32.迷いのない月刃、乱れのない足取り
ラインが一時的に得ていた優勢は、長くは続かなかった。
激しい接近戦を繰り広げたことで、彼の呼吸はすでに大きく乱れている。
対するアノはまだ平静な呼吸を保っており、二人の体力には無視できない差があった。
身体が温まるにつれて、アノは夜の冷気によるこわばりから抜け出していった。
拳の速度も次第に上がり、長年の訓練で培った本来の実力を見せ始める。
「小僧、お前では俺に勝てん!」アノは拳でラインを後退させ、凶悪な笑みを浮かべた。
「学堂の規則では、敷地内で精霊を使って他人を攻撃することは禁止されている。」
「月印を使えないお前は、今日こそおとなしく俺と一緒にリリア様のところへ来るしかない!」
アノは言葉でもラインの戦意を削ろうとしたが、その表情は少しも変わらなかった。
今の身体はまだ十四歳で、成長しきっていない。
力も体力も、最も体力が充実している年齢のアノに及ばないことは、最初から分かっていた。
五百年の経験に磨かれたラインの意志が、この程度の脅しで揺らぐはずもない。
(月印)
ラインは精神力を動かしながら後ろへ跳び、アノとの距離を取った。
右手のひらに移った月印が、淡い青色の光を放ち始める。
追撃しようとしていたアノは、その光を見るなり顔を険しくした。
「小僧、学堂の中で精霊を使って他人を攻撃すれば、明らかな規則違反だぞ!」
「だから何だ?」
ラインは冷たく笑った。
学堂の規則を把握しているのは、すべてに従うためではない。
いつ利用し、いつ無視するべきか。
そして破った場合、どれほどの代償を払うことになるのか、それを見極めるためだった。
ラインが右手を上げ、前へ振り下ろす。
鋭い音とともに、水色の月刃が手のひらから飛び出し、アノの顔を目がけて一直線に飛んだ。
アノは歯を食いしばり、両腕を顔の前で交差させた。
それでも足は止めず、月刃を受けながらラインへ突進する。
二発目を放たれる前に距離を詰め、そのまま戦いを終わらせるつもりだった。
月刃が両腕へ食い込み、肉を切り裂く鈍い音が響いた。
血飛沫が夜明け前の空気へ散り、激痛がアノの全身を駆け抜ける。
アノの足が止まった。あまりの痛みに意識を失いかけながら、恐怖に満ちた目で自分の腕を見る。
二本の前腕には横一文字の深い傷が刻まれ、白い骨まで露出していた。
血が肘を伝って絶え間なく流れ落ち、片方の骨にははっきりと亀裂が入っている。
「あり得ない……」
アノの顔から血の気が引いた。
「一環初位の月刃なら、切れるのは皮と肉までだ....」
「骨を傷つけられるはずがない。この威力は……一環中位だ!」
アノは知らなかった。
ライン自身はまだ一環初位だが、酒虫を使えば、精神力だけを一環中位まで精錬できる。
中位の精神力で動かした月印から放たれる月刃は、
普通の一環初位とは比べものにならない威力を持っていた。
(こいつはおかしい!)
予想もしなかった重傷によって、アノの戦意は完全に折れた。
ラインを捕らえて報酬を得ようという考えも消え、その場で背を向けて逃げ出す。
「今になって逃げるのか?」
ラインは冷笑しながら追いかけた。その手のひらでは、再び水色の光が輝き始めている。
「助けてくれ! 誰か、俺を助けろ!」
アノは走りながら必死に叫んだ。
その声は夜明け前の静かな学堂に響き渡り、近くを巡回していた護衛たちの耳にも届く。
「誰かが助けを呼んでいるぞ!」
「昨夜、リリア様が残していった使用人だ!」
護衛たちは声を追って駆けつけ、ラインに追われるアノを発見した。
すぐに周囲の通路を押さえたが、誰一人として助けに入ろうとはしない。
「ただのコア派の使用人だ。あいつを助けるために、ローデンの生徒を敵に回す必要はない」
「昨夜、宿舎区へ入るのを許した時点で、コア派には十分な配慮を見せている」
「それより、追い詰められたアノが逆上し、ライン様を傷つけないよう見張っていろ」
護衛たちにとって、アノがここで死んでも、コア派が使用人を一人失うだけだった。
しかし、ラインが学堂内で死亡したり重傷を負ったりすれば、責任を問われるのは自分たちである。
誰も助けようとしないのを見て、アノの中に残っていた最後の希望も消えた。
「俺たちは同じローデン一族に仕える者だろう! 見殺しにするつもりか!」
それでも叫び続けたが、失血によって身体は急速に重くなっていく。
走る速度も落ち、ラインとの距離は少しずつ縮まっていた。
「好きなだけ叫べ」
背後から聞こえるラインの声は、ぞっとするほど落ち着いていた。
「どれだけ大声を出しても、誰もお前を助けない」
言い終えると同時に、ラインは続けざまに右手を振った。
二発の月刃がほとんど間を置かずに飛び出し、アノの首へ正確に命中する。
首筋に冷たい感触が走り、アノの視界が激しく回転した。
自分の両脚と胸、そして背中が見えた。
その先では、頭を失った自分の身体が、まだ前へ向かって走り続けている。
次の瞬間、すべてが暗闇に包まれた。
アノの頭が宙を飛び、道の脇へ落ちる。
頭を失った身体は勢いのまま十数メートル走ってから、地面へ激しく倒れ込んだ。
切断された首から大量の血が噴き出し、周囲の草と石畳を瞬く間に赤く染めていく。
「殺した……」
一人の護衛が、思わず声を漏らした。
「ライン様が、アノを殺した……!」
その場にいた護衛たちの身体が一斉にこわばった。
目の前にいるのは、細い身体をした十四歳の少年にすぎない、
それなのに、屈強な成人男性をためらうことなく殺してみせた。
これが、精霊使いと普通の人間の差だった。
戦いを終えたラインは足を緩め、倒れた死体へ静かに近づいた。
その表情には動揺も興奮もなく、まるで日常の用事を一つ済ませただけのようだった。
その落ち着きが、かえって護衛たちに強い恐怖を与える。
アノの頭は道の脇に転がり、両目を大きく見開いたままだった。
ラインはその前まで来ると、表情一つ変えず、足先で頭を遠くへ蹴りやった。
護衛たちの顔が同時に引きつったが、誰も止めようとはしなかった。
頭を失った身体はまだ微かに痙攣し、流れ出した血が地面に大きな水たまりを作っている。
ラインは両腕と首の傷を順番に調べると、次第に表情を険しくした。
傷が深すぎる。
一環初位の月刃が残す傷としては、明らかに威力が高すぎた。
これを見た者がラインの中位精神力に気づけば、どこでその力を手に入れたのか調べ始めるだろう。
酒虫の存在が知られれば、一族の上層部はすぐに酒飲のカイが残した遺産へ考えを巡らせる。
この秘密は、何としても隠さなければならない。
ラインが周囲を見回すと、すでに十数人の護衛が集まっていた。
残っている精神力は十パーセントにも満たない。
目撃者全員の口を永遠に閉ざそうにも、今の力では不可能だった。
短く考えたあと、ラインは腰をかがめ、アノの足首をつかんだ。
そのまま頭のない死体を引きずり、宿舎へ向かって歩き始める。
「ライン様、死体の処理は我々にお任せください」
恐怖を押し隠しながら、数人の護衛が恐る恐る近づいてきた。
その態度はひどく丁寧だったが、声に混じる怯えまでは隠せていない。
ラインは足を止め、集まった護衛たちを静かに見回した。
全員がほとんど同時に息を止め、その視線から逃れるように顔を伏せる。
「その剣を渡せ」
ラインは一人の護衛へ手を差し出し、拒絶を許さない口調で命じた。
最も近くにいた護衛は何も尋ねず、すぐに腰の剣を外して両手で差し出した。
ラインはそれを受け取ると、再び死体を引きずって歩き始める。
十数人の護衛はその場に残り、誰一人として口を開かないまま、遠ざかっていく背中を見つめていた。
朝日が山の稜線を越え、静かな学堂を照らし始める。
十四歳のラインはまだ身体も細く、精神力を使いすぎたことで顔色も青白かったが、
その足取りは少しも乱れていない。
左手には抜き身の長剣を持ち、右手では頭のない死体を引きずっている。
石畳には長い血の跡が残り、宿舎へ向かってどこまでも続いていた。
同じ朝日を浴びているはずなのに、護衛たちは少しも暖かさを感じなかった。
身体は今も、夜明け前の冷気に包まれているようだった。
誰かが、乾いた喉を鳴らした。




