かりが市場を照らした。
集落からも住民や精霊使いが集まってくる。
子供たちは人混みの間を走り回り、大人たちは店ごとの値段を比べていた。
辺りは、祭りの夜のように賑わっている。
ラインも一人で人混みに入り、臨時マーケットの奥へ進んでいた。
通りの両側には露店が隙間なく並び、テントには絶えず客が出入りしている。
多くの人が、数か月かけて貯めた霊石を持ち出した。
精霊使いたちも必要な精霊や餌を探して歩いている。
商人の呼び声が、四方から飛び交っていた。
「高級な固形茶だ!飲めば頭が冴え、茶精の餌にもなる!」
「一つ、霊石五個だ!」
「牛力蟋蟀だ!使えば牛並みの力が手に入るぞ!」
「今夜を逃せば、次はない!」
「採れたての知心草だ!」
「一袋、たったの霊石二個!」
最後の呼び声を聞き、ラインはわずかに足を緩めた。
顔を横へ向け、その露店を眺める。
テントの横には、二輪の荷車が止められていた。
荷台には、薄い桃色を帯びた緑の草が山のように積み上げられている。
一本の長さは、およそ一メートル。
葉は細く、一部の先端には赤いハート形のつぼみがついていた。
知心草は、精霊用の補助飼料だった。
ほかの餌に混ぜることで、一度の食事に必要な量を減らすことができる。
月印は、一度に月蘭の花びらを二枚食べる。
だが、知心草を一本添えれば花びら一枚だけで満足させられた。
一袋あれば、何度も使うことができる。
長く使えば、餌代を大きく減らせるだろう。
ラインはすぐに値段と効果を計算した。
それでも、露店へ近づくことはなかった。
半月前、ラインは学堂で月印を使った罰として霊石三十個を支払っている。
その後、コア家から同額の賠償を受け取ったため、差し引けば実際の損失はなかった。
学員たちから二度にわたって集めた霊石は合計で百十八個になる。
それまでの蓄えも合わせれば、一時は十分な余裕があった。
しかし、修練に必要な費用も大きい。
ラインは酒虫で精神力を中位へ練り上げ、それを使って空界の壁を強化している。
精霊の餌や生活費、青竹酒を買うための金も必要だった。
その結果、手元に残った霊石は九十八個しかない。
九十八個は、一見すれば大金だ。
だが、毎日全力で修練を続ければ、空界の強化だけで霊石三個ほどを消費する。
このままでは、一か月も経たないうちに、再び霊石が足りなくなる可能性があった。
ラインに必要なのはただ出費を抑えることではない。
新しい収入源を見つけることだった。
アノを殺して以来、ラインへ挑もうとする学員はいなくなった。
学堂の出口を塞いでも反抗する者はごく僅かしかいない。
そのため、この収入はかえって安定していた。
知心草を買えば、確かに餌代を減らせる。
だが、今のラインにとって、霊石よりも貴重なのは時間だった。
(記憶違いでなければ、翠玉蝶は、この先の店にある)
前世では、ある精霊使いが商隊が到着した初日の夜にその店の賭けへ参加した。
そこで偶然、翠玉蝶を手に入れている。
その後、彼は翠玉蝶を利用し、驚くほど大きな利益を稼ぎ出した。
この機会が存在するのは、今夜だけだ。
誰かが先に翠玉蝶を見つけてしまえば、前世の記憶があっても奪い返すのは難しい。
商隊が滞在する期間は限られている。
露店の商品も、次々と別の客へ売られていく。
今夜を逃せば明日にはすべてが変わっているかもしれない。
ラインは知心草から目を離し、市場のさらに奥へ歩き始めた。
僅かな餌代を惜しんで翠玉蝶を逃すほうが、よほど大きな損失だった。




