30.開かれた扉、見えない檻
「……何?」
リリアは眉をひそめ、怒りをあらわにした。
ここに来てようやく、宿屋から学堂まで、ずっとラインにからかわれていたのだと理解する。
「随分な度胸ね。この私までからかうなんて!」
右手を伸ばし、部屋へ踏み込んでラインを捕まえようとする。
しかし、ラインは一歩も退かず、笑いながら彼女へ警告した。
「リリア、入る前によく考えたほうがいい」
リリアの動きが止まった。
彼女はまだ部屋の外に立ち、伸ばした手を宙に浮かせたまま、怒りと迷いの入り混じった表情を見せる。
学堂の規則は明確だった。
生徒は宿舎の中で保護されており、誰であろうと勝手に部屋へ侵入し、生徒を連れ出したり傷つけたりしてはならない。
リリアはラインへ少し痛い目を見せるつもりで来ただけだ。
この程度のことで、学堂の規則を公然と破るつもりはなかった。
自分一人が罰を受けるだけなら、まだ耐えられるかもしれない。
しかし今、コア派は他の派閥から厳しく監視されている。彼女の行動が、祖父にまで迷惑をかける可能性もあった。
そこまで考え、リリアは渋々手を引いた。
敷居を挟んでラインを睨みつける。その視線が炎に変わるのなら、ラインはとっくに灰になっていただろう。
「私は一度も、お前を騙していない」
ラインは両手を背中へ回し、平然と彼女の視線を受け止めた。
「ラインを見つけると約束し、実際にここまで案内した。もう目的は果たしたはずだ」
「それとも、まだ私に何か言いたいことがあるのか?」
二人の距離は、わずか一歩。
ラインは部屋の中に立ち、リリアは廊下に立っている。
開け放たれた扉は何も遮っていなかったが、敷居の向こうにある学堂の規則が、その一歩をひどく遠いものにしていた。
「学堂の規則を、随分よく調べているようね」
リリアは怒りを押さえ込み、冷たい笑みを浮かべた。
「でも、ここに隠れていられるのも今だけよ。いつまでも宿舎から出ないわけにはいかない」
「どれだけ長く隠れていられるか、見せてもらおうじゃない」
「それなら、私はお前がどれだけ長く廊下に立っていられるのか見てみたい」
ラインは少しも気にせず答えた。
「もう夜だが、私には眠るためのベッドがある」
「もし明日、私が授業へ出なければ、学堂長老は理由を調べるだろう。そのとき、私が今夜のことをどう説明すると思う?」
「お前!」
再び怒りを爆発させたリリアが、指を突きつける。
「本当に、私が中へ入ってお前を捕まえられないと思っているの?」
蝶番が小さな音を立てた。
ラインは扉をさらに押し開き、半歩後ろへ下がって、入口を完全に空ける。
その口元には、まだ薄い笑みが残っていた。
「それなら、入ってくればいい」
だが、リリアはかえって冷静になった。
目を細め、何かを探るようにラインの様子を観察する。
「わざと挑発すれば、私が思いどおりに動くとでも思った?」
ラインは肩をすくめ、何も答えなかった。
この反応も、初めから予想していた。
扉が閉じられていれば、リリアは余計に腹を立て、力ずくで押し入ろうとしたかもしれない。
しかし、ラインが自ら道を空けて中へ招くと、今度は罠があるのではないかと疑い、その先に待つ結果を恐れるようになる。
五百年を生きたラインにとって、こうした心理は見慣れたものだった。
彼はリリアの前で背中を向け、まったく警戒することなくベッドへ腰を下ろした。
今なら、リリアが手を伸ばすだけで、簡単に捕まえられる。
それでも彼女は部屋の外から動かなかった。
まるで目の前に、見えない壁でも立っているかのようだった。
(人間とは、ときにこういうものだ)
本当に人の行動を止めるものは、扉の鍵や武器、力とは限らない。
その人自身が信じ、恐れている規則のほうが、はるかに強いこともある。
今のラインでは、正面から戦ってもリリアには勝てない。
彼女は二環中位の精霊使いであり、二人の間には数歩の距離しかない。
それでもリリアは、ラインがベッドへ座る姿を見ていることしかできなかった。
敷居を越えれば簡単に捕まえられるのに、その一歩を踏み出せない。
人が規則を学ぶのは、世界の仕組みを理解し、その範囲内で自分の利益を手に入れるためだ。
だが、身につけた知識が自分の手足を縛るだけなら、規則はもはや道具ではない。
牢獄だ。
ラインはリリアへの興味を失い、ゆっくりと目を閉じた。
そのまま意識を霊海へ沈めていく。
「私の目の前で、瞑想を始めた……?」
リリアの胸に、再び激しい怒りがこみ上げた。
今すぐ部屋へ飛び込み、ラインを何度か殴りたい。だが、それができないことも分かっている。
さらに腹立たしいことに、アノがすぐそばに立ち、すべてを見ていた。
リリアは数人の使用人を連れて宿屋へ向かい、弟のためにラインへ警告を与えるつもりだった。
ところが、学堂まで騙されるように連れてこられ、今は完全に開いた扉の前で足止めされている。
このまま帰れば、ラインに何もできなかったと認めるようなものだ。
かといって立ち続けても、状況はさらに滑稽になるだけだった。
リリアは諦めきれず、廊下からラインを怒鳴りつけた。
「ライン、度胸があるなら出てきなさい! 学堂の規則に隠れることしかできないの?」
「さっきまで私を騙していた威勢はどこへ行ったのよ。」
「聞こえないふりをしていないで、出てきて私と向き合いなさい!」
ラインは何も答えなかった。
呼吸は最初から最後まで穏やかで、扉の外から聞こえる声など存在していないかのようだった。
怒鳴れば怒鳴るほど、リリアの胸には苛立ちがたまっていく。
やがて、自分一人だけが扉の前で騒ぎ、芝居をしているように思えてきた。
「もう、本当に腹が立つ!」
ついに諦めたリリアは、強く床を踏みつけた。
「ライン、今夜はここに隠れていればいい。でも、いつまでも出てこないわけにはいかない」
「このままで終わると思わないことね」
立ち去る前に、リリアはアノへ命じた。
「お前はここに残り、ラインを見張りなさい。宿舎から出たら、すぐに私へ知らせるのよ」
「かしこまりました、リリア様!」
アノはすぐに返事をし、リリアが去っていく姿を見送った。
しかし心の中では、たまったものではないと嘆いていた。
ヴェルデン山の夜は、湿気が多く冷え込む。
本当に中庭で一晩中見張ることになれば、翌朝には風邪を引いているかもしれない。
部屋の中では、ラインの意識に映る霊海が、ゆっくりと波打っていた。
青銅色の精神力が波となり、空界を囲む白い光の膜へ何度も打ち寄せる。
波がぶつかるたび、膜の表面には細かな光の波紋が広がっていった。
時間が過ぎるにつれ、霊海の水位は少しずつ低下していく。
四十四パーセントあった精神力は、やがて十二パーセントまで減っていた。
一環初位の精霊使いが持つ空界は、白い光の膜に囲まれている。
中位へ進むと、その膜は流れる水のようなものへ変わり、上位ではさらに固まって石の膜となる。
ラインが初位から中位へ進むには、精神力を使って空界の膜を強化し続けなければならない。
白い光の膜が完全に水の膜へ変わったとき、初めて一環中位へ到達できる。
五百年分の記憶を持つラインは、この段階の修練方法を知り尽くしていた。
誰かから指導を受ける必要などない。
再び目を開けたとき、夜はすっかり深まっていた。
細い月が空高く浮かび、冷たい白銀の光が、開いたままの扉を通ってベッドの脇と床へ差し込んでいる。
山から吹き込む夜風も、部屋の空気をさらに冷たくしていた。
ラインは体を温める精霊を持っていない。
まだ成長しきっていない少年の体では寒さを防ぎきれず、思わず小さく身震いした。
「ようやく目を覚ましたか、この小僧!」
扉の外にいたアノが、すぐに声を上げた。
「いつまで瞑想を続けるつもりだ。早く出てこい」
「お前はノア様を傷つけたんだ。リリア様が必ず代償を払わせる。ここに隠れ続けても無駄だぞ!」
ラインは目を細めた。
どうやらリリアはすでに帰り、監視役として、この使用人だけを残したらしい。
ラインは返事をせず、袋から霊石を一個取り出して手の中に握った。
「聞いているのか? お前には部屋もベッドもあるのに、俺は外で一晩中冷たい風に吹かれなければならないんだぞ!」
ラインが再び瞑想を始めようとしていることに気づき、アノはさらに声を大きくした。
「それでも出てこないなら、今度こそ中へ入るからな!」
ラインは相手にせず、静かに目を閉じた。
手の中にある霊石から、蓄えられていた精神力を吸収し始める。
「このろくでなし! コア派を敵に回して、これからも平穏に暮らせると思うなよ!」
「今すぐ出てきてリリア様へ謝れば、まだ許していただけるかもしれないぞ!」
それでもラインは反応しなかった。
無視され続けたアノは、ますます声を荒らげる。
「下等資質のお前が、どれだけ必死に修練しても、せいぜい二環止まりだ!」
「一人きりのお前が、何を使ってコア派全体と戦うつもりなんだ。聞いているのか!」




